臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日俳壇から(8月10日掲載・其のⅢ・夜の秋に身を置きながら)

2014年08月16日 | 今週の朝日俳壇から
[金子兜太選]

(オランダ・モーレンカンプふゆこ)
〇  噴水や千キロ走りて孫に会う

 「噴水」の属性の一つとしての「走る」というイメージが、オランダにお住いの俳人・モーレンカンプふゆこさんをして斯かる一句を詠ましめたものと推測される。
 〔返〕  噴水と競ふ速さや孫の脚
      噴水の競ふ長さや孫の脚
 本句を鑑賞させていただいた記念としての返句ならば、上掲の二句で充分と思われるのであるが、海外からの投句に示す選者・金子兜太氏の寛大さに対して、私は細やかながらも不満を感じているのである。
 私が世間並の出来具合の人間ならば、これを金子兜太氏の御齢の所為にして許容する事も可能なのかも知れませんが、世間並以下の非常識人である私としては、この際、選者及び作者を皮肉っておきたいという気持ちが無きにしも非ずだから、下記のような狂歌を一首添えさせていただきたいのである。
 〔返〕  オランダのモーレンカンプふゆこさん一千キロ走りお孫さんに逢ったと


(いわき市・馬目空)
〇  いつか逝く我が心身の汗拭ふ

 本句の作者の馬目空さんのお気持ちの中には、何をするにしろ「いつか逝く我が心身」という切迫した思いが在るのかも知れません。
 だとしたら、本句の下五は、「いつか逝く我が心身の疲れかな」、「いつか逝く我が心身の衰へや」、「いつか逝く我が心身の汚れかな」、「いつか逝く我が心身の痣見たり」などと、幾らでも入れ替えが可能なのである。
 しかしながら、この一句は、やはり下五に「汗拭ふ」という五音を置いた事に因って初めて朝日俳壇の入選作に相応しい佳句となり得たのであり、この下五にまかり間違って「障害者」という一語を置いて「いつか逝く我が心身の障害者」などという一句を仕立てたとしたら、漫画にもならない事でありましょう。
 〔返〕  汗掻かぬ時こそ即ち逝く時ぞ
 汗を掻くのは、私たち人間が生きている間だけの事でありましょう。
 私は、敗戦記念日の昨日、身体中に掻いた汗に因る不快感から解放される為に、連れ合いの膨れっ面を気にしながらも五回も入浴しました。
 と、言う事は、私は身体中から滲み出る汗を通して自らの生命を感じている、という事にもなりましょうか。
 したがって、福島県いわき市にお住いの馬目空さんも、この夏は大いに汗を掻いて下さい。 

(船橋市・斉木直哉)
〇  我一人風荒涼と晩夏かな

 晩夏の風に吹かれていても、其処に爽やかさを感じる者もいれば、荒涼とした気持ちに陥っている者も居る。
 要は気持ちの持ちようであるが、本句の作者の斉木直哉さんは、後者に属する人間の一人でありましょうか?
 〔返〕  俗塵に染まりたく無き晩夏かな
      世の塵に染まりたく無き性(さが)なれば斉木直哉は独り旅立つ


(福津市・松崎佐)
〇  原発と基地とまたぞろ原爆忌

 作者は何を仰りたいのか?
 作者の気持ちの中には、原発再稼働問題や沖縄の基地問題に対処する我が国の政府に対する不安感や不満感が在るのか? 
 それとも、そうした感情は朝日新聞と朝日歌壇の入選作に対してのものなのか?
 何はともあれ、そうした不満遣る方無き問題を前にして身動きもならなくなっている作者は今年も<またぞろ><原爆忌>を迎えてしまったのである。
 〔返〕  原発の一句またぞろ見厭きたり  


(京都市・水船つねあき)
〇  時間あり本あり妻なし夜の秋

 「夜の秋」という季語は、まさしく「今現在、即ち、平成26年8月16日午前3時5分という時点に於いて、私・鳥羽省三が川崎市多摩区の自宅のパソコンを前にして感じている季節感」を指して言うのでありましょう。
 敗戦記念日の昨日の暑さには、さすがの私もかなりのダメージを感じたのであるが、今、こうして京都市にお住いの水船つねあきさんのお詠みになった俳句を前にしている私の膚には、庭を吹き抜けて行く晩夏の風の爽やかさが細やかながらも感じられ、私は、昨日の昼とは一段と異なった気持になっているのである。
 それにしても、本句の作者の水船つねあきさんは、「<夜の秋>の空気に柔らかく包まれていながらも<(私には)時間あり本あり妻なし>などと惚けた事を仰る」のであるが、彼・水船つねあきさんは、身に纏うしがらみから解放されての安心感と共に幽かなる侘しさを感じているのでありましょうか?
 〔返〕  時間有れど遣ること無しの夜の秋
      身に纏ふパンツ涼しき夜の秋


(札幌市・小林かん奈)
〇  白紫陽花妻となるため旅支度

 季題は「白紫陽花」の「美」或いは「爽」もしくは「清・純」であるが、作者の小林かん奈さんの頭の中には、「白紫陽花のそうした属性に包まれ看取られながら、私は遠くの地に居る彼の許へと嫁ぎ行く為の旅支度をしているのである」という充実感と共に幽かなる不安感が兆しているのである。
 〔返〕  旅行きて小林かん奈花散らす


(国分寺市・越前春生)
〇  光のごと翳のごと蝶日雷

 作中の「日雷」は「ひがみなり」と訓むのであり、「晴天の時に雨を伴わないで鳴る雷」を指して言うのである。
 したがって、本句の意は「日雷の鳴り響く中を、一羽の蝶が、ある瞬間は光の如く、またある瞬間は翳の如くに変わり身を示しながら舞い飛んでいる」といったところでありましょう。  
  〔返〕  日雷揚羽の翅の濡れもせず


(長野県川上村・丸山志保)
〇  風吹けば風になりきる麦の秋

 「風吹けば風になりきる麦の秋」とは、「麦秋を迎えて黄金色に染まった麦畑が、初夏の風に吹かれて涼しそうに靡いている様子」を詠んだものである。
 〔返〕  雨降れば農婦憩へる麦の秋
      雨降れば一日(ひとひ)休暇の麦の秋
 稲の刈り取りは雨天の日でも予定通り行うのであるが、麦の刈り取りは晴天の日を選んで行うのは如何なる理由が在っての事でありましょうか?


(上山市・佐藤権一郎)
〇  蝉の殻九条どこへ行くのやら

 「自公連立政権に拠る<解釈改憲>の結果として、我が国防衛の最前線たる憲法九条が<蝉の抜け殻>みたいな無価値なものに成り果ててしまった」、との意でありましょう。
 〔返〕  九条に疚しき心認めたり
 「疚しき心」とは、「必ず入選しようという強い意志を込めて、本作中に<九条>という語を敢えて用いた、作者・佐藤権一郎の激しい情念」を指して言うのである。


(茅ヶ崎市・清水吞舟)
〇  滝となり水仰がるる拝まるる

 「水」も只の平地を流れているだけでは格別に仰がれたり拝まれたりする事は無いが、其れが、一旦、傾斜厳しき崖地を流れるや否や、忽ち「滝」と呼ばれ、多くの観光客を集めたり、彼らから仰がれたり拝まれたりするのである。
 私たち日本人は、その最たるものとして、日光の「華厳の滝」及び熊野古道の一廓に在る「那智の滝」、そして、彼の西行法師が「花もみち経緯(よこいと)にして山姫の錦織出す袋田の瀧」と詠んだとされる、茨城県久慈郡大子町の「袋田の滝」を「日本三名瀑」と呼び、信仰対象にさえして居るのである。
 清少納言の著『枕草子』の「第五八段」には、「滝は、音なしの滝。ふるのたきは、法皇の御覧じにおはましけんこそめでたけれ。なちの滝は、熊野にありときくが哀なり。とゞろきの滝は、いかにかしがましく、おそろしからん」とあり、「日本三名瀑」の中から「那智の滝」だけが採り上げられているのであるが、斯かる蛮行は、著者の清少納言の行動範囲の狭さを証明する以外の何者でも無いのであり、此れを以ってして、「華厳の滝」や「袋田の滝」の価値が貶め卑しめられる理由にはならない事を、この際、私は力説しておかなければなりません。
 その点に就いての本ブログの読者の方々のご意見は如何なものでありましょうか?
 〔返〕  吞舟と言へば巨大な鯰かな
      吞舟はアマゾン河の鯰なり


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