物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

タコとヒツジと銅の話

2021-09-17 | 行った所

弥生時代の海辺の遺跡から「蛸壺」とみられる遺物が出ることが知られている。主に関西だが、蛸は食されていたのだ。

ヒツジは 599年(推古7)百済が、駱駝(ラクダ)、驢(ロバ)、羊(ヒツジ)、白雉(シロキジ)を献上したのが最初らしい。しかし獣肉を食うのは一般的な習慣になっておらず、羊毛の利用もなされず、結局、珍奇な動物、というだけのことで終わったらしい。
しかし人の名前には使われている。
奈文研のサイトの中で https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2015/06/tanken100.html 「また、現代とは異なって、動物を表す漢字が目立つことに気づきます。牛養(うしかい)、馬甘(うまかい)、犬万呂、猪手(いのて)、龍麻呂、入鹿(いるか)、羊、鳥麻呂、大虫(おおむし)、大魚(おおな)・・・・・
 これらの動物が身近だったのか、干支(えと)にちなんだのか・・・「中には、鯛(たい)麻呂や烏賊万呂(いかまろ)といった一風変わった名前もみられます。」と紹介されている。

タコにはヒツジがいた。とはいえタコは蛸ではなく多胡であり、群馬県高崎市吉井町の地名である。地名としてのタコはそう珍しいものではないらしい。千葉にもあるし、田子の浦も多分タコの類なのだろう。
群馬の多胡は文字通りに見れば多くの胡(えびす)だ。朝鮮半島からの渡来人をえびすと呼んだかどうかはわからないが、近くの地名である甘楽(かんら)は読みからはそのままカラ(韓)を思わせる。
多胡はまた木曽義仲の父義賢が館を構えていたところとも知られる。

 多胡館跡 土塁

上総御曹司と呼ばれ父為義と軋轢ある義朝への対抗上、義賢は関東へ下り、多胡に住んだ。勢力を強め、秩父氏の一部と連携し、武蔵国嵐山の大蔵に居を移したが、義朝の息子義平に攻められ敗死。義賢次男義仲は大蔵で生まれたとされる。

 義賢の多胡館跡の案内板

 

和銅4(711)年、上野国の甘楽郡・片岡郡・緑野郡から戸を別け、多胡郡を新たに設置するという記事が、続日本紀にあり、それを示す石碑があり、文献と金石文が一致したものがあるという、まれな例になっている。

 石碑は多胡碑と呼ばれ、日本三大石碑の一つである。

 多胡碑はこの建物内にある。他に資料館もあり大事にされている。

 碑には多胡郡設置に関わった朝廷側の人物として 左中弁正五位下多治比真人・太政官品穂積親王・左太臣正二位石上尊・右太臣正二位藤原尊が出てくる。
多治比真人は多治比三宅麻呂。真人という姓は皇族の末裔を著わすらしく、多治比氏も宣化天皇の子孫ということになっている。欽明朝で繋いできた飛鳥以降の王家で宣化系はあまりいい思いはしていなかったろうが、三宅麻呂は奈良時代、元明・元正期の有力官人であった。
穂積親王は天武の皇子の一人で、大伴旅人の妹(家持の叔母)の大伴坂上郎女を妻としていたことでも知られる。
石上尊は石上麻呂で、物部氏出身、壬申の乱では大友皇子についたが、乱後天武に許され、新羅と往復し外交に活躍した。奈良時代の重臣の一人である。
藤原尊は藤原不比等で、言わずと知れた鎌足の子である。

この碑の中で続日本紀にはない記述がある。それが羊である。「給羊」をなんと読むか。普通「羊に給ふ」で、羊という人物が新設置の多胡郡の支配権を給わった、と解釈される。

ところで上野国南部から武蔵国北部にかけて、羊太夫という不思議な人物についての伝承が広がる。
あまりよくわからないのだが、羽の生えた従者がいて彼の曳く馬で天を駆けて一日で都と往復したとかいうのがメインで、他に反乱を起こしたとか、讒言にあい誅殺されたとかもあるようだ。秩父では銅山の発見と採掘に関わったとされ、その功で多胡を給わったともされるようだ。

 和銅遺跡の入口聖神社

 聖神社狛犬、どこかとぼけたような

 和銅露天掘り址へ

 

秩父山中から銅が発見され、年号が和銅と改元されて、4年後に多胡の郡司職が羊のものとなった。辻褄は合うが、何故上州の多胡だったのだろう。
和銅遺跡から多胡まで30kmくらいだろうか。採掘された銅がどういうルートで奈良まで運ばれたのか、多胡に集められて発送、ということなら多胡側に何か残っていてもいいと思うのだが。

銅の組成の分析をしたものを読んだことがある。弥生以降の青銅器の組成は朝鮮半島のものと差はなかった。しかし和銅期以後はそれが変わってくるようである。

 

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北国街道 木之本から今庄へ

2021-09-16 | 行った所

木之本―今庄間の北国街道は概ね365号線と重なる。40km以上ある。しかも山道である。参勤交代の宿泊地を見ても、今庄と木之本に泊まっているのだが、相当きつい行程だったと思われる。今庄―福井間は32kmでこれは途中湯尾峠はあるもののそれ以外はほぼ平坦だが、だいたい一日の旅程らしいからである。木之本―今庄間には柳ケ瀬と板取にも宿があるにはある。柳ケ瀬は関があったくらいだから、泊まれないことはなかったろうが、板取は宿というより峠の茶屋と云ったものであったようだ。

木之本にはかつての宿場が比較的よく残っている。ただどうも中途半端に見えぬこともない。

 

 木之本地蔵院 

日本三大地蔵の一つだそうだ。

 地蔵院の前は地蔵坂という商店街になっている。

 木之本は宿場だけではなく牛馬の市も立った。

 一里塚跡もあるが、見事に何もない。

木之本の宿を過ぎ、北陸自動車道の下を走っていく。365号線になるがしばらくしてまた離れる。中郷という集落である。


道路が二股になった所があり、道標がある。右北国街道、左権現坂。権現坂は余呉湖も北西の山のはずだ。北へ向かう道に見えるがぐっと西へ回って行くのだろうか。


北国街道を北進していくと鉛練比古(えれひこ)神社という不思議な感じの名前の神社がある。意味は分からないが字面を見れば金属の精錬と関係するような。

神社を過ぎてまもなく365号線に合流する。

真直ぐ行くと山合が狭まってくる感じで、北陸自動車道と平行に走る。この辺りはここしか道路の通しようがないのか。

柳ケ瀬の集落を通る。関跡はわからぬまま通る過ぎてしまったか。

集落の終りに案内板があった

倉坂峠は刀祢坂の名の方が一般的だろう。信長に敗れた朝倉勢がここで持ちこたえられず壊滅状態となる。

 柳ケ瀬トンネル付近。
自動車道はこの辺りで西にカーブし、敦賀へ向かっていく。365号はトンネルの上を登っていく。

山間を余呉川に沿うように登るが、途中で道が変わった。椿坂にトンネルができているのだ。旧道を行きたくて戻ったのだが、旧道は閉鎖されていた。

 椿坂トンネルは長いトンネルであった。ともかく椿坂峠は一気に抜けたのである。トンネル出口付近に旧道の合流箇所が見えたが、こちらからも封鎖されていた。

まもなく県境だ。栃ノ木峠となる。別名板取峠。

今庄365スキー場の脇を通る。465号線と同じ道になる。
今庄宿に入る 

 今庄の文政の道標

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賤ケ岳に登る

2021-09-16 | 行った所

賤ケ岳の戦いは、天正11年(1583)、柴田勝家と羽柴秀吉との間に起こった信長の跡目を巡る戦いだ。周知のように秀吉が勝ち、彼はやがて太閤殿下にまで上り詰める。
勝負の帰趨は、誰が勇猛であったかとか、戦いの作戦が優れていたとかではなく、むしろ秀吉が最も得意とした「調略」に帰した。
だいたい戦いの半年前、勝家が秀吉に和睦の使者として送った連中がその時点ですっかり調略されていたというのだから世話はない。勝家旗下の将が、いざ合戦がたけなわとなった時、そっぽを向いて動かなかったり、退却を始めたりするのではどうしようもない。前田利家・金森長近・不破直光といった連中である。
最初から出陣なんかしなければいいのに・・・共に陣を敷いておきながらあんまりではないか、勝家側の作戦は駄々洩れだったろう。にもかかわらず賤ケ岳七本槍などと云うのが喧伝されたのは、勇ましく戦った勇者がこっちにたくさんいたんだよー、という秀吉のこれはアリバイのようなものだろうか。
ともあれ、佐久間盛政の猛攻も空しく、歴戦の将勝家も敗走せざるを得ない。

賤ヶ岳に登ると何故ここが戦いの場になったかがよくわかる。


西から南に掛けて琵琶湖、葛籠尾崎とその先に竹生島が浮かぶ。

南に峠道の端に山本山、濃い緑の山並みの向こうに三角に突き出ているのが山本山。さらにはきっと長浜城も見えただろう。長浜城は勝家養子(甥)勝豊が領していたが、秀吉の調略にあっているし、勝豊は既に病死している。

東南に見える伊吹、そして北国街道、小谷の脇を通る北國脇往還、

北に余呉湖、そして越前へ続く山並み。360度の眺望が利くのだ。北陸の押えはここだ。
各山の砦の見張りが狼煙を上げ、伝令が走る。これは山取合戦だ。

 

賤ケ岳に登る、とはいってもリフトがあるので楽ちん。

 手頃なのか、徒歩で登る登山道もよく整備され、傾斜もそう急ではないそうだ。

リフトを降りるとすぐ尾根伝いに、山本山まで続く道がある。

遊歩道案内

山本山は標高324メートル。頂上まで40分かかる。うっかりすると転がり落ちるんじゃないかという砂利道で傾斜がきついところがあった。賤ヶ岳は421メートルだけどリフト6分、頂上近くで徒歩5~10分くらいだろうか。

 笠野金村の万葉歌碑もある

 賤ケ岳碑


リフトで麓に戻り、少し界隈を歩く。長浜市の大音という集落だが、この北琵琶湖一帯は伊香郡という郡が置かれていた。琵琶湖の西側、龍華にも伊香立という地名があった。どちらも古い地名のようだが、どんな関係だろうか。


 伊香具(いかぐ)神社という神社がある。
 鳥居が変わっている。厳島神社の鳥居のように前後に張り出した脚がある。更に左右にも張り出しがある。

 この付近まで琵琶湖が北へ張り出し、水辺にあったらしい。

 

 かつて浄明寺という寺があり、寺を中心に長安に模した村造りがされたという、気宇壮大なことが書いてあるお堂があった。

余呉湖の北方3km程、365号線から西へ入ったところに「毛受兄弟の墓」がある。

兄弟ともに柴田勝家に小姓のころから仕えた若武者で、勝家を落とすために馬票を預かり、奮戦、戦死したという。「毛受」は「めいじゅ」と読むらしい

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