ハラボジの履歴書

祖父が日本に渡って来なければならなかった物語を記憶に基づき
在日100年が過ぎようとしているいま書き留めておく。

友好の錦鯉 盗難にあう

2008年02月26日 | Weblog
 旧山古志村の養鯉業の田中 重雄さんが、支援のお礼にと、兵庫区松本通の人工のせせらぎに今年7匹の鯉を送ったが、今月12日ごろ、何者かに4匹盗まれた。
せっかく、山古志から送られた鯉が心ないものに盗られ、毎日近所の人が可愛がっており、盗られたとも言えず、心痛めていたが、これを知った田中さんは、今日5匹の鯉を松本通に再び送った。そして、本日、せせらぎに放流した。

宇治市ウトロ 日本の中の朝鮮人部落その原型

2008年02月18日 | Weblog
 ここ、ウトロに昭和26年あたりから住み、55年が過ぎたという、石玉先さん(78)を3年ぶりに訪問した
当時、私が山古志に住民票を移し、京都の仏師松本、明慶氏の工房へと、山古志の田中 仁、五十嵐 豊とともにここウトロの石さん宅を訪ねたのだが、この時、グ主人の崔忠圭氏とあって、この場所に来た話を聞くことが出来た。

崔さんは、18歳の時、強制連行で、福岡の飯塚炭鉱に連れて来られ、一年後、脱走し、九州各地を転々とし、戦後ウトロに住み着いた。そして石さんと結婚。
韓国で既に結婚して、一人日本に来ており、子供がいたという、戦後、日本の暮らし向きも芳しくなく、ウトロに定住するようになったと、赤裸々な話を聞くことが出来たが、このたび、訪問したが、2年前、享年91歳で永眠された。

ウトロで最高齢の一世の方であり、年齢とは見えない、風格のあった人と記憶している。

今、奥さんの石さんが残り、一人でウトロに暮らす。
最近は体の調子も悪く、病院通いの日々。
家族がいない、石さんは、今後の不安が募るばかりの日々だが・・・

続く   写真右  石さん

宇治市伊勢田ウトロの今

2008年02月17日 | Weblog
 宇治市の郊外にあるこの地区は、戦前京都空港という軍事空港があった。
その建設に、多くの朝鮮人労働者が従事し最も多い時で1300人がこの地区に飯場を設け、暮らしていたが、日本が敗戦後、半数は祖国、韓国に帰国。
半数は、そのまま、この場所に住み着いたのが、このウトロ。
いつしか、朝鮮人が形成された。

しかし、この土地の所有者は、日産車体であって、1987年に、この地区に住む在日1世の許昌九という、自称自治会長に住民の知らない間に売却してしまい、許は、この土地を取得するため、自ら代表となる、西日本殖産なる会社を設立。
3億でこの3000坪の土地を仕入れ、住民に4億で売却しようと試みたが、思惑ははずれて、やがて、同胞間での裁判がはじまり、結果、最高裁で住民側が敗訴。

2005年9月には、強制立ち退きが始まろうとしていたが、住民運動のたかまりが、日本国内のみならず、韓国に世界にと、日本の戦後処理問題とし、多くの関心を集めることとなったのである。     続く

韓国人としての今後

2008年02月14日 | Weblog
 韓国も今年2月には、政権が変わる。
金大中政権から、民主化が大きく進んだのは事実でもあるが、その後のノムヒョン政権には大変失望とともに、この5年、ある意味、大きく韓国社会を後退させた政策なき、5年が過ぎたように思える。

国粋主義的な兆候も見られ、対日、対米外交にあっても、冷静な対応が行われずに、単に民族感情に乗じた、政策を貫いたのだが、結果、保身の政策に時間を費やして、この間、韓国社会、経済の低迷が大きく生じた、政治の空白は大きい。

韓国の場合、新政権が出来ると、国民は冷静さを無くして、新しい政権に期待を傾けることが多いのだが、今後の韓国は、熟成した、国家の基盤を作る方向に国民が、向いていかなければ、日本と同様に、世界から取り残される、国家になりつつもある。

まだまだ、先進諸国の仲間入りには、少し遠いものがあるとの謙虚さも必要な時期が、今の韓国でもある。

南大門消失に思う

2008年02月13日 | Weblog
 
 韓国の文化財でこの建物ほど、有名で象徴的なものはない、600年を経て今尚、ソウルの中心にあり、国宝であった。

しかし、この程、69歳の男の手によって、焼失したのであるが、国民の悲しみと落胆はいうまでもない。
確かに、重要な文化財ではあるものの、放火の原因とし、この男の土地の収用をめぐり、様々な問題があって、結果、大手現代建設、行政当局がこの男の財産を強引な手法で取り込み、再三に渡り、陳情したが聞きいれられずに犯行に至ったとの、一部報道がある。

何も、放火を容認するのではないが、昨今の韓国社会が持つ、格差とこれまであった、社会通念が大きく変わった現象の現れであるとも言われている。

特に、ノ ムヒョン政権の5年、土地、住宅政策が悪く、ここ数年、混乱があった。
さらに、格差等の問題も大きく生じて、経済の悪化の現象が生じている。

確かに、文化的遺産を無くしたことの衝撃は大きいが、物は新たに作ればよいし、また形のあるものは、いつか壊れてしまう。
それよりも、人の考え方が、貧しくまた、空虚になる事の方がもっと残念だという警告のような事件ではないだろうか。


丸五市場の事

2008年02月11日 | Weblog
 新長田南に位置するこの市場。
大正筋、六間道商店街と歴史は90年に及ぶところ。戦災と震災を超えて今もその形は残っているものの、ここに来る人は年々減っていく。

また、最盛期には100軒近くあった店舗も、今は10店が、ほそぼそながら店を開けている状況にあって、この市場が今まさに消え行く運命にある。
こうした中、空き店舗を利用し、この長田の地域で多くのアジア系の外国人が暮らすこともあって、アジア横町なるものを立ち上げたのだが、結果一年を経過したもの、客が来ない。
行政の助成などの一部援助はあるものの、結果、人が集まらない。

また、大規模店の進出によって、大きく、この街の形が変わろうとし、往年にぎわった、商店街の姿を、懐かしむ声が聞こえる。
さて、そんな市場の中で、台湾料理店と、沖縄居酒屋を出した人の話を聞くが、未来の見えない、人が来なくなった場所で、これから、どのようにこの場所を多く人に知ってもらうか。 日夜、考えるというが  次号

長田の街が消えていく

2008年02月10日 | Weblog
 阪神大震災で甚大な被害を受けた、長田の街。
特に、新長田周辺の商店街、住宅は、火災によって消失し、その後区画整理事業と再開発の対象の区域となり、それも総事業費が2700億という、大変な予算でもって、工事がすすめられ、13年を経た今も、まだ建設がおし進められている。

しかし、新しい商店ができても、テナントが入らず、シャッターが下りたままで、又商売を初めても、数ヶ月で店じまいする光景は、この地域の事業が始まって以来見える姿でもあるが、しかしその計画、予測といったものが、余りにもお粗末なことを、開始当時から批判と反対の多かった事業であると、地域住民の意見に、当時神戸市がまったく、耳を貸さなかったのが大きな原因であるが、今になっては、既に遅く、結果真新しい、ゴーストタウンを作ったようなものであり、この計画を推進した、一部、識者、とコンサル関係者の無能を嘆くばかりだ「。

さらに、こうした、無計画な事業の影で、再開発事業の周辺の地域がさらに疲弊し続け、結果その悪影響での街が沈没寸前の危機に立たされているところがある。

丸五市場周辺なのだが、詳しく取材してみた。  次号


         ●写真人影のない、新しい商店街

韓国 全羅道の旅

2008年02月09日 | Weblog
 ここで、震災復興とは少し離れた記事を投稿します。
釜山から玄海灘沿いを西に高速道路で行くこと3時間。全羅南道麗水市がある。人口26万人の市であるが、海の穏やかな入り江を持ち、数多くの島が点在する、景色の美しい町で、歴史的には、その昔、豊臣 秀吉が朝鮮侵略の絶頂時に、この海域で李舜臣将軍という救国の軍人が現れて、豊臣水軍を撃破、その侵略の補給路を断つことで、更なる朝鮮侵略を食い止めた、民族の英雄が拠点としていた、場所でもあり、今もなお、南北ともに、知るところでもあって、今なお、護国の軍神としてあがめられている、実在した人物だ。

さて、2012年に、上海のあとこの地で万博の開催が決定しており、現在、ソウルとを結ぶ、新幹線が建設中で、ソウル、麗水間を現在4時間半を2時間で結ぶという。

ホテル、リゾート施設なども建設ラッシュで、さらには人口の増加も見込まれて、マンション、住宅も周辺の山を切り開き、開発が進んでいるところで、躍動する姿が見える。

海産資源も豊富なところで、海産物を日本に輸出する漁業関係者も多い。

津和野の街を行く

2008年02月05日 | Weblog
 新山口駅から、特急列車で約1時間、山合いを抜けると大きく広がった街が広がる。清流が街の中を流れる。
津和野。山陰の小京都と言われ、古い町並みと、清流を街路に引き込み、その疎水の中に錦鯉を放っているのは、有名である。

江戸期においては、津和野藩があり、城下町でもあった。
造り酒屋、お菓子、また手工芸品など、この津和野の盆地で、独自の文化を華開かせた様子がみてとれる。

さて、この街の随所に流れる、清流から引き込んだ疎水は、生活用水であり、街の防火用水としての、役目を担いその風情が豊かさの象徴となって今の時代に引き継がれているのだが、こういった、古い町並みと伝統的な家屋が、日本の各所から消えており、全国一律の町並みの姿を一般的となるが、改めてこういった、歴史的空間の保存とともに、その中で暮らしていくような、街づくりを目指す事がこれからの街づくりだと思う。

戦後残影   海底に沈んだ炭鉱

2008年02月04日 | Weblog
 宇部市に西岐波という海岸がある。
今はひっそりとした砂浜で周囲は何もない浜であるが、戦時中、ここは長生炭鉱といって、海底まで堀進んだ炭鉱があった。

宇部市の地下全体掘り尽くされ、この海岸下まで石炭採掘のため、坑道を延長していった次第で、今尚、その証拠に海面に突き出たピーヤ(換気搭)が残っている。

1942年2月3日未明、旧西岐波村床波近くの海岸にあった、長生炭鉱(1933年総業)
の海底まで伸びた炭鉱で沖合い1キロの坑道で水没事故が起こり、183名の炭鉱労働者が犠牲になった。
内130名が朝鮮人労働者で、日本が真珠湾攻撃を開始し、太平洋戦争に突入し間もない時、このなくなったほとんどの朝鮮人は、強制的に連れて来られた若者達。

この事故は朝鮮人労働者の犠牲者の数では、最多の大惨事で、この時の犠牲者は海底から引き上げられることなく、今も海の底に眠っている。
18年まえから、地元の日本人と在日同胞の有志が、韓国から遺族を招き、この海岸沿いで、慰霊祭を行っているが、宇部市などの、行政側からの参加はみられないし、またそういった事実を認めようとせず、慰霊碑建立にも非協力的で、過去の話であって、解決済みと、歴史の中から欠落させようともしている。

平和への誓いの為にも、こういった負の歴史も認識し、繰り返さないためにも、直視し、真相を知るべきではないだろうか。


08,2,3  韓国からの遺族を招いての慰霊祭