阪神大震災で特に広範囲で被害の大きかった、神戸市長田区
住宅、工場、商店と建物が混在し、密集していただけに、火災による
被害が大きかった。
そしてその範囲も広く、区の中心的な町の2割近くが倒壊。消失。
神戸の副都心といわれた、JR新長田駅周辺の住居、商店が壊滅的な被害
を受け、この町を通過する阪神高速も壊れた。
17年を経た今、再開発事業は未だ続く。
日本最大の事業規模でその額、2700億円。
震災の2年目からは事業が、神戸空港とともに動きだした。
神戸の復興の目玉としての事業と言うことだったが、景気の低迷と
長田区から人口が流出、少子高齢化と
まったく計画された町のビジョンは見事に外れてしまった。
途中、幾度も計画規模の縮小を地元、から、また都市計画の有識者から
何度も見直しの意見があがったが、当時強きの神戸市
震災前はあらゆる事業にあって、成功を収めたことともあり、
全国から㈱神戸市といわれたものだが、阪神大震災で一期にその姿は
変わってしまった。
平清盛が時の権力を握り、京からこの神戸に半年間遷都した。
長田区の隣の区兵庫区に今も尚その歴史の名残と神戸がこれまで
繁栄した礎ともいえる大和田の津、兵庫運河の建設があり
その場所に今も、造船所、そして港湾施設が展開している。
しかし、清盛も17年でその権力の座から源氏によってその夢は
打ち砕かれ、鎌倉時代へと変わった。
神戸が歩む道も清盛が歩んだ道と同じように歩んでいくような
神戸の震災からの復興
の今である。
写真 2012年1月17日 阪神大震災追悼式 於いて神戸市長田区日吉町5丁目 あわせの地蔵堂前
住宅、工場、商店と建物が混在し、密集していただけに、火災による
被害が大きかった。
そしてその範囲も広く、区の中心的な町の2割近くが倒壊。消失。
神戸の副都心といわれた、JR新長田駅周辺の住居、商店が壊滅的な被害
を受け、この町を通過する阪神高速も壊れた。
17年を経た今、再開発事業は未だ続く。
日本最大の事業規模でその額、2700億円。
震災の2年目からは事業が、神戸空港とともに動きだした。
神戸の復興の目玉としての事業と言うことだったが、景気の低迷と
長田区から人口が流出、少子高齢化と
まったく計画された町のビジョンは見事に外れてしまった。
途中、幾度も計画規模の縮小を地元、から、また都市計画の有識者から
何度も見直しの意見があがったが、当時強きの神戸市
震災前はあらゆる事業にあって、成功を収めたことともあり、
全国から㈱神戸市といわれたものだが、阪神大震災で一期にその姿は
変わってしまった。
平清盛が時の権力を握り、京からこの神戸に半年間遷都した。
長田区の隣の区兵庫区に今も尚その歴史の名残と神戸がこれまで
繁栄した礎ともいえる大和田の津、兵庫運河の建設があり
その場所に今も、造船所、そして港湾施設が展開している。
しかし、清盛も17年でその権力の座から源氏によってその夢は
打ち砕かれ、鎌倉時代へと変わった。
神戸が歩む道も清盛が歩んだ道と同じように歩んでいくような
神戸の震災からの復興
の今である。
写真 2012年1月17日 阪神大震災追悼式 於いて神戸市長田区日吉町5丁目 あわせの地蔵堂前