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物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

摂津 渡辺津

2021-11-11 | 行った所

渡辺綱は鬼退治でしられた勇者だが、父は源宛という。河原左大臣と呼ばれた嵯峨源氏の風流貴公子源融の曾孫だそうだ。今昔物語では宛は武蔵の武者で平良文と争う話がある。
綱は母方の縁で摂津渡辺に住まいし、渡辺を名乗る。摂津源氏の源頼光に仕え、四天王の筆頭とされる。
綱の子孫は淀川河口の港湾を握る渡辺党として活躍した。 
瀬戸内を制した平家とはどのように棲み分けたのだろうか。
平家物語第4巻の「競のこと」は渡辺競(きおう)の話だ。以仁王の乱で挙兵した源頼政の郎党渡辺競は平宗盛を翻弄し、頼政との信頼関係の強さが語られる。宇治川を挟んでの戦いに敗れた頼政たちは次々に討ち死にし、また自害する。競も腹をかききって自害する。渡辺党の多くがここで死ぬ。

平家物語第11巻「逆櫓」元暦2年(1184)平家は屋島にある。義経は都を発って摂津国渡辺よりふなぞろへして屋島へ寄せんとす。折からの暴風雨、梶原景時らの猛反発の中、強引に出港する。

↑平家物語絵巻 出港する義経

渡辺津は現在の天満橋と天神橋の間付近だという。

 天神橋付近

 天満橋を見る

もっと西に渡辺橋という橋があるのでその辺かと思っていた。中之島はあったのだろうか?天満橋から福島に掛けて、河口とも入江ともつかぬ風景が広がっていたのだろうか。

 

ともかく現代の地形とは全然違う。天満橋の南には大阪歴史博物館があり、

 すぐ難波の宮跡が見下ろせる。大阪城も東に隣接する。難波の宮は都へ外国の文物情報の入口だった。すぐ近くに港があったという。

渡辺津は長く栄え、近世まで京-大阪間の行き来に川船が利用され、特に8軒の船宿があったことから八軒屋と呼ばれた。

新選組と攘夷派のグループが、それぞれ贔屓の船宿があったなんて、面白すぎる。

平安時代末期、天皇を辞し、責任を回避し権力だけは保持することに成功した治天の君達、白河・鳥羽・後白河は熊野詣に熱狂するが、そのルートは、鳥羽の城南宮付近に寄り、鳥羽殿の南で賀茂川等と合流する桂川に船出する。川は名前を淀川と変えて大阪湾へ向かう。

↑ 鳥羽の城南宮の案内板

上陸地が渡辺津である。

 

 ここから陸路九十九王子と呼ばれる休憩所に寄りつつ熊野を目指す。渡辺津に次いで必ず寄ったであろう所は四天王寺となる。

 熊野への道

渡辺の津は、更に鎌倉時代、東大寺の再建に活躍した重源の拠点ともなっていた。



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