臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日俳壇から(12月8日掲載・其のⅣ・決定版)

2013年12月17日 | 今週の朝日俳壇から
[稲畑汀子選]

(横浜市・犬山達四郎)
〇  なぜ掃くや落葉積りし豊かさを

 寸評に「一句目。自然のままの姿ほど美しいものはない。その落葉のなぜ掃いてしまうのかと残念な作者。」とある。
 「朝日俳壇」の寸評欄は僅かに五行であり、字数にして百字足らずである。
 屋上に屋を架けたような、蛇の絵に足を書き足したような、この寸評に要した字数は、赤穂浪士の員数と同じ四十七字である。
 頭脳明晰ならずして寸評は書けません。
 〔返〕  何故記す無駄な寸評よしときな赤穂浪士の討ち入り近し


(三郷市・岡崎正宏)
〇  風呂に入り肩まで冬を沈めけり

 「風呂に入り肩まで」沈めたのは「冬」では無くて、岡崎正宏さんの冷えた身体である。
 そして、岡崎正宏さんが冷えた身体を「肩まで」沈めたと同時に、同じ体積のお湯が浴槽から溢れ出たのである。
 〔返〕  掛け湯して身体温めて湯に入れ急に入れば心筋梗塞 


(伊万里市・萩原豊彦)
〇  居酒屋の前で決つて夕時雨

 とぼけるのもいい加減にしなさい!
 毎日、毎日、町一軒の「居酒屋の前」で「夕時雨」に遭うわけはありませんよ!
 それとも、あの厚化粧してお正月の獅子舞の獅子のような顔をした女将に誑し込まれた、とでも言いたいのですか?
 〔返〕  今日もまた居酒屋前で夕時雨ちょっと一杯雨宿りして  


(平戸市・辻美彌子)
〇  山坊の新たな生命笹子鳴く

 「山坊」の「坊」は、「宿坊」の「坊」と同じく「住居・部屋・室」といった意であり、「山坊」で以って「山の住居」即ち「別荘」乃至は「山小屋」の意でありましょうか?
 いずれにしろ、「山坊」という言い方は一般的な言い方とは言えません。
 それはそれとして、「笹子」とは、「まだ整わない鳴き方をしている冬の鶯」を指して言うのである。
 掲句の作者・辻美彌子さんは、久しぶりに別荘にお出掛けになられて、笹子の笹鳴きを耳にした瞬間、「私の知らない間に、この山坊に新たな命が生れていたのだ!」と、感動の極点に達しられたのでありましょう。
 〔返〕  うぐいすの笹子笹鳴き笹薮で笹川流れに竿差す流石
      嗚呼、笹子!胸の高鳴る笹鳴きよ!我の命はほとほと死にき!


(阿南市・湯浅芙美)
〇  石路咲けど笹鳴すれど師は在さず

 その季節が到来すれば、ツワブキの花が咲いたり、鶯の笹子が笹鳴きしたりするのは当然の事であり、「師」が「在さ」ざる事とは何ら関わりがありません。
 しかしながら、人間なら誰しも、日本人なら特に、季節の推移と親しい人間の生死とを比較対照して喜んだり悲しんだりするような習慣(悪習と謂うべきかも知れません?)を持っていますから、掲句の作者・湯浅芙美さんが、「季節は今、ツワブキが淡く咲き、鶯が笹鳴きをする初冬である!しかしながら、私は今や、その感動を伝えて、共に喜ぶべき師を亡くしてしまったのだ!」と、季節の美しさを讃えると共に、その感動を共にするはずであった、師のご逝去をお嘆きになるのは、少しも不思議なことではありません。
 それとは別に、作品の前半に季節の推移を表す語句を置き、後半にそれとは真逆な語句を置いて、それらを「ど」という逆接の接続助詞で以って結ぶという表現は、あまりにも常套的な表現であり、掲句は、必ずしも朝日俳壇の入選作に値するとは申せません。
 〔返〕  たまプラにジングルベルの音が響きレジの小母さんサンタの衣装


(岐阜市・中島弘子)
〇  うかうかと十一月を迎へけり

 全く同感です。
 不肖、私も亦、気がついてみると「うかうかと」師走半ばを迎えてしまっていたのであり、来週の火曜日になれば、例の如く、朝一番に掛かり付けの病院に出頭し、もの凄くず太い注射針で血液を大量に抜かれ、身ぐるみ剥がれて健診台に乗らなければなりません。
 そして、その翌週には、格別めでたくも無いのに、午年の新年を迎えなければならないのである。
 〔返〕  うかうかと赤信号を渡りけりダンプ停まるし運転手怒鳴る


(筑紫野市・多田蒼生)
〇  冬ざるる風の大観峰に立つ

 掲句中の「大観峰」とは、「熊本県阿蘇市にある標高935.9mの山であり、阿蘇北外輪山の最高峰であり、カルデラ盆地の阿蘇谷や阿蘇五岳をはじめ、九重連山を一望することができる」とか。
 更に言えば、「大観峰の名は、熊本県出身のジャーナリスト・徳富蘇峰によって命名されたとされており、古くは『遠見ヶ鼻』と呼称されていた。阿蘇谷を一望できることから熊本県内のテレビ放送局が阿蘇北中継局を設置している他、警察庁の無線中継所も設置されている」とか。
 斯く申す私も、阿蘇山には三回ほど登らせていただいて、三回の中の二回は噴火口まで足を運びましたが、件の「大観峰」には一度も登っていません。
 ところで、掲句の作者・多田蒼生にお訊ね致しますが、貴方様がお登りなさった折りには、噴火口から噴き上がって来る噴煙の量は如何ほどであり、風向きは如何であったのでありましょうか?
 〔返〕  冬ざるる大観峰には立たざるも噴火口には二回も登る  


(久留米市・谷川章子)
〇  家事といふ限のなきもの冬に入る

 「家事といふ限のなきもの」とは、言い得て妙なる表現である。
 私の連れ合いのS子も亦、その「家事といふ限のなきもの」の始末に、日がな一日追われているとか?
 〔返〕  自ずから限りがあると思えども「日がな一日追われている」と?


(熱海市・野間泰子)
〇  しあはせな疲れのひと日七五三

 「七五三」とは、「七歳、五歳、三歳の子供の成長を祝う日本の年中行事。天和元年11月15日(1681・12・24)に館林城主である徳川徳松(第5代将軍・徳川綱吉の長男)の健康を祈って始まったとされる説が有力である」と、フリー百科辞典『ウイキペディア』は解説するのであるが、それとは別に、「我が国には、極めて例外的な事例を除けば、七五三に類する子供の成長祝いの通過儀礼は無かったのであるが、近年に至って、商売上手な(阿漕な)都内の百貨店などが結託して、『七五三』なる行事をでっち上げるに至った」との説も在って、私としても確かなことは言えません。
 それはどうでも宜しいが、掲句の作者は、お子様の「七五三参り」の日を「しあはせな疲れのひと日」として、心の底からお喜びになっておられるご様子ですから、内需拡大という意味に於いても、それはそれで目出度い事ではありませんか?
 〔返〕  幸せなひと日再び七五三!お鎮守様に写真屋さんに!


(寝屋川市・岡西恵美子)
〇  秋天は雲のまほろば明日も旅

 1894年、スウェーデンのウプサラで国際気象会議が行われ、国に拠って、地方に拠って、いろいろと異なった呼び方が為されている雲の名称を、「巻雲・巻積雲・巻層雲・高積雲・高層雲・層積雲・層雲・乱層雲・積雲・積乱雲」の10種類に大別するとの国際間の取り決めが為されたのである。
 その中の巻積雲は、「いわし雲・さば雲・うろこ雲」といった異称を以って呼ばれ、いずれも「秋天」に彩る美しい雲である。
 当然の事ながら、雲という自然現象は、「秋天」に限って生じるものでは無くて、春夏秋冬、何れの季節の空にも生じる現象である。
 然るに、「秋天」を彩る「巻積雲」に限って、上掲の如く「いわし雲・さば雲・うろこ雲」といった美名で以って呼ばれ、他は異称で以って呼ばれる場合が在るとしても、「雨雲・雪雲(乱層雲)」、「入道雲(積乱雲)」、「まだら雲(層積雲)」といったような美しくも無ければ、面白くも可笑しくも無い、即物的な異称で以って呼ばれているのである。
 詰まるところは「秋天」こそは、まさしく「雲のまほろば」ということには相成りましょうか?
 〔返〕  あま雲かゆき雲なのか乱層雲?雨と雪とはかなり違うぞ!  


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