物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20190811-16 東京横浜 6

2019-08-21 | 行った所

15日木

弁天二丁目のある場所を探し回る。徒歩五分と聞いたが、二十分以上かかった。とほほな幕開け。

馬車道から金沢文庫へ向かう。
北条家が集めた漢籍等の一部を今に伝えている小さな博物館、中国との交易、人の往き来、六浦港など興味深い。ただ、二階の特別展は東大が戦前から集めた東アジアの書籍らしかったが手に合わずパス。

トンネルをくぐり称名寺へ。鎌倉の寺は禅宗か法華かと思っていたがここは天台で、茅葺の阿弥陀堂もある。広い池に赤い欄干の太鼓橋を渡した庭は極楽浄土を模したよう。あちこちに北条家の家紋三つ鱗がある。鎌倉幕府は執権北条家の滅亡で、金沢文庫は大半を称名寺に移されたといいながら、称名寺もまた没落せずにはおれないのだ。建物や庭は近代に復元されているようだが、赤門から仁王門に至る参道の周囲は住宅が密集し、参道を車が行き交う。この辺も皆、境内の一部だったのと違うかな。



   



バスの時間の便が悪く、駅まで歩いて戻る。下りだからいいようなものの結構な坂で道は狭く、民家が密集している。横浜市金沢区などというとそれなりに良いイメージが先行するが、ここに住むのはかなわない。

金沢八景駅から、文庫で仕入れたばかりの知識で瀬戸橋へ行く。琵琶島、瀬戸神社。音頭の瀬戸の瀬戸だ、湾口が海峡のようになっていたのだろう。しかし、瀬戸橋を渡したことで複雑な形状だった湾は徐々に埋まり、干拓も進行した。今、六浦は海岸線は遠く望めない。三浦半島全体もそうだがこの辺りも平地は少ない。埋め立ては必然となる。瀬戸付近の埋め立て地の地名は泥亀という。

  


シーサイドライナーを使い桜木町まで戻った。沿線はけっこうな工業地帯だった。海岸線を望む観光用かと思いきや、これは通勤用だ。

桜木町キリンシティで一服後、赤い靴バスMラインに乗る。Cラインとはだいぶ違う高層建築の街を行く。「みなとみらい」だ。ほとんどを埋め立て地とみるが、沈下はないのか。子供向けの遊び場もあるようだった。
ぐるっと回って、日本郵船歴史博物館へ寄り、ホテルに戻る


16日金

9時ごろ馬車道を出る。各停を乗り継いだ。東京まで約一時間半、早いとみるが、毎日のラッシュの通勤となればまた別だろう。台風の雨も落ち着いてきたか、昨日は全休とアナウンスされていたしらさぎも動き出し、帰る。

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20190811-16 東京横浜 5

2019-08-21 | 行った所

14日水

今日は横浜への移動日だ。

八重洲地下街のヤンヨーステン像を見る。リーフデ号の航路を見て驚く。マゼラン海峡を回り、ハワイ経由で来ている。てっきりアジア経由で来たと思っていた。


横浜は若いころに一度来たことがある。山下公園か海の見る丘公園へ行き、中華街で何か食べたはずだが、ろくに覚えていない。だいたいどういう交通手段を使ったのやら、恐ろしいことにただ歩き回った、という可能性もある。
ホテルに荷物を預け、神奈川県立歴史博物館へ行く。元横浜正金銀行だったという石造りの建物。

さすが横浜でそれらしい石造りの建物が随所にある。馬車道の入口に東京藝術大学の文字がある建物があった。芸大の横浜分校?



歴史博物館は充実したものだった。スタッフが寄ってきて説明してくれたりもする。通年の資料があるが、やはり平安末から鎌倉期、そして幕末が多い。
北条家が行っていた貿易の航路図に若狭湾の西の方に拠点がある。どこかと思えば田烏(たがらす)なのだ。現在は小浜市だ。北条家の紋所、三つ鱗のついた船旗があった。田烏は北条家の領地だったらしい。

この歴史館では基本的に写真撮影OKだったが、禁止になっているものもある。不思議な気がしたが、禁止のものは摸品だった。この旗もレプリカで、本物は京大が所蔵。だからこの画像は「図説 福井県史」から採った。説明も加えておく。「過所船旗 遠敷郡多烏浦の船徳勝は、1272年(文永 9年2月、若狭守護の得宗北条時宗からこの旗章を与えられ、「国々津泊関々」を煩いなく自由に通行しうる特権を認められた。旗章上部の紋章は、北条氏の三つ鱗の紋である。京都大学総合博物館蔵」ネットでこれだけ見られる福井県立図書館・福井県文書館の仕事は褒められるべきだと思う。

いいかげん博物館疲れして出る。「あかいくつ」という循環バスがある。墨田の循環バスで味を占め、これを使うのだ。結構混んでいる。100%観光客。中華街へ行く。どこもすごい列。比較的列の短そうな店で食べる。味がどうこうより落ち着かないのが困る。

バス乗り継いで三渓園前まで。園には入らず、街中まで戻る。シルク博物館へ入る。展示もさることながらビデオも面白い。お蚕さんもなかなか高度に工業化されていたのたな。驚いたのは幕末越前藩が貿易の為の店、石川屋があったこと。責任者は岡倉覚右衛門、天心の父親である。石川はこの辺の横浜村の庄屋の名前。

再び、あかいくつで市内観光。
馬車道で降りて少し歩く。馬車道なんて私の知っているのは島田荘司の御手洗清シリーズくらいのものだ。

  



夕食はホテル近くの蕎麦屋、大盛で有名な店らしかったが、美味しくはなかった。ま、値段相応ではある。

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20190811-16 東京横浜 4

2019-08-21 | 行った所

東京番外 動物像

八重洲通のキリンと 勝鬨のアザラシ

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20190811-16 東京横浜 3

2019-08-20 | 行った所

13日火

両国へ行く。すみだ北斎美術館とその周辺が目的だったが、なんと北斎美術館は休館日。昨日祝日で今日が振替休館になったらしい。
界隈を散歩する。野見の宿祢神社・江川太郎左衛門住居跡・津軽藩屋敷跡・掘割・円朝住居跡・河竹黙阿弥住居跡 等。

     

 

墨田区内循環バス「すみだ百景 すみまるくん、すみりんちゃん」がある。3コースあり全部乗れる1日乗車券がある。しかも300円。乗り込む。北斎美術館前から南ルートに乗る。両国界隈ぐるっと回って押上へ。スカイツリーだ。さすがに人でいっぱい。昼食時とあって、どこも並んでいる。路地裏のラーメン屋がやっているのを発見。昼食。続いて北西コースに乗る。この小型のバスは生活バスだ。乗り降りする人は年配者が多い。15分おきに出ている。便利そうだ、これなら車なしでやっていけるだろう。さらに、車いすの人を乗せるのを2回見た。運転手がさっと昇降用のスロープを出し、乗り降りを手伝い、ほかの乗客へも協力を呼びかける。こういうところはさすが東京という感じだ。 

バスの天井、スカイツリーが見える。

このコースではセイコーミュージアムで降り、入った。時計の歴史、セイコー社の歴史、和時計などの収集品の展示。創業者の服部金太郎氏は大した人物だ。1860年明治維新の少し前の生まれ、雑貨屋の丁稚だったが、近所の時計屋が気に入り住み替える。企業系の博物館というのも面白いものだ。バスに乗り、今度も押上乗り換えで北東コースへ。こちらのコースは他の2コースに比べ観光地然としたところが少ない。よくわからないが立花大正民家園入り口というところで降りる。近くに川が流れている。旧中川、とある。荒川の支流らしい。きれいに整備された河川敷なのだが、周囲の道路面と川の水面とではほぼ同じ高さか、むしろ川面が高いように見える。天井川か。江東区が大きい水害があったら区外に逃げてくれ、江東区内に安全な標高の場所はないと、発表したたらしいが、なんと墨田区に逃げても似たようなものか。
民家園は、元農家で、土間を板敷に変えた家だった。庄屋クラスだったらしく、農業をやめた後もそれなりに裕福だったようだ。子供のころ行った親せきの家にこんな雰囲気の家があったな。

 


押上から地下鉄で大手町へ。将門塚を見た、この一等地を占めるのは平将門の首塚と称するもの。祟るとかで動かせないそうな。




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20190811-16 東京横浜 2

2019-08-20 | 行った所

12日月
八重洲からバスで晴海方面を目指す。着いたところはよくわからない。五輪宿舎の建築現場が見ものと聞いたがわからず、はずれ。
この辺の資料館があるらしいので探すもわからない。くそ暑い。
黎明橋付近で船着き場があった。この辺から出る船もあるらしい。
勝鬨橋を渡る。「ひらけ!勝鬨橋」この本また探そう。勝鬨橋資料館にたどり着くも休館日、それは月曜だが山の日で祝日ではないか?
築地の喫茶店で一服、ビル内のトイレが店でチケットをもらいバーコードをかざし入るシステムで、初めてでまごまごしてしまう。
結局、晴海から銀座、歌舞伎座まで歩く。

  



伽羅先代萩、実はネットで見たことがある。誰が出ていたか分からないが、面白いとは思わなかった。ところが今回は面白かったのだ。まま焚きの場はやはりつまらなかったのだけど、敵役が登場するあたりから、俄然面白くなった。政岡役の七之助は、今乗っている女形なのだろう、きりっとして気持ちがいい。敵役:八汐と仁木弾正二役幸四郎 栄御前は扇雀、子役二人は七之助の甥だそうだ。
続く闇梅百物語は、河童と狸が相撲を取り、唐傘お化けが行司をしたりと軽めの演目。

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20190811-16 東京横浜 1

2019-08-20 | 行った所

20190811-16 東京横浜

8/11日 東京へ。昼食は八重洲で小籠包
上野へ向かい、東博、三国志展に入る。最初は、三国志演義展かと思うほどであったけれども、後半が面白く三国の風土の違いなどを興味深くみる。だけど、基本的知識が足らないなと思っていたら、吃驚する会話が耳に入る。三国の版図の変遷を示した展示の前だった。曹操の魏がシンになって息子がシンの始皇帝、思わず視線を向けてしまった。五十代かとみえる男性が連れの若い女性に話していた。
浅草へ向かい、演芸ホールへ入る。チケット売り場に立派な猫さんがいた。


特別演目とかで住吉踊りとかをやっていた。楽しい盛上り。けっこう充実のスケジュール、正蔵が切り。適当にラーメン食べてホテルに戻る。

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20190804 神奈川 3

2019-08-06 | 行った所

津久井浜から久里浜へ電車移動。電車の行き先が品川だったり、大宮だったり、首都圏だな、と思う。
久里浜からバスでペリー記念碑へ。碑の文字は伊藤博文。記念館は9:00からで、無料。
いきなり鯖江の西山公園のつつじの写真が出てきて戸惑う。
間部詮勝の関係らしい。幕末の辣腕幕閣の一人とはいえペリーと関わり合いはないはず、と思ったが、どうもその通り。しかしペリーその人に次いでスポットを当てているのが怪訝だった。「泰平の眠りを覚ますじょうきせん・・」の狂歌の作者が詮勝だというのだが、本当かな?古い久里浜町史にそうあるというのだが、他に典拠はあるのだろうか?
それはともかく、結構面白かったのだった。開国は日本にとって実にドラマチックな事だったのだが、ペリーその人にとってもドラマはある。


バスで浦賀へ移動。浦賀奉行所跡を探すも、看板が一つあるだけのだだっ広い空き地。少し石垣らしいものが見えるが・・・

途中、為朝神社があった。お祭りには虎踊があるという。いくら為朝が暴れん坊でも虎との遭遇はなかろうと、これも怪訝だったのだが、ずっと新しく、近松の国姓爺合戦からとった踊だとあった。

電車で横須賀へ移動。時間があまり、三笠公園に行ってみる。記念艦三笠。日露戦争時の日本海海戦で活躍したものだそうだ。軍艦に乗ったのは初めてだが、結構な迫力。しかし基本あまり興味はない。甲板は暑いが、少し陰に入ると風が気持ちいい。猿島が見える。フェリー乗り場はいっぱいだった。

 
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20190803 神奈川 2 衣笠城 油壷

2019-08-06 | 行った所

8/3土、朝食後横須賀中央駅でマグロ切符を買いバスにのる。衣笠城址で降りたのだか、この区間は、フリー切符にならないという。なんじゃい、それは!
バス停から衣笠城址の登り口までは距離はないはずなのにさっぱりわからない。行ったり来たり登ったり降りたりした挙句、ようやく探し当て、登る。


頼朝を支えた三浦氏の居城だ。石橋山の戦いに三浦一族は遅れた。事情はよく分からないが豪雨があったようだ。石橋山で源氏が負けた後、平家方の軍勢が押し寄せる。三浦は衣笠城に拠って戦うが、苦戦である。当主大介三浦義明は子や孫を脱出させ、一人奮戦後討ち死に。89歳だったそうだ。もっとも置き去りにされたという説もあるそうな。脱出した一門は安房へ向かい、頼朝と合流する。
義明の子の義澄は後白河法皇からの使者の接待役をしているし、孫の和田義盛は初代侍所別当となるなど、頼朝は三浦家を優遇したようだ。しかし北条家が執権として権力を握る中、和田義盛は挑発されて戦い滅ぶ。三浦一党は鎌倉・室町を通じて命脈を保つが、滅亡したのは北条早雲との戦いによる。

衣笠城址を降って三崎口行きのバスを待つ。その後は切符のトラブルはなかったものの、思い出切符とやらを使いきれなかった。
三崎口から城が島へ。海岸線の岩の景勝はともかく、ここはあまり面白くもなかったが、白秋記念館の人が、ここから冬の晴れた日には富士山がよく見える、と言ってた。北斎の波間から見える富士の神奈川沖波裏はどこから見た富士だったのか。


こういうところを見ると、もう少し地学をまともに学べばよかった、と思う。


バス移動で三崎港、昼食。マグロ切符で食べでがあった。
油壺までバス移動。水族館前から少し歩く。遊歩道を行くと、東大の研究所がある。木漏れ日の気持ちのいい道だ。意外に風がある。木の陰から覗く油壺の湾に、ヨットがたくさん浮かんでいる。ここは三浦一族の終焉の地、彼等の血で湾内は油を流したようになったとか。


三崎口へ戻り、電車で津久井浜へ。
海水浴場になっている海岸線だ。ウインドサーフィンが多い。水平線に見えるのは房総半島だ。

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20190802 神奈川 1 清水の冠者義高墓 六代墓

2019-08-05 | 行った所

8月2日朝出発。米原乗換 新横浜 横浜経由大船着
大船は乗換駅だからか大きい。駅前で昼食。ラーメン、量目のおかしな店で、ミニが普通の店の普通、小が大盛だという。ミニを頼んだが、大量のもやし、太麺、馬鹿に厚い焼き豚。。。
東南東へ20分近く歩く。住宅街の道だが、たぶん昔は切通しだ。道から階段を上がると児童公園だった。違ったか、と思ったがその裏にあったのが木曽義高の墓だ。平家物語には清水の冠者の名で登場する。平家物語には哀れというも愚かなり、という登場人物は多いが、彼は最も哀れな人物の一人だ。最も平家物語には彼の死は出てこないのだけれど。
木曽義高は義仲の長男だ。義仲や頼朝の問題児の叔父、行家が頼朝とケンカ別れをし、義仲の下へやってくる。頼朝と義仲が対立する。とはいえ頼朝としては源氏の棟梁候補は一人でいいと思っていたはずだから、行家のことがなくてもいつかは難癖をつけてきただろうが。平家追い落としの前に源氏同士討ちを避けたい義仲は義高を頼朝の処へ差し向ける。人質だったのだろうが、何故か頼朝は義高を長女大姫の婚約者として扱う。とはいえ義高11,12歳、大姫6,7歳、といったところだが、お互い惹かれあうものがあったのだろう。義仲が頼朝が命じた義経軍に殺されると、義高の運命は定まる。自身が清盛に命救われた頼朝としては、殺した義仲の息子を生かしてはいけなかったのだろう。大姫は必死と義高を逃がす。義高に女房装束を纏わせ、馬のひづめの音を殺す工夫をし、義高は一旦は鎌倉を脱出する。幼いながら、これは見事に頼朝と北条政子の子だ。とはいえ、実際には政子の意向だろう。しかし大騒ぎの末、大軍に追いかけられ、義高は殺される。大姫は悲嘆に沈み、病臥し、嫁ぐことなく20歳前後で死ぬ。
義高が殺されたのは入間川の辺というからこことは違うのだろう、首塚らしい。常高寺という寺のはずだが、児童公園と背中合わせに、墓から下る細い道があるようで、その下が寺のようだ。墓からは見えなかった。墓の後ろには卒塔婆がなんぼんか立っており、ここ数年毎年1本づつ立てられているようだ。他に碑もあったが、全体に寂しい墓だった。


「木曽清水冠者義高の墓」と見える



バス停を探すもよくわからず、結局大船駅まで歩いて戻る。
鎌倉まで電車に乗り、鎌倉から江ノ電で腰越へ。腰越の満福寺という寺へ行く。腰越状のが書かれた寺だというのだが、寺自体は面白くもなかった。義経と弁慶の石像があったが、いただけないものだった。大柄な猫が一匹いたが、近づいたら逃げられた。庫裡へ入っていったので寺の飼い猫だろう。


海岸線に向かい、小動(こゆるぎ)神社、腰越八王子山遠見番所、江ノ島がよく見える。金曜日だがヨットがいっぱいだ。江ノ電もかなり混んでいて、外国人だらけだった。

 


右手が小動神社、遠見番所になり、その向こうが江ノ島になる



あまりの暑さに、七里ガ浜、稲村ケ崎等はパス、鎌倉に戻る。
小町通りを鶴が丘八幡へ向かう。お祭りか?という人出だ。
鶴が丘八幡の広い境内は風がよく通り、腰越よりは暑さが和らいだ気がするが、このまま外を歩き回っていたらノビてしまう、「国宝館」という展示館があったので入ってみる。重文級なのか悪くない仏像はいくつかあったものの、どう見ても国宝はなく、写真も不可、看板に騙された気がする、これで400円は高い。が取敢えず、冷房の効いたところでしばらく座って休めたのでよしとする。喫茶店へ入っても、これだけ観光客だらけの街では落ち着かないに決まっている。




狛犬が少々面白い顔をしていた



鎌倉駅へ戻り、逗子へ。
六代御前の墓までタクシー。
六代は清盛の長男重盛の子の維盛の長男、つまり清盛の曾孫、清盛の祖父正盛から数えて6代目の伊勢平家の嫡流。平家物語は第11巻の六代被斬で一旦終わる。六代が殺されるのは壇ノ浦の平家滅亡の直後ではない。維盛は都落ちの時点で妻子を都に残す。六代達は源氏に見つかり、殺されるところを文覚に救われ、僧侶となる。六代が殺されるのは頼朝も死に、文覚が佐渡に流された後で、平家滅亡後10数年を行きながらへていたことになる。この墓は立派なものだ。滅びたりとも平家嫡子のものだ。義仲の子とは格が違ったか。



歌舞伎、義経千本桜の「木の実 小金吾討ち死に すし屋」は維盛と妻子の話を題材にしたものだ。平家物語と伽蘿先代萩だか寺小屋だかを取り混ぜ、より一層後味を悪くした話で、私は好きではない。

逗子から横須賀中央駅へ。
夕食、軽めに蕎麦と思い、天ぷらそばを頼んだら、これも多い。この辺りの食品の両目はアメリカンサイズかいな。

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