ハラボジの履歴書

祖父が日本に渡って来なければならなかった物語を記憶に基づき
在日100年が過ぎようとしているいま書き留めておく。

ハラボジの履歴書  9

2013年06月30日 | Weblog
 大完は金を取りに行くピョンオンの後ろ姿を見て、薄ら笑いをした。
10円の金を握りしめ、縁側のところに戻ってきた。
「必ず、月末には返せよ」。と強く念を押して金を渡した。
「心配するな。金利をたんまりつけてかえしてやるから、まあ、楽しみにしておけ」。
「この酒は、置いておくので、あとでお前ひとりで飲むといい。俺は早速、この金を
地主に持っていき、これまで小作していた、田んぼを買い取りに行く」。
とあわてるようにして席を立とうとしたとき。
「大完、お前に頼みがある」。
「なんだ」。
「兄様が帰ってくるまでに、水路の修繕工事を手つかずのままでは、怒られてしまう、
だから、人夫をこの村ではないところから手配をしてくれないか」。
 「何人いるんだ」。
「最低で5人はいる、牛一頭はつけるから、あと仕事のできる人間が二人は必要だ」。

「わかった、しかし、急な話だから先に金がいるぞ」。
「さっき、お前に渡した金で手配できないのか」。
「この金は、別だ借りた金は返す、しかし、明日の仕事の金は別だ」。
金を懐に得た大完は、先ほどと違って強気な口調に変わった。

「わかった。いくら必要だ」。
「うーん、5円というところかな」。
「何、5円だと、5人の三月の稼ぎ代じゃないか」。
「急な話だから、高くはない、前渡しでないとこの忙しい時期には
人が集められないぞ。だめなら、他を当たれ」。

 ピョンオンは大完にすべてを握られてしまったことを知った。
「間違いなく、人は集められるか」。
「心配するなって、俺様の顔の広さは南原一てことを知らないのか」。

ピョンオンは新たに5円を大完に渡した。

ハラボジの履歴書  8

2013年06月22日 | Weblog
 「俺は知っているんだ。お前に懐には、100円あるということを」。
口に酒を入れながら、にやにや笑いながら顔を見た。
「兄様から、200円あづかっている金があるじゃないか」。
「お前はどこでそんな話をなぜ知っているんだ」。

 「ふん、俺の鼻と耳は、金のあるところに向くようになっている」。
「なあ、ピョンオン、悪いことは言わん、その金を双月、いやひと月でいい、
貸してくれれば、倍にして返すから、どうだ」。

 「そんな金はもうない」。
「そうか、兄様は明後日帰ってくる。言われていた水路の補修、お前は
どうするんだ」。
「いらぬ心配はするな、もういいから。この酒持って、とっとと、帰れ」。
ピョンオンはちゃぶ台の酒瓶を持って大完に突き出した。
「おうそうか、そうしよう。だけど俺は兄様にあって言うぞ、おまえと博打場
に行って、お前が100円擦ってしまったことを、それでもいいなら、そうしろ」。

 大完は出された酒瓶を大事そうに受け取り、帰る仕草を見せた。
「わかった、少し待て、考える時間をくれ」。
「いつまでだ」。

「うーん、兄様が明後日帰るまでに返事を出す。ただし、その代り水路の
補修が全くてをつけていないので、それでは、兄様からどうなったか問われる」・
「だから、お前は数人の人夫を明日連れて仕事に、取りかかったような
形をとってもらいたい。それができるか」。

 「いいよ、だけど、とりあえずの金は用意しろ。10円でよい、どうだ」。

 「よし、わかった」。と言って。奥の部屋に入り、床下に隠した
ツボから10円を取り出した。

ハラボジの履歴書  7

2013年06月20日 | Weblog
 口先の欠けた白磁の酒瓶から注がれる清酒は甘い匂いが縁側全体に漂った。
なめるようにして味を確かめた。
これまで飲むマッコリとは全く違う味に、日本の豊かさが浮かぶような
心持になった。
「どうだ」。「うん。これはうまいな」。
「さあ、もっと飲めよ」。
「いや、もったいないから、これぐらいにしておこう」。
「実は、もう一本、面長からもらっているから遠慮するな」。
「そうか、それなら」。今度は一気に飲み干した。

 空腹に流し込んだ酒が内臓に沁みこむようで、すぐに酔いが回ってきた。
それまで、悩んでいたことがウソのようにして頭の中から消えていった。
「ピョンオン、お前に折入って話があるんだが聞いてくれ」。

 すっかり酒に酔ってしまって気が大きくなった。
「なんだ、言ってみろ」。
「実は、お前と一緒に行った博打場に五十円(今の貨幣価値の2万分の一)
の借金があるそれを今月の末までに返さなければ、田んぼをすべてとられて
しまうので、何とか工面してくれないか」。
それまでいい気持ちで回っていた酒が一度に覚めた。
「そんな大金、月末までに工面するって」。
「お前が兄様から水路の補修代に200円預かっていると言っていたじゃないか
その金を一時、俺に都合してくれればいいじゃないか」。
すでに頼みというよりは決まり事のように大完は涼しげに言った。

ハラボジの履歴書  6

2013年06月19日 | Weblog
 家は役場から歩いてすぐの場所であった。
長男夫婦とその子供3人そして母親の7人で暮らしていた。むらの中では唯一の瓦葺で
門をくぐると、すぐに牛小屋があり、一つの敷地の中に二つの建物があった。
祖父はまだ独り者だったために、兄が結婚したときに、離れを新たに建ててもらった。
離れと母屋の間に低い土塀を巡らせて、母屋の中庭を通リ抜けて離れにいけるように
なっていた。
いつもなら、母屋の門をあければ、中庭では母と兄嫁が夕飯の準備をしているのだが、この日は
始祖の墓の完成式で自分以外はすべて務安に行って留守だった。
縁側に腰を下ろした秉元は兄が明日戻ったとき、水路の整備の状況を問われた時
どう答えればいいか、そればかりが気になって。雨に濡れたことなど全く
気にもならなかった。
 そうして、また大きくため息をついた。
しばらくして、門の板戸をたたく音に気が付いた。
「ピョンウォン。いるか」。と幼馴染の金大完の声である。門によって、かんぬきを落とした。
「どうした」。と言うと。
「この間は運がなかったな、あす明後日、もう一度運試しにどうだ」。と言うと同時に
門をくぐって入ってきた。
「お前と会うと、うちの家族が嫌がるので、家には来ないでくれ」。
「まあ、そう言うな、俺様と会って損をした者はいない、福のある人間だと言われているのに
お前の家族だけが、俺を毛嫌いするのは。困ったものだ」。
「それより、この酒、面長様から今日いただいた。なにやら、日本から持ってきた清酒で
朝鮮では手に入らないものらしい、一緒に飲まんか」。
 体も疲れ、空腹でもあったこと、酒もきらいなほうでもなかったので、
先日町の博打場に誘われ、預かった水路の改修費用を使い込んでしまったことを
つい忘れたのか、台所に行って、肴になりそうなキムチとちゃぶ台を持ってきた。
「ピョンオン。まあ一杯飲め」。と杯を差し出した。

祖父の履歴書  5

2013年06月18日 | Weblog
 6月の村は田植えが終わって、農作業に追われ疲れた体を一時的ではあるが休息する時間が
取れるのもこの時期である。
この年に限ってか、例年と違って長雨が続いた。
秉元はこの日用水路の補修に昼から出かけて、家に戻った時は暗かった。
 
全身ずぶ濡れになり、軒先の下に飛び込んだ。

「ああー」。と大きなため息をついた。
体が濡れていたのと、その日補修した用水路が応急的にしか直せず、この降り続く雨ならば
次は他の箇所も崩れるに違いないと思った。
 
以前から兄の秉植から、田植え前に用水路の修理を言われており、その費用を受け取っていた
のだが、隣村の幼馴染の李泰完に誘われ、南原の町で花札博打で大半、負けてしまったのである。
 残った金では人も雇えず自分ひとりでクワと鍬を持ってやったところで、一町もある田んぼの
整備を行うには無理なことであった。
 
長雨が続く、そして雨の量も多くなり、用水路の土手の高さを上げなければ、稲が水につかって
しまい、育たなくなる。
そして、兄は二日先に家に戻ってこの状況をみれば、ただでは済まない。
髪の毛を伝い、雨のしずくが目に入った。でもぬぐうこともなく沁みるがままに
まかせた。

祖父の履歴書 4

2013年06月15日 | Weblog
 朝鮮半島の中ほどに位置する全羅北道南原郡。朝鮮の主要な穀倉地帯でもある。
智異山のふもとに展開する平野は秋になれば、黄金色にこの一帯が染まる。

工業が遅れた当時の朝鮮にあって、日本が大陸へと進んでいくためにはもっとも重要な
食糧確保の拠点であるため、まず農民から農地を接収することを朝鮮総督府は開始した。
 東洋拓殖銀行を設立し、朝鮮全土の農地測量を行うとの名目で土地所有制度などが法制化
されていないことに目をつけてそれまで代々に耕作していた農地をいとも簡単に、総督府は
獲得していった。
祖父もこの収奪の枠にはめられて先祖から受け継いだ農地を奪われることとなる。
 祖父には10歳上の兄と二人兄弟であった。
10歳も年が離れると兄弟というより親代わりで、祖父の兄は南原郡では名士の一人として
近隣の村人の世話から、郡役人との交渉役などを一手に引き受けた。
それは村では数少ない唯一文字を知っていたこともあり、学校にいけない村の子供たちのために
書堂(寺子屋)も開いていた。

 祖父が日本に渡るきっかけとなったのが兄が昌寧氏宗家始祖の墓建立のため、南限から西に100キロ
離れた務安郡に出かけた夜の出来事が原因となる。

祖父の履歴書 3

2013年06月14日 | Weblog
 土方仕事で真っ黒に日焼けした顔を今も思い出す。
朝鮮人の当時からのあいさつが「ごはんを食べたか」というのが常であった。
明治維新、日本は長い鎖国の眠りからアメリカから目を覚まされて今度は過去に
攻め入った朝鮮を思い出したのか、西欧列強からの脅威を口実に朝鮮、清の侵略を
開始する。
その橋頭堡の第一歩が朝鮮王朝は滅ぼされて、朝鮮半島全土が日本の領土となり、これまで例を
みない植民地政策を取った。
まずは外交権を奪い保護国となるとの宣言から、軍部による王家皇后の虐殺、閔妃虐殺である。
これも殺し方が朝鮮王家の権威を失墜させるどころではなく、人間の尊厳を顧みないやり方。
寝込みを襲い、全裸にし、王宮の中庭に於いて銃剣で櫛ざしにし、最後は陰部に松明を突っ込み
その亡骸を広く見せしめにし、朝鮮民衆への威嚇とした。
 なぜ、閔妃にその牙が向けられたかというと、王妃は日本の併合議定書への署名をことごとく反対し
清に助けを求めていた厄介な存在であった。
その後、日本の韓国併合はいとも簡単に進んでいった。
 次に日本が着手したのは、農地の収奪である。戦争のための食料増産の必要があった。

2 祖父の履歴書

2013年06月13日 | Weblog
 祖父、ハルべと呼んだ。日本語でいうとおじいちゃんとでもいうのか。
私は母を5歳のときに無くし、神戸の長田区の朝鮮人。
鉄道の高架の壁に古材を張り付け、その骨組みにさびたトタンを乗せただけの
バラック。広さは畳6枚程度。トイレ、炊事場は6所帯が共同で使用し、特に
今でも思うのが、私の住まいの隣が共同便所で、風向きでにおいがそのままに入り込んで
くる、もっと便所のにおいがまともにするの梅雨時、汲み取り業者がし尿の回収時期が
おくれたときには、溢れ出して便所に行く通路がし尿で足の踏み場もなく
さらには我が家の床下に侵入してくるのである。
 梅雨時になれば、破れ傘のように雨が漏るトタン屋根。そして床下からの悪臭。
そして、夜は南京虫に体中かまれてかゆくて眠れない夜を過ごす。
そういった暮らしのなかで、早くから母親を亡くした孫が不憫と思った祖父は
日雇い労働で稼いだ金でもって買った豚肉、野菜、コメを買ってはこの住まいを
毎日のように訪ねてきた。

小説「祖父の履歴書」       金 山 忠

2013年06月12日 | Weblog
 私の祖父が今この世にいれば今年でちょうど112歳になる。
日本名「中山八郎」こと秉元(チョピョンオン)と名乗った。
正確な年月は不明だが、1920年(大正9年)ごろ韓国の全羅北道南原郡朱川面から
日本に渡ってきた。
当時19歳で日本に渡ってきた。戸籍から調べれば、福岡県鞍手郡にきてそこで結婚し
大分、宮崎と移動して、二男4女をもうけた。
 私の父親、叔父、おばさんは次女のみ残り、父親を含め、この世を去った。
今頃になって、何故に祖父の話をもう一度確認してみようと思ったのは、私自身が60歳を
来月に迎えること。自分自身の残された人生の時間を最近強く思うからであり、病気などで
寿命の期限を宣告されたのではなく、命の終焉の自己申告とでもいうべきことをむしろ
元気な時に行っていくべきではないかと思ったからだが、そうなると、やはり
自分が歩んできたその前の根っこの原因のようなものをしきりにまとめ卓なったからです。

 昨年は在日100年という節目を迎えました。
祖父から数えて私で3世になります。