[稲畑汀子選]
(東大阪市・芝広子)
〇 真似られぬ神の絵筆の冬もみぢ
下五「冬もみぢ」に疑問を感じる。
秋闌の頃の「もみぢ」ならともかく、「冬もみぢ」と言ったら、枯れて散り、色褪せた「もみぢ」ではありませんか?
それとも、東大阪市辺りでは、秋闌の頃の「もみぢ」よりも「冬もみぢ」の方が、色鮮やかで美しいのでありましょうか?
俳句の季語としての「もみぢ」は、あくまでも「秋」でありましょうが?
〔返〕 色褪せた風情も良くて冬もみぢ狩りに出掛けた大阪の人
(大阪市・山田天)
〇 いつもより長き師走の赤信号
ご自身が忙しない思いをして待っているから「いつもより長き師走の赤信号」という次第には相成るのでありましょう。
〔返〕 いつもより長い気がする赤信号債鬼が迫る師走街角
(川崎市・多田敬)
〇 碁敵の自慢の庭や松手入
お互いに「碁敵」なのであるが、川崎市にお住いの多田敬さんは、自慢したくても自慢出来るような「庭」をお持ちでないから、「碁敵」と言うか「碁の友」と言うか、対局を楽しみにしている相手側の人を自宅にお招きしたりする習慣が無いのでありましょう。
〔返〕 碁敵が自慢たらたら庭の松 松茸生えない松など無意味
(神戸市・涌羅由美)
〇 空は青極め紅葉は朱を極め
「空は青⇒極め・紅葉は⇒朱を極め」と、鑑賞者をぐいっぐいっと、前方に引き摺って行くような手法と音読感が見事な作品である。
ところで、「空は青」を「極め」、「紅葉は朱を極め」ている光景と言えば、秋闌の頃から晩秋に掛けての西日本の光景でありましょう。
四季折々さまざまの美しさに恵まれた我が国の風景の中でも、その頃の風景が最も美しいと思うのは、極めて常識的な考え方でありましょう。
然るに、同じ関西の住民でありながら、前述の芝広子さんは、「真似られぬ神の絵筆の冬もみぢ」などと珍奇なことを仰るのであり、選者の稲畑汀子氏も亦、それを「佳し」として居られるのである。
それこそは、真に可笑しい光景と謂うべきでありましょうか?
〔返〕 詠む者が佳しとよく見てよく詠んだ冬の紅葉狩り止しときなはれ
(岡山市・岩崎ゆきひろ)
〇 荷下ろしを客も手伝ふ年の暮
作中の「客」とは、掛取りに訪れた「客」でありましょう。
〔返〕 掛取りも見るに見かねて手伝ひつ師走米屋の荷下ろしの段
(富津市・三枝かずを)
〇 落葉して遠くの海が見える丘
「房総の文化人村に冬来たる!」という一句である。
房総半島には山らしい山が無いから、原野に生えている闊葉樹が紅葉して落葉してしまえば、低い「丘」からでも「遠くの海が見える」のでありましょう。
〔返〕 落葉して遠くの杜が見ゆる朝ブリが獲れたと浜から便り
(芦屋市・田中節夫)
〇 白鳥に乗りて飛びたし我が山河
兵庫県加西市豊倉町の三田池は、西日本では珍しい「白鳥」の飛来地である。
毎年、冬になると百羽以上のコハクチョウが北の国から飛来するので、大阪方面から、鳥撮りや鳥キチがわんさかわんさか押し寄せるということである。
作中の「我が山河」とは、掲歌の作者・田中節夫さんがお住いの芦屋市を含めた六甲山麓の市街地や播磨平野そして瀬戸内海の風景でありましょうか?
〔返〕 鳥撮りに写真撮られた白鳥よ泥鰌獲るなら三田池に行け
(今治市・横田青天子)
〇 空抜けし如く銀杏の落葉かな
真っ青に晴れ上がった晩秋の空と路面に散り敷く黄色い銀杏の葉との色の対照が見事な一句である。
〔返〕 大空を蔽ふ如きに楠大樹 伊予の今治素晴らしき街
冬空を射むとばかりに冬欅 伊予国分寺五十九番札所
(柏原市・早川水鳥)
〇 神苑の静かに急ぐ落葉かな
掲歌の作者・早川水鳥さんは、一茶の故郷・柏原村のご老人方を引率なさってお伊勢参りにお出掛けになられたのでありましょうか?
〔返〕 逝く秋のお伊勢参りの帰り道 厄を落とせし遊郭油屋
(高松市・白根純子)
〇 海風を避けやうもなき冬木立
孤立無援と申しましょうか?
返り花が咲いているで無し、葉は枯れ果て落ち尽くしてしまったし、今となっては、「海風を避けようもなき」丘に茫然として佇んでいるばかりの「冬木立」なのである。
〔返〕 南無八幡大菩薩別しては金毘羅大権現 件の冬木立を守り給へ
(東大阪市・芝広子)
〇 真似られぬ神の絵筆の冬もみぢ
下五「冬もみぢ」に疑問を感じる。
秋闌の頃の「もみぢ」ならともかく、「冬もみぢ」と言ったら、枯れて散り、色褪せた「もみぢ」ではありませんか?
それとも、東大阪市辺りでは、秋闌の頃の「もみぢ」よりも「冬もみぢ」の方が、色鮮やかで美しいのでありましょうか?
俳句の季語としての「もみぢ」は、あくまでも「秋」でありましょうが?
〔返〕 色褪せた風情も良くて冬もみぢ狩りに出掛けた大阪の人
(大阪市・山田天)
〇 いつもより長き師走の赤信号
ご自身が忙しない思いをして待っているから「いつもより長き師走の赤信号」という次第には相成るのでありましょう。
〔返〕 いつもより長い気がする赤信号債鬼が迫る師走街角
(川崎市・多田敬)
〇 碁敵の自慢の庭や松手入
お互いに「碁敵」なのであるが、川崎市にお住いの多田敬さんは、自慢したくても自慢出来るような「庭」をお持ちでないから、「碁敵」と言うか「碁の友」と言うか、対局を楽しみにしている相手側の人を自宅にお招きしたりする習慣が無いのでありましょう。
〔返〕 碁敵が自慢たらたら庭の松 松茸生えない松など無意味
(神戸市・涌羅由美)
〇 空は青極め紅葉は朱を極め
「空は青⇒極め・紅葉は⇒朱を極め」と、鑑賞者をぐいっぐいっと、前方に引き摺って行くような手法と音読感が見事な作品である。
ところで、「空は青」を「極め」、「紅葉は朱を極め」ている光景と言えば、秋闌の頃から晩秋に掛けての西日本の光景でありましょう。
四季折々さまざまの美しさに恵まれた我が国の風景の中でも、その頃の風景が最も美しいと思うのは、極めて常識的な考え方でありましょう。
然るに、同じ関西の住民でありながら、前述の芝広子さんは、「真似られぬ神の絵筆の冬もみぢ」などと珍奇なことを仰るのであり、選者の稲畑汀子氏も亦、それを「佳し」として居られるのである。
それこそは、真に可笑しい光景と謂うべきでありましょうか?
〔返〕 詠む者が佳しとよく見てよく詠んだ冬の紅葉狩り止しときなはれ
(岡山市・岩崎ゆきひろ)
〇 荷下ろしを客も手伝ふ年の暮
作中の「客」とは、掛取りに訪れた「客」でありましょう。
〔返〕 掛取りも見るに見かねて手伝ひつ師走米屋の荷下ろしの段
(富津市・三枝かずを)
〇 落葉して遠くの海が見える丘
「房総の文化人村に冬来たる!」という一句である。
房総半島には山らしい山が無いから、原野に生えている闊葉樹が紅葉して落葉してしまえば、低い「丘」からでも「遠くの海が見える」のでありましょう。
〔返〕 落葉して遠くの杜が見ゆる朝ブリが獲れたと浜から便り
(芦屋市・田中節夫)
〇 白鳥に乗りて飛びたし我が山河
兵庫県加西市豊倉町の三田池は、西日本では珍しい「白鳥」の飛来地である。
毎年、冬になると百羽以上のコハクチョウが北の国から飛来するので、大阪方面から、鳥撮りや鳥キチがわんさかわんさか押し寄せるということである。
作中の「我が山河」とは、掲歌の作者・田中節夫さんがお住いの芦屋市を含めた六甲山麓の市街地や播磨平野そして瀬戸内海の風景でありましょうか?
〔返〕 鳥撮りに写真撮られた白鳥よ泥鰌獲るなら三田池に行け
(今治市・横田青天子)
〇 空抜けし如く銀杏の落葉かな
真っ青に晴れ上がった晩秋の空と路面に散り敷く黄色い銀杏の葉との色の対照が見事な一句である。
〔返〕 大空を蔽ふ如きに楠大樹 伊予の今治素晴らしき街
冬空を射むとばかりに冬欅 伊予国分寺五十九番札所
(柏原市・早川水鳥)
〇 神苑の静かに急ぐ落葉かな
掲歌の作者・早川水鳥さんは、一茶の故郷・柏原村のご老人方を引率なさってお伊勢参りにお出掛けになられたのでありましょうか?
〔返〕 逝く秋のお伊勢参りの帰り道 厄を落とせし遊郭油屋
(高松市・白根純子)
〇 海風を避けやうもなき冬木立
孤立無援と申しましょうか?
返り花が咲いているで無し、葉は枯れ果て落ち尽くしてしまったし、今となっては、「海風を避けようもなき」丘に茫然として佇んでいるばかりの「冬木立」なのである。
〔返〕 南無八幡大菩薩別しては金毘羅大権現 件の冬木立を守り給へ