ハラボジの履歴書

祖父が日本に渡って来なければならなかった物語を記憶に基づき
在日100年が過ぎようとしているいま書き留めておく。

北朝鮮の体制崩壊はいつ

2012年05月28日 | Weblog
 金正日総書記亡き後、北朝鮮の体制崩壊は必ず始まると、
多くの学者、政治評論家などがこれまで、必ず起きると予想
していたが、昨年12月に死去したあと、すぐに27歳の金正恩が
後継することになった。

 本年の金日成生誕100周年の慶祝に対して、すぐさま北の最高首脳として
君臨することとなったのだが、これで三代に渡る権力の世襲が行なれたのには
ただただ驚くばかりで、特に在日の人間が、有る意味、情報が多くある日本に
住みながら、北の体制に対して一切の疑問すら持たずに、未だ
「地上の楽園」という、うたい文句を信じているとは思われない。

なのに、専制政治と恐怖政治を軸に国家を運営する体制にひとつの疑問すら
傾けない総連組織のひたむきさ、信念の強さは端からみれば「洗脳」されている
との一言では片付けることはできないほど北の思想教育の複雑さを
改めて思う次第である。

 経済成長を続ける韓国をみて、先軍政治の北は、いずれ、労せず軍事でもって
南を吸収し、主体思想でもって統一を成し遂げ、人民を解放に導くといった
建前だが、国家を金親子とその身内で私物化した国など
国家としての体裁すらなくその昔の部族国家の延長をこの時代にあって
継承しているには人類史上まれに見る国といわざるを得ない。

 

河本準一の生活保護受給問題に思う

2012年05月27日 | Weblog
 先日来からコメディアンの河本準一の母親の生活保護給付問題で
マスコミ各社が騒いでいるが。
何もそこまで彼をつめることはない。何も不正受給を行なった
わけではないのだ。

 またこの騒動のキッカケは小泉チルドレンの片山さつき議員が
そのきっかけを作り、生活保護受給者が210万人に達する今
その対策に国がのりださなくてはならない矢先、ちょうどよい
スケープゴートしtの役割を彼が背負った格好になる。

 生活保護不正受給も問題だが、それと同様かそれ以上
官僚の天下りなど、強者への視線を強く持っていく必要がある。

 日本人の悪いくせとして、集団弱いものいじめを行なう癖が
抜けなくて、今その影響が国の行方に大きく影響しており
こういったところから見直していくべきではなかろうか。

健康保険不正請求

2012年05月24日 | Weblog
 国民保険からの医療費のお知らせが来た。
これは請求書ではなく、これまで治療で通院した医療場所と通院した回数
そして使った医療費が記されている。

 改めてみることは少なかったが、このたび驚いたのが昨年一度行った
ところの接骨院に計32回通院し治療したことになっており、保険請求が
なされている。

 まったく身の覚えのないことで、いわゆる保険制度を悪用した不正請求と
判断した。
たった一度、保険証を提示したのをそのまま利用され続けられたかと思うと
ぞーとする。

 しかし、こういったことまでして経営を行なうのであれば、すでに
人の身体を治療するといった行為そのものを行なう資格はすでにない。

 昨今、高齢化がすすみ、介護の一環で高齢者が接骨院にかようことは
医療行為とみなされ保険の対象になっているゆえ、一般の事業家が
経営に乗り出すことがおおく、顧客の争奪戦が激しいとも聞いている。
業績をあげるために不正請求をするならば、これは犯罪であることを
経営者は自覚しなければならない。

 とりあえず、県の保険課には通報し、事実関係を調査し
その上で厳正な処分を下すとのことである。

 成長する韓国経済と国力

2012年05月23日 | Weblog
 1945年日本が敗戦するまで朝鮮半島は日本の植民地であた。
明治維新、富国強兵を掲げ三百年の鎖国から急に欧米列強への
仲間入りを目指した日本。

 まずはロシアからの侵攻への危機間から清にその戦略的な基盤を
築くための橋頭堡を朝鮮と位置づけた。

 豊臣時代の朝鮮侵攻への再びの挑戦であり、いつしか列強大国の
仲間入りを果たす大きな野望がそこから生まれ。
日露戦争での勝利、日清戦争、満州国の設立。そして東南アジア
諸国への進出を果たし、太平洋戦争へと突入していく。

 この間50年、韓国は日本の大陸進出の野望に苦難の生き方を
強いられた。
日本の敗戦後、解放された祖国は、今度は分断。
大国の利権に今度は牛耳られ、未だ統一の気配すらない。

 

中越地震で山古志が崩壊

2012年05月22日 | Weblog
 2004年10月23日午後5時56分に
 新潟県川口町を震源とした震度7の地震が発生した。
阪神大震災で復興への道を歩んでいた神戸が10年を向える
前年の年である。

 関西から新潟を見るとあまり縁のないところで土地柄
そして人の気性など良く分からない。

我々が新潟への持ち合わせの知識としては
日本屈指の米どころ、そして田中角栄の出身地の長岡
がある。

 そして、北朝鮮への唯一の入り口でもある新潟港
所詮そのようなところか。

 そんな中で、当時被災を受けたのは長岡市を中心に隣接する
小千谷市、川口町といったところなのだが、
その中でもっとも大きな被害を受けたのが山古志村であった。

 村に通ずる道は崩壊、山は崩れ谷をせきとめ災害ダムができ
一部集落が水没。2000世帯の村民全体が全村避難する、
災害史上稀にみる大きな被害を受けたのである。

被災当時の様子を見れば、復興が可能な状況ではなかったのだが
必ず皆でふるさと山古志に帰るとの合言葉に
二年の歳月を経て、全員が復興された村に戻った。

 この山古志には日本のみならず世界がおおきな関心を
もって注目していたのである。

写真   山古志 手堀のトンネル


被災その後 阪神大震災 私の場合

2012年05月21日 | Weblog
 災害の少ない神戸といわれ
住みよい街とされていた神戸
確かに、台風にせよ神戸はこれまで大きな災害は
直撃されたことが無かった。

 風水学的に言って、「背山地水}といって
北側に山を背にし、南に水を配するその間に道路が走る
発展する都市の理想の原型で
神戸は六甲山脈を背にし、瀬戸内海を眼前にし、
波静かな神戸港を中心にこの街は発展してきた。

 もっとも神戸の開港は、明治維新にさかのぼるのだが
維新はまさに国の夜明け、300年続いた徳川幕府の鎖国が
一気に快方され、欧米列強が砲艦外交でもって開国を迫った
のをきっかけに大政奉還という形でもって幕府から天皇へと
権力の移譲が行なわれたのである。

 維新前夜、神戸の港は勝海舟率いる水軍の修練所、そして
坂本竜馬たちが作った海援隊の基地があったとされ、
さらにさかのぼり平清盛が京都から神戸の福原の都へと半年
遷都を行なった。 
 宋との交易を行なうためのものであり、すでに清盛は
すでに世界にその目を向けていたともいえる。

 今日の港の原型は清盛の時代に築かれたとも言われ
源氏中心でこれまでの日本史は語られてきたのだが、神戸を
深く覗けば新しい歴史が展開してくる。



● 阪神大震災被災日記  記憶の記録   

2012年05月17日 | Weblog
 シリーズ  第1回


17年前一月17日震度7の地震が神戸を襲った。
午前5時46分早朝で、朝が明けていなかった。
神戸というところはこれめでも自然災害がすくないといわれたが、
この地震を機にさまざまな災害の被害を受けるようになってきた。

 私が地震を受けたのは、もっとも被害の大きかった長田区の
事務所であった。

1995年1月17日午前5時46分
大阪で仕事仲間との寄り合いで前日遅くまで酒を飲み、事務所に
到着したのは午前4時ごろであった。

 どのように事務所までたどりついたかと分からぬほど酔っており
とにかく酔い潰れて背広を着たまま、応接のソファーに倒れこむように
し眠ってしまった。

 眠ったのか、眠られないのか朦朧としている時、ゴーと大きな
地響きのような不気味な音とかすかな振動がした。

 と同時に気分が悪くなったような気がして「ずいぶん、悪酔いした」。
かと思ったとたん。

ドカンという大音響がして、身体が床から突き上げられ、そして
大きく右に左に鉄筋コンクリートの柱が50センチ程度の巾でギーギーと音を立てながら
揺れるのが月明かりであったがはっきりと確認できた。
かなり長い時間に感じたが、事務所内にあるすべてのものが倒れ、またテレビなどは
宙を飛んだかのように別の場所に移動しており、
生きていて初めて味わう、異次元の恐怖で、揺れが収まった時でも、「一体何があったのか」。
と思うまえに地球が惑星と衝突し、人類全体が滅びてしまったのではないかなどと、

前夜に酒を飲みすぎて思ったことだが、
その後、一瞬にし、浴びるほど飲んだ酒の酔いも吹っ飛んでしまい。
すぐさま、服を着替え、靴を履き替えとにかく外に出ようと準備をした。


 

試練と向き合う 国民 民主党は政権から降りよ

2012年05月14日 | Weblog
 東日本大震災から一年と2ヶ月。
未だ、復興への道筋はついておらず、情緒的な絆を合言葉に
ただがんばろうと励ますだけで、被災地の暮らしはなりたたない。

 政権が民主党になって、国民の暮らしは良くなるどころか、
国事態が滅びそうな危惧と、国民が将来に希望を持つことが
できない。
「NO1じゃなければ駄目なんですか」
といった、危機感のない閣僚を配する政権では国の将来は
見えない。

 支持率は既に20パーセントをきっている。
権力にしがみつく民主党政権、国民の暮らしと命が日々
犠牲にされ続ける。

相馬の復興に取り組む NPO法人はらがま朝市クラブ 石井さん

2012年05月10日 | Weblog
 石井弘二さん(59歳)神戸出身で、阪神大震災の時は東京にいて、
神戸の復興に関わる機会がすくなく無念さがあった。
昨年の大震災の被害を相馬の友人を訪ねたところ、その被害の状況を
見て、言葉を失ったという。
昨年の5月、そのまま、家族と離れ、そのまま相馬に移住し、現在地域の
支援活動を行っているが、
その活動の配意と分野はひろく、物資の救援から起業の応援、新しい地域の
産業につながる活動など巾が広い。

 また友人の神戸の大工さんも現地に呼び、仮設店舗の建設、改修工事などを
ボランティアで行なうなどし、震災の被害で先の見えなかった地元の人たちに
今、希望を与えている存在となっており、残された人生を相馬の復興に
かけると、日々駆け回り相馬から全国に向けさまざまな支援を訴えている。



 

兵庫県立神戸工業高校  電気課専修課 3年生

2012年05月09日 | Weblog
 定時制高校3年生に今年58歳にて入学した。
実に40年を経て、中途退学した当時の学校へと戻ったことになる。
当時、仕事を終えて学校に着くと真っ先に走ったのは学食であった、
今も始業前に、給食がでる。

 といって我々は専修課といって、一般教養の授業は行なわず、電気工学の
基礎的なことを二年間に渡って勉強を行なう。
そして二種電気工事士の資格などをこの間に取得するのが目的となる。

 現在クラスには6名の生徒が通っているが、既に一人は最近出席しなくなった。
6時10分の始業は厳しいようである。

 私は思い切って今年から2年間、卒業ともういちど勉強する目的を持とうと
決意し、今通っている。