理屈は我と彼とを疎隔し、同情は
我と彼とを融合する大切な要件である
相手の立場に立ってものごとを考えてみるということである
石橋湛山
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石橋湛山/いしばしたんざん(1884-1973)
昭和期の政治家。東京生まれ。経済紙『東洋経済新報』の記者を経て、戦後に政界へ進出。吉田内閣で大蔵大臣に就任。GHQにより公職追放されるが、公職追放解除後に復活。通産大臣を経て、内閣総理大臣に就任するも、病に倒れて2ヶ月で辞職。のち訪中2回、訪ソ1回を実現。
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1959(昭和34)年9月17日
石橋湛山が周恩来に
日中米ソ平和同盟の
構想を示す
・・・・・・・・・・
昭和初期、帝国主義を掲げてアジア進出する日本に、経済誌記者・石橋湛山は異を唱える。戦後、政界に入った湛山は、米ソの核開発競争の過熱に第三次世界大戦の危機を感じ、冷戦構造に風穴を開けようと決意。総理大臣となり、アメリカばかりを重視する外交を脱して中国・ソ連との関係回復に努めるが、病に倒れて辞任する。しかし平和を願う思いから、病をおして訪中。周恩来首相に「日中米ソ平和同盟」構想を示す。それは平和実現のために日本が米中ソの掛け橋となり、困難な問題を4ヶ国で話し合おうとするものであった。周恩来は同意し、のちの日中国交正常化、湛山悲願の東西冷戦終結への礎となる。
新日本カレンダー株式会社(http://www.nkcalendar.co.jp/)
我と彼とを融合する大切な要件である
相手の立場に立ってものごとを考えてみるということである
石橋湛山
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石橋湛山/いしばしたんざん(1884-1973)
昭和期の政治家。東京生まれ。経済紙『東洋経済新報』の記者を経て、戦後に政界へ進出。吉田内閣で大蔵大臣に就任。GHQにより公職追放されるが、公職追放解除後に復活。通産大臣を経て、内閣総理大臣に就任するも、病に倒れて2ヶ月で辞職。のち訪中2回、訪ソ1回を実現。
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1959(昭和34)年9月17日
石橋湛山が周恩来に
日中米ソ平和同盟の
構想を示す
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昭和初期、帝国主義を掲げてアジア進出する日本に、経済誌記者・石橋湛山は異を唱える。戦後、政界に入った湛山は、米ソの核開発競争の過熱に第三次世界大戦の危機を感じ、冷戦構造に風穴を開けようと決意。総理大臣となり、アメリカばかりを重視する外交を脱して中国・ソ連との関係回復に努めるが、病に倒れて辞任する。しかし平和を願う思いから、病をおして訪中。周恩来首相に「日中米ソ平和同盟」構想を示す。それは平和実現のために日本が米中ソの掛け橋となり、困難な問題を4ヶ国で話し合おうとするものであった。周恩来は同意し、のちの日中国交正常化、湛山悲願の東西冷戦終結への礎となる。
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