ハラボジの履歴書

祖父が日本に渡って来なければならなかった物語を記憶に基づき
在日100年が過ぎようとしているいま書き留めておく。

朝鮮通信使の通過した街 牛窓

2007年04月30日 | Weblog
 岡山県瀬戸内市牛窓町は徳川期において朝鮮半島からの朝鮮通信使がこの地に上陸しここから陸路江戸に向かった場所。
町では毎年通信使にちなんだ時代パレードが行われる。静かな瀬戸内海に面した静かな場所で、今も尚町は歴史的な町並みを保存し、周辺地域から散策にくる人も多い、静かに時間の流れるところ。
山陽道からは、山を越えてこの町に入るため、海と山が接近し、町の近くの丘に上れば瀬戸内海が一望に見渡され、リゾート施設、別荘地が町の周辺の山で開発されている。
歴史の街とともに、リゾート地でもあり周辺の漁場も豊かなこともあって訪れる人も年々増えているそうだ、

07.4.30写す

長田食文化発祥の地 六間道

2007年04月29日 | Weblog
 そば飯、ぼっかけ、ホルモン焼、お好み焼き
どれも、これも今は全国ネットになった食べ物になったが、もともと長田の町から生まれた食べ物でそば飯などご飯とそばを一緒に焼いて食べる。焼き飯をおかずに飯を食べるようなもので地元のものでも最初は抵抗のあった献立。
ケミカルシューズ製造の街で靴をつくる主体はほとんどが女性。その中で貼工さんという靴を金型に沿わして側と底をつなぐ、靴のいわば組み立ての工程を行う作業を行う人でかなりの力がいる、受け取り制なので数をこなすと金になるので、食事を取る時間も惜しんで仕事をしそこで持ってきた弁当の冷や飯をお好み焼き屋に持ち込んで、焼きそばといっしょに料理して食べたのが広まったとされているが、この姿は実際よく見たので間違いない。
エンゲル係数が市内でもっとも高いといわれる長田。体が資本とあって、食べることに関しては、金はいとわないところもあり、みなそれぞれ口も肥えている。

写真は韓国料理の食材店

長田区菅原市場の今

2007年04月28日 | Weblog
 震災での火災でもっとも被害の大きかった菅原市場。
消失した規模もさることながら、死者が多く出た。この被災の状況は全国、全世界に当時発信されたのが昨日のようにも思える。
菅原市場の復興は神戸の復興の象徴ともされた。
今の菅原市場周辺は大きくさまがわりし、当時の面影はまったくなく、新しい街となった。
寅さんもこの街通り過ぎていった。地震に拠る火災の恐ろしさ及び悲惨さを今の姿からは推し量れなくなったが、防災への意識の伝承がこれからも必要となる。

昨今の新長田駅事情

2007年04月28日 | Weblog
 震災でもっとも被害があったののこの新長田駅。
神戸の副都心への構想を地元をあげて推進した、特に各駅停車駅から急行電車を止める運動を展開したが、JR側はむしろ、須磨に近い鷹取駅に急行電車の停車を決定し乗降客の多い新長田がはずされて商店会の人たちの落胆は大きかった。
今新長田駅は北区、西区へ市営地下鉄の乗り継ぎ駅の機能があっても結果この地域は素通りされているだけで、人がこの地域には立ちよらず、長田の地域経済の再興が望まれることと、若い人たちをこの地区へ呼び戻す施策をとっていくことが重要と思われる。
その意味にあって、このたびの統一地方選は地域の人の関心が高まった。

新長田再開発地区の今

2007年04月27日 | Weblog
 JR新長田南側の再開発地区は建物はたくさん出来たが、震災前の活気からは程遠い。小さな店舗が密集していた、二葉地区は地域唯一の繁華街ともいうべきかその名残りの再生とも言うべく、飲み屋横丁がビルの一角にある。
特にこの地域は在日韓国人、奄美、徳之島の出身者が多く住んでおり、持ち寄りの文化の交流が日常から行われていて、コミュニティーが少なくなっている今日にあっても、この地域だけは、人同志の関わりが深く、互いに敷居のない付き合いが毎日のように続く。
徳之島出身の女性がこの場所で経営するスナック「紅」。早速故郷の歌が飛び交いいつしか時間を忘れる活気に溢れている。
この屈託のない陽気な人たちがいるから、長田復興の原動力をみた思いがする。

異動の季節

2007年04月24日 | Weblog
 毎日新聞神戸支局の近藤大介記者が今月27日付けでもって、東京本社の政治部に転勤するとのこと、彼とは山古志に私が滞在している時から童地蔵のこと、神戸での活動のこと、長田区の復興のかかわりあい、街づくりと多岐にわたり情報を交換し役3年近くにわたり交流してきた。
ともに取材のためにあちらこちらと行動してきたこともあって、少々淋しい思いもあるが、これからの人であるゆえに、東京という環境にはいって、記者活動されることは、大変喜ばしく思う。
急なことで、一献、酒を交わすことも出来なかったが、今日元町の喫茶店でしばしの送迎を行ったところである。
俗な言い方であるが、体に気をつけがんばってもらいたい。

童地蔵取材の時の写真  近藤大介写す

山古志との出会い

2007年04月24日 | Weblog
 平成16年10月28日午後5時58分中越地方に大きな地震があった。との報を聞く。その後長岡市を中心として周辺の地域にかなりの被害が出ているとの事でその後詳しい情報は途絶えたが、山古志村の住民が自力で全員が徒歩で村を降りたとのニュースが日々流されていた。
新潟そのものが、関西に住む我々のとっては、縁がないところで、米どころ、豪雪地帯、あえて北朝鮮からの船が出入りするところ。
おおよそそんなところ、しかし阪神大震災を体験した私にとっては、現実受けた被害状況を自分の目で確かめたいことと、当時事業に失敗し、事務所を閉めたこともあって、自分に何か出来ることはとの思いがかさなり、薬局を経営する友人に無理を言って3300人分の洗面用具及び、うがい薬などの救援物資をたづさえて、名古屋に住んでいる、NPO活動を行っている黒田氏の車で被災地に入った。

次号に

山古志 五十嵐 豊さんのマリの物語撮影開始

2007年04月23日 | Weblog
 震災で飼い主と離れ離れになった、山古志支所の職員五十嵐豊さんの飼い犬マリの物語が映画化され、撮影に入ったとの記事を見た。
五十嵐さんは被災当時から長島村長付とし、当時不眠不休の動きを展開し、震災広報を展開。
山古志の名を全国に知らしめる大きな役割を担い、今も尚長岡市の職員とし、山古志復興の大きな推進力となってい
本年の1月17日にも、阪神大震災の12周年追悼式にも参加し、神戸長田と山古志との交流の要ともなっており、その活動は多忙を極めるものがある。
すでに、マリの物語は絵本になって、注目を集めたが、このたびの映画化は、当時の被災を風化させない為にあっても重要な意味があり、12月の公開を期待している。
復興への新たな時期に山古志ははいり、今後の活動への拍車がさらに加速していくきっかけになればと期待している。

被災地協働センター代表村井 雅清さん

2007年04月22日 | Weblog
 神戸市兵庫区のNPO被災地協働センターを運営する村井雅清さんを紹介する。
阪神大震災までは、長田区で靴の製造を行い、生涯、靴作りに専念しようと思っていが、震災で工場が壊滅し震災で被災を受けた人を手助けするうちに本来、ボランティアとは無縁の人間がいつしか、被災をまのあたりに受けて「何が出来るかということをみづからを問うたといい、その後仕事をやめて現在のNGOを主宰して12年がたった。
これまでも世界で起きた地震の被災地にはすべて赴き支援活動を展開し、アフガンにも農業自立支援プロジェクトを立ち上げて、息の長い活動を展開している。
無論、国内の自然災害についての支援も行っており、幅の広いネットワークと斬新かつ、時、場所、人に即応する救援の活動を日々行っている。

阪神大震災の体験は人それぞれの人生観を転換させていったのは事実である。

イランとの出会い

2007年04月21日 | Weblog
 03年6月23日の朝刊を見た、その日は日韓共催のワールドサッカーで韓国がイタリアに勝ってベスト8入りを果たしたことで紙面に大きく取り上げられていた。
在日の私にとっても、昨夜の興奮が収まらなかったし、また震災後事業を続けるために多額の借金を背負い、日々金策に終われ、事業は自転車操業状態。
いつ倒産してもおかしくない状況。
震災で一度は人生をあきらめたときもあったが、その当時は周囲が同じ状況化にあったゆえまだ、逃げが取れたが、8年も経つとそんな言い訳も通用しない。
このまま終わってしまうのかなど、生きる力を日々そがれていく思いがあった。
そんなときに韓国の勝利を見て、やれば出来るとのもう一度発奮させたのが、この試合の結果だった。
その記事に隠れるようにして、イラン北西部に地震の記事。写真を見れば、自分も被災を受けた阪神大震災の当時の思いが鮮明によみがえり単純に何か支援できないものかと、昨夜一人で祝杯をあげ、飲み過ぎたせいもあってか、酒が残っていたせいか、一気にイラン地震支援の行動したい思いにかられ、朝早く、震災以降NGOを設立し、世界各国の自然災害を支援している、村井雅清氏の事務所を訪ねた。

以下次号   写真イラン北西部の村の小学校の事業風景03.9写す