物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

信貴生駒スカイライン

2022-06-29 | 行った所

王子から信貴山に登り信貴生駒スカイラインにはいる。朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)は行ったことがあるし混んでいそうだったのでパス。松永弾正の信貴山城というのはどのへんだろう?と思うがそれらしい案内は何もない。道は曲がりながらも北上していくのである。

  十三峠というところに展望台があった。大阪の街並みが見下ろせるが、どこがどこやら。偶々一緒になった大阪の人がアベノハルカスなど教えてくれた。


さらに北上すると展望台がある。460メートル+12メートルの高みとなるらしい。
西 奈良方向

  南 葛城・金剛が見えるようだ

  北 まだ生駒が続くようだ

  国定公園の碑と眺望案内 ここは大阪方面しか見えない
歩いて登ってくる人が結構いた。

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今井町(樫原市)

2022-06-29 | 行った所

樫原に商人町の街並みが残っているとは知らなかった。


豪商らしい家が残っているし、栄えた町だろうとは思われるが、何かの産業で大きく発展したというのでもないらしい。松坂市の資料館で見たそれの方がよほど商売の実態が分かった気がする。それでいて大和の富の7割は今井に集まるといわれたらしい。商社的な商人の集まりだったのだろうか。

 

 

 今井町資料館

大和は寺社勢力、特に興福寺が強く、鎌倉・室町の武家政権も守護を置くこともできなかった。戦国期になると力をつけた国人が現れ、一層混乱する。そこに一向宗が入って行った。

 葛城資料館のパネルから


単なる農村集落であったらしい今井は寺内町へと変貌する。一向宗の本願寺と結んだ時、信仰と共に商業的ノウハウ、自治的な組織も入ってきたのか。自治都市は堺だけではなかったのだな。

今井宗久という名が思い浮かぶのだが、何の関係もないのだろうか、展示されているものにはないようだ。

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泊瀬朝倉宮伝承地(桜井市)他

2022-06-29 | 行った所

倭王武=わかたける=雄略というのはほぼ定説だが、その宮、初瀬朝倉宮は確定してはいない。桜井市の初瀬川が作る谷を僅かに入った所であろうし、付近に伝承地もいくつがある。脇本遺跡が発掘調査され、有力視されている。


初瀬川沿いのちょっと小高い所、太い大きな柱を高々と立て、屋根には千木・鰹木を飾ったような、宮がそびえる。ふと柱の奥には大王と気に入りのものだけが出入りする部屋が続く。宮の前には広場がある。そこに臣としての者たちが集まる。
「やまとべに 見まほしものは 忍海の この高きなる 角刺の宮」はワカタケルより後の時代、イイトヨノアオヒメの宮の歌。
ワカタケルの祖父に当たるはずのオオササギ(仁徳)の后に葛城氏からなったイワノヒメは実家を「葛城高宮」と誇った。
礎石を置かない掘っ立て柱の建物ではあろうが、見上げるほどに高い建築物。床を張り、快適であったろう。
馬屋もそばにあったろうか、大王には愛馬がいたに違いない。忠臣に与える銘の象嵌された太刀を作るような工房も近くにあったか。
衣類・装身具も近くで作ったか、献上品で間に合うものだったか。漢語を操り、上表文を起草できる人材も集まり、すぐにお召しに応じただろう。もちろん武官たちも。女たちも。
うっかり大王と女が共寝するところに入ったチイサコベノスガル。大王は照れ隠しか雷を掴まてこい、なんて無茶を言う。スガルは宮を出て南西方向へ走る走る。飛鳥の雷の丘で雷をとらえる。というのは「日本霊異記」だ。ここでは雄略に宮は磐余の宮となっている。磐余は桜井市でも、初瀬の谷を出て西の方になるようだ。

桜井市は三輪山の麓、箸墓古墳、纏向遺跡、どこをとっても古代史のメッカとなるようなところだ。
桜井市の埋蔵文化財センターの展示室へ行く。博物館としては小ぶりだが、さすがは桜井、地下に眠っていたものは多彩だ。ただ脇本遺跡に関する展示はほとんどないような。今のところ巻向メインと見える。

 春日神社


初瀬朝倉宮伝承地の一つ。南に降りていき165号線と当たる辺りが脇本遺跡らしいが、よくわからなかった。
 春日神社付近の伊勢街道案内。南北に延びる山の辺の道と西の二上山辺りから東に延びる横大路、それが桜井でぶつかる。横大路は伊勢街道として初瀬川沿いに登って行くのだろう。

 もう一つの伝承地 白山神社。

海柘榴市(つばいち)の方へ行ってみる。歌垣が盛んだったというがどんな風だったのか


 観音堂
狭い曲がりくねった道をどう抜けたか磯城瑞籬宮伝承地があった。

すぐ脇に天理教の建物がいくつもあった。

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唐古・鍵遺跡

2022-06-29 | 行った所

南北に細長く広がる大和平野、そのほぼ中央、若干南東寄りに唐古・鍵遺跡はある。唐古も鍵も遺跡・遺構の広がる土地の名だ。
発掘された弥生時代の最大の村落だ。
環濠をめぐらした村内から大規模建物の柱穴、楼閣が線刻された土器、遠い土地との交流を示す物品など様々なものが見つかっている。
どれも興味深いものだが、広い遺跡公園、木陰を拾うようにぶらぶら歩くのもいい。
東側に見える山並みは伊賀・伊勢へと続いていく山だ。その山裾を山の辺の道が南北に走る。そこには巨大古墳がいくつもあるが、この唐古・鍵の集落が栄えた時代より後のことだ。最盛期はずれるだろうが、巻向や布留の集落と並行していた時期もあったはずだ。隣村の感覚だろうか。敵対したこともあったのだろうか。

 田原本町の地図

 この図では集落を環濠が何重にも囲んでいるようだ

 

唐古・鍵遺跡を象徴する高楼だが、元ネタが土器の線刻というのは少し弱いかも。楼閣はともかく渦巻の軒端飾りはいったい何のため?

 姫川のヒスイの勾玉はともかくこの入れ物は他に例があるのだろうか

 

 

 

 

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法華寺 海竜王寺 不退寺 

2022-06-28 | 行った所

法華寺 言わずと知れた光明子の寺。以前も来たことはあるのだが、こぎれいにしている寺という印象しか持てず、光明子を模したという十一面観音は秘仏で、小さい模作が公開されているのだがどうも感心しない、というのは以前と変わらず、それでも場所の意味など把握できるようになっただけましか。

 法華寺庭園

 横笛堂

 横笛像
横笛堂などがあるのも初めて分かった。とはいえ滝口入道と横笛の話は好きにもなれない。若さ故といえばそれまでだが、どちらも思い込みが激しくやっていられない。がともあれ、平家物語第10巻「横笛」には建礼門院雑仕女横笛が滝口の武士斎藤時頼に言い寄られる。父に身分違いを説かれるも諦めきれない時頼は嵯峨野で出家する。それを聞いた横笛は嵯峨野に時頼を追うが、すげなくされる。横笛は法華寺にて出家するが、間もなく死ぬ。(岩波ワイド文庫:異本では大井川に身を投げて死ぬことになっているらしい)

 光明子が建てたとかいう蒸し風呂。どこまでが伝説なのか。

 

海龍王寺は法華寺の東に背中合わせの位置にある。光明皇后の皇后宮(藤原不比等の邸宅跡)の北東隅に建てられたことから隅寺。僧玄昉の寺だという。私は吉備真備といつもごっちゃにしてしまう。共に橘諸兄のもとで力を持つが、反発する勢力の藤原広嗣が乱を起こす。広嗣の乱はすぐ平定されるが、次に藤原仲麻呂が力を持つと筑紫に追放され、そこで死ぬ。吉備真備の方は仲麻呂の乱の平定に力を発揮する。とはいえ彼らはすでに高齢だった。

  

こういう小塔を見ると、何故大きな塔を必要としたのかと思う。仏舎利を入れるだけならこれで十分だったはずだ。三重塔・五重塔・現存例のない七重塔。莫大な資金と技術、建てずにはいられなかったのだろうか。

 

不退寺


法華寺や海龍王寺とは背景を異にする。平安時代、在原業平に縁がある。業平は平城天皇の孫だ。桓武が遷都した平城への遷都を画策したという平城だ、その子の阿保親王が平城京近くに居を持っていても不思議はないかもしれないが、平城上皇の乱(薬子の乱)を平らげた嵯峨の息子仁明が、この地に寺の創設を勅願するのは何故だろう。


伊勢物語には意外に奈良の話が出てくる。初冠(ういこうぶり)は奈良の話だ。

 不退寺多宝塔

 不退寺に古墳の石棺があった。ウワナベ古墳近くで掘り出され、鎌研ぎに使われていたという。


ウワナベ・コナベ・ヒシアゲ古墳、佐紀盾列古墳群を形成する堂々たる大古墳群だ。倭の五王の時代が始まるその直前、巨大な古墳群が百舌鳥・古市に築かれる前段階のものだといわれる。宮内庁の陵墓参考地だから本格的調査は行われていない。更にアクセスは悪い。

 北が右方向
ウワナベの直東を24号線が走る。左折できる道がない。漸く入ると自衛隊の敷地に阻まれる。ややこしいなあ。

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長屋王邸跡 三条二坊宮址庭園

2022-06-28 | 行った所

長屋王の父親は高市皇子だ。高市は天武の第一皇子ながら母は宗像氏からきた采女で身分はない。しかし壬申の乱で活躍し、皇位を窺うことなく持統にも忠節を尽くし、信頼されたという。つまり長屋王は天武の孫だ。柿本人麿は高市皇子に仕えていたらしく彼の死に挽歌を歌っている。長屋王の母は御名部皇女は天智の娘、即ち長屋王は天武の息子と天智の娘の子なのだ。直接帝位を窺う位置には無かったろうが、血統的に皇親として重きをなし、更に正妻の吉備内親王は草壁皇子と阿閇内親王(元明天皇)の子だ。兄・姉は文武・元正天皇だ。即ち吉備内親王自身即位の可能性も秘めていたということになる。長屋王も「王」のはずだが、出土木簡には「親王」とあった。天皇の子ではないが、事実上「親王」扱いだったのだろうか。長屋王と吉備内親王との間の子は更に血統が強化されている。
皇親の代表として長屋王は藤原氏と対立する。不比等の4人の息子たちは妹の光明子を聖武の皇后にしたい。皇后になれるのは天皇家の血筋のものだけ、妃・夫人・嬪(ひん)ならともかく天皇の死後即位の可能性のある皇后にはダメ、というのが長屋王の理屈と当時の慣習であった。
長屋王とその妻の血統に聖武の嫉妬もあったのだろうか、聖武は文武の息子だが母は藤原宮子、父子との娘で藤原4兄弟と姉妹だ。聖武はこの母に皇太夫人の称号を贈ろうとするが、長屋王に反対される。皇太夫人というのも何やらあいまいだが、それさえ贈れない女の息子だといわれたように思ったか知れない。
そんな劣等感が「長屋王は左道(呪術)を学び、呪っている」という讒言を信じる一因にもなったのだろう。
長屋王の舘はあっという間に兵に囲まれ、家族もろとも自殺に追い込まれる。長屋王には吉備内親王の外にも妻はいて、藤原不比等の娘の一人もいたのだが、彼女とその子供は脱出したようだ。
長屋王は血統がいいだけではなくかなり優秀な人材だったようだが、反面己を頼むところ大な驕慢なところもあったかもしれない。日本霊異記に奇妙な話がある。元興寺での法要のでぼろをまとった坊主が供物を勝手に食べていたのを、長屋王が咎め、笏で殴りつけ怪我をさせた、という物だ。説話自体はともかく、どこで恨みを買っていたかわからないという物だろうか。

 長屋王の邸は平城宮の東南角の一角を大きく占めていた。これより良い場所は不比等の邸で、光明子に譲られ、一部は法華寺として残っている。
長屋王の邸は大量の木簡史料が出たことで知られる。広大な場所に家族の住処だけでなく職人の工房のようなものもあった。貴族の住まいは貴族を頂点とする一つの企業体だったかもしれない。長屋王の変の後、そこに住まっていた人々もまた大きく運命を狂わせたのだろう。
長屋王邸跡は今はミナーラというショッピングセンターになっている。その前に案内板を残すだけである。

ところで古事記の太安万侶の住まいも墓誌からわかっている。

 左京四条四坊で長屋王邸からそれほど離れてはいない。ただこの条坊全部が安万侶の住処だったはずもない。同じような官人の住まいが犇めく地だったのか。

長屋王邸跡の前の道は大きく交通量のある道だが、それを挟んですぐに左京三条二坊宮跡庭園がある。

 歩道橋上から

 

長屋王邸にも池のある庭があったろうか

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多神社(おおじんじゃ) 太安万侶の墓

2022-06-28 | 行った所

田原本の唐古鍵遺跡は大和盆地のだいたい中央部にあるが、そこから南下、田原本町の最南端、樫原市と接するあたりに、「多(おお)」という集落がある。そこにある多神社は別名多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこじんじゃ)というが、太安万侶を祀るという。言わずと知れた古事記の安万侶。奈良時代の文官で古事記は元明天皇の命によるもので彼女に献上された。
意外に武官として戦功もあったのではないかという説もあるそうだ。多品治(おおのほんじ)の息子とされる系図もあるそうだ。もちろん後世のものなのだが、安万侶は多(太)氏の長になっているので、多(太)氏の有力者の子なのは間違いないのだろう。多品治は壬申の乱での活躍が伝えられる美濃の豪族の一人だ。

7世紀前半、蘇我蝦夷を中心に歴史を纏めようとする動きがあった。しかしそれ等の史料は乙巳の変(大化の改新)で甘樫丘にあった蝦夷館と共に灰燼に帰したといわれる。天武天皇がまとめようとしたことが端緒らしい日本書紀には大化の改新も壬申の乱も詳しく書く。勝者の勝者のための歴史のようだ。古事記で語られるのは推古までだ。継体以降、エピソード的なものはほとんど見えず、継体期に筑紫の岩井の乱がわずかにあるだけで、各大王のことは后と子供たちを列挙しているだけのようなものだ。稗田阿礼が覚えていたのはそこまででして、、、で通ったのだろうか。

 立派な神社である。

 本殿は工事中だった

 

太安万侶の墓はわかっている。珍しくも墓誌が発見されたからだ。奈良公園の南、高畑の百毫寺あたりから西へ5キロくらいだろうか、山間部と言っていいようなところで辺りは茶畑だ。もちろん安万侶の時代にお茶はない。


かなりの急斜面だ。

場所はわかるようになっているが、木炭を敷いた火葬墓については樫原考古学研究所付属博物館に遺物と墓のレプリカの方がよくわかる。

墓誌も展示されている。


太安万侶の墓の近くに光仁天皇の陵がある。久々の天智系の天皇、桓武の父だ。

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多武峰(とおのみね)談山(たんざん)神社

2022-06-28 | 行った所

西の方から桜井市街地に向かって走ると多武峰談山神社への看板があった。行ってみる。
倉橋という地名を見る。崇峻の宮は倉梯何とかの宮と言わなかったかと思い、この辺かなと思う。
聖林寺の近くを通る。

道は登り。多武峰(とうのみね)というからには山には決まっている。

談山神社(たんざん)は紅葉の名所だそうである。なるほど青紅葉も清々しく美しい。


乙巳の変(大化の改新)前、中臣鎌足と中大兄皇子がここで談合をしたという伝承を持つ。何か腹に一物ある者同士の秘密の会合、あまり印象はよくないか。
南淵請安の居所があり、そこで二人があっていたという話もあるらしい。
鎌足の墓は談山神社近くの御破裂山(ごはれつさん)にあるそうだ。御破裂山とは物騒な名前の山だが、国家の大事に鳴動する伝承があるとか。

藤原氏の寺社として発展を遂げたらしいが、興福寺・春日大社とは対抗関係だったのだろうか。
平安末には僧兵を擁し、結構ぶいぶい言っていたらしい。
藤原氏の全盛時代、どんな様だったかはわからないが、現存の建物は、戦国時代から江戸時代のものである。

 木造十三重塔
世界に現存一つだけの木造のものだそうだ。確かに十三重塔としては石造のものしか知らない。


鎌足というのもなかなか実態のわからない人物だが、妻にしていたのは天智から賜った采女だというから、長男定恵が天智の胤だった可能性もあるのか、天智の息子となれば厄介ごとの種、さっさと坊主にしたのもわからなくもないか。鎌足を渡来人の傀儡子にした小説を二つ立て続けに読んだが、あのイメージはどこから出てくるのか。

多武峰から西に降りる。降りたところは石舞台古墳だった。
こういう位置関係だったのか。石舞台から南に飛鳥川を遡って行ったところに南淵請安の墓はある。

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西大寺(大和西大寺)

2022-06-22 | 行った所

昔来たことがあるような気はするものの、大茶会のポスターがあったこと以外覚えていない。乗換駅に使っただけだったか。

京都の東寺と西寺の関係は朱雀大路を挟み、等距離にあった。平安京が造られたときに計画的に割り振られた区画だったのだろう。
西寺は衰え、今は礎石が残るだけだが、東寺の方は今もにぎわう。立派な塔は京都の象徴の一つと言っていいし、帝釈天像などは好みだな。月に一度市も立つ。
奈良の東大寺と西大寺の関係はだいぶ違う。平城京が東に大きくはみ出した外京を持っているのは藤原氏の本拠だったからだろう。その一角、若草山麓に聖武は寺を一つ立てる。そこに巡り巡って大仏を建てることになり、東大寺ができた。西大寺は後に聖武の娘孝謙が立てた。確かに平城宮よりは西にあるが、東大寺に比べるとずっと近い。現在奈良で西大寺というと寺の名前というより町の名前である。それも大阪の通勤圏の町で、街並みはすっかり大阪っぽい。
それでも西大寺はそれなりに大きな寺だ。広い境内を持ち、孝謙の創建当時の塔の礎石が基壇ごと残る。

 基壇から本堂を見る

 本堂から基壇

 「創建当時」と「最初に造られた」と意味不明な書き方だが、孝謙(称徳)天皇が計画したのは八角七重の塔で、実際に建てられたのは四角五重塔だった。この変更は孝謙(称徳)天皇の死後のことだろう。経費削減ということで間違いない。主導したのは藤原永手らしい。不比等の4人の息子の内の次男房前の息子が永手で、光明氏の子の称徳とは従兄になる。「日本霊異記」下巻36話「塔の層を減らし寺の幡を倒し悪法を得た話」は永手が地獄で報いを受けた話だ。

食堂院があったという井戸跡からはいろいろな遺物が発掘されている。

古びた鐘楼だったが、なんと多田院から移築したとある。

 摂津源氏の本拠ではないか。いったいどんな事情で運んだものか。

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斑鳩(藤ノ木古墳・法隆寺・中宮寺)

2022-06-21 | 行った所

飛鳥か斑鳩かという観光地である。飛鳥はいろいろな遺跡などがかなり分散してあるのでまだいいが、斑鳩は結局のところ法隆寺に集約されるので、人が集中する。比較的近い所から朝早くから動ける時がチャンスかと行ってみた。それに、樫原考古学研究所の博物館で藤ノ木古墳の展示を見たら、藤ノ木古墳へ行きたくなった。

斑鳩文化財センターは藤ノ木古墳の資料館ともいえるところだ。まずビデオでガイダンスしてくれる。
企画展として「大方家文書展」をやっていた。江戸時代中心だが戦国期からの文書もあるらしい。綿作についてや大塩平八郎の乱関係やらそれなりに面白かったが、当方基本知識がなさ過ぎてどうも。企画展の分の展示スペースが割かれ、藤ノ木の分が少なくしてしまっている、ということだった。それはいいが全部撮影禁止であった。とても親切な資料館ではあったのだが。
 文化財センター前にあった藤ノ木の石棺のレプリカ。

朱塗というのはわかっているが実際に真っ赤だとすごいビジュアル。


 藤ノ木古墳


豪華な副葬品と二人一緒に石棺に入れられている謎の被葬者。厩戸皇子は間違いなく誰の墓だかを知っていただろう。山岸涼子の「日出る処の天子」を馬鹿に熱心に読んでいた所為あって、有力被葬者候補の穴穂部皇子も宅部皇子もそっちのイメージが先行してしまう。

法隆寺へ移動。松並木を通り正面から行く

 若草伽藍の塔跡は一般公開していないらしく、塀に囲まれた中にあるらしい。

西の方へ行ってみる
 西円堂から。法隆寺内で一番小高いところかもしれない。
円堂とは言うが八角である。中は円形に拵えてあるのかな、何故八角堂とは呼ばないのか。

戻って東大門を出て東院へ。

 夢殿 八角堂だ。

 周りの回廊の柱。かすかにエンタシスのような。

夢殿から中宮寺へ。

建物はつまらないが、この弥勒は好きだ。
天寿国曼荼羅繍帳はレプリカながら、初めてまともに眺めた気がする。服装が高松塚の壁画似ているといわれるが、そういえばそうだ。高松塚には頭を丸めた人物はいなかったと思うが。
もっと境内が広かった気がしていたのだが、同じことを聞いていた人がいた。

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