ハラボジの履歴書

祖父が日本に渡って来なければならなかった物語を記憶に基づき
在日100年が過ぎようとしているいま書き留めておく。

山古志の錦鯉 神戸の街で泳ぐ

2007年11月26日 | Weblog
 神戸市兵庫区松本通り、ここは震災で町が倒壊、火災で大きな被災を受けた地域。区画整理も終わり、住宅も再建されて、広くなった道路に約1キロに渡って、小川を作っており、既に動植物が住める環境にまでなっており、近隣の人たちもこの街の中の人工の小川だが、潤いのある光景で、道行く人の目を楽しませるとともに、震災復興の街づくりの成果にもなった。

今日、その小川に山古志からの錦鯉4尾を放した。
元気に他の金魚、鯉と仲良く泳ぎ、今後街のシンボルとなっていくと思う。

山古志復興の証 錦鯉を神戸に

2007年11月22日 | Weblog
 山古志の丸重養鯉場から送られてきた、30尾の錦鯉は、神戸市内の西須磨小学校と長田区のもっとも被災を受け、震災後合併した大千(だいち)小学校の池にそれぞれ寄贈した。

中にはは錦鯉を見るのが初めての児童もあり、手で触ってみたりし、歓声をあげていた。
この児童たちも、阪神大震災の時生まれた子供が6年生で、ほとんど震災の記憶はない。

しかし、学校では、こうした震災の記憶を風化させないために、阪神のこと、山古志の事と、授業の一環で取り上げ、このたびの山古志からの錦鯉は意義深いものがある。

「これから、大切に鯉の面倒を見ます」。と子供達は言った。


                    写真 神戸市立西須磨小学校にて

山古志から神戸長田に錦鯉が

2007年11月19日 | Weblog
 今日、山古志虫亀の田中 重雄さんの丸重養鯉場より、錦鯉30匹が送られてきた、かねてより、山古志に帰り、再び鯉を育てると、当時壊滅した村を見て、必ず山古志に帰る。といった思いが、3年を経て、実現した。

しかし、送られてきた鯉はどれも立派なもので、ここ事務所で間近に見ると、改めて錦鯉のすばらしさに感動する。

水槽に一時的に、保管し眺めているが、ずっと観ていてもあきなくて、かれこれ、2時間になる。

今年は山古志の棚田で取れた米も送ってもらった。
山古志の復興は3年を経て着実に進んでいくようである。全国の応援もさることながら、みんなで必ず山古志に戻るという、強い意志と思いがさらに復興の速度を上げたと思う次第である。

山古志 仮設住宅から山に帰る日

2007年11月04日 | Weblog
 中越地震から3年。陽光台に建つ仮設住宅を訪ねた。すでに一部の仮設は撤去され、現在住宅を建設している人達がこの11月末を期限に、生活を送っており、人の住んでいる気配は希薄なものを感じた。

それに、全村避難指示を解除されたとは言え、山に帰る人は震災前の6割とも言われ、過疎化の歯止めはかかりそうもない。

それでも、鯉、闘牛、農業の復活は日を追うごとに、復活の勢いをましており、壊滅したかと思われた、あの山古志は今復興へと力強く進み出したと思える。

12月からは、雪が降る。 3月の雪解けまでの間、大きな動きは出来ないが、確実に山古志は、新しい歴史を創る状況に入ったようだ。


写真 陽光台仮設住宅 青木さん 「明日 山に帰ります」。

白内障になって考える日々

2007年11月01日 | Weblog
 昨年から、左目の方が見えにくいと思いながら、めがねが合わないのかと幾度もめがねを取り替えたが、この7月山古志まで車で行ったときに、かなり運転がしにくいのに気がつき、眼科に検診してもらったら、白内障といわれ、それも糖尿からきているとのこと。幸い、右目がまだ進行が遅くて、何とか見えるが、左目はほとんど視力がない。

糖尿については、12年前の、阪神大震災での事務所の全壊、生活の再建、そして10年目では倒産と、急激な変化の中での過度のストレスから来たものだと思える。

こうして、不自由な状況に至って、平凡であるという事のいかに大切なこと、また健康というもの、無くしたときに分かるものだ。

これからの新たな10年を今後は闘うのではなく、しっかりと向き合いたい。