臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(9月5日掲載・其のⅢ・いにしへの巴里のホテルはまだ二つ星)

2011年09月17日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]

○  あはやかな恋もありけりいにしへの巴里のホテルはまだ二つ星  (ドイツ) 西田リーバウ望東子

 恋人と語り合った「巴里のホテルはまだ二つ星」に過ぎなかったが、その恋の内容も「あはやかな」ものに過ぎなかったのでありましょうか?
 〔返〕  あはやかな恋ははかなく我もまたエリスの如く燃えたかりしを   鳥羽省三


○  今日初めて海からあがったもののようペタリペタリと父の足音  (赤穂市) 内波志保

 今から三億年以上も前に、初めて「海から」陸に「あがった」生き物、即ち生物学史上初めての両生類を、私たちは“イクチオステガ”という名称で記憶している。
 「ペタリペタリ」とした「父の足音」は、「今日初めて海からあがったもの」即ち“イクチオステガ”の「足音」のようだ、と本作の作者は述べているのである。
 命を分けた「父」に対する情愛をこうした形で述べることは極めてユニークで、これはこれで一つの情愛の示し方であろう、と納得させるような作品である。

 〔返〕  幕内で初めて勝った隆の山ペタリペタリと花道を往く   鳥羽省三
 昨(十七)日の大相撲秋場所六日目で、チェコ出身の前頭西十五枚目の力士“隆の山”が幕内戦で初めて勝ち名乗りを得ました。
 決まり手は、取り組み相手の翔天狼の詰めの甘さが原因の“いさみあし”でありました。
 それでも、彼・隆の山は体重100kgに満たない長身痩躯を堂々と張り、「ペタリペタリ」と「足音」を立てて花道を去って行きました。
 今朝の朝日新聞・18面には「やせガエル祖国に届け勝ち名乗り」という見出しの下に、写真入りの記事が掲載されておりました。
 事の序でに申し上げますが、私の連れ合いの鳥羽翔子は“隆の山”の熱狂的なファンであり、「来場所からは、家計費を節約して懸賞金を出そうか」などと勝手なことを言っております。

 
○  単調に時過ぎしのちひぐらしの鳴く声聴けば夕凪深む  (西条市) 亀井克礼

 日々の暮らしは「単調に過ぎ」るを以って佳しとする。
 その「単調」で幸福な一日の「時」が「過ぎ」て行った「のち」、本作の作者は、「ひぐらしの鳴く音」をしみじみと聴き、漸く「夕凪」の深まった瀬戸内の海の気配に耳を澄ましているのである。
 真に羨ましい限りの亀井克礼さんの、現在のお暮らし向きでありましょう。
 〔返〕  明日の朝網元の従弟を手伝って地引き網引く予定立ててる   鳥羽省三


○  木漏れ日の下で瞼を閉じおればヒカリノオトニ秋ガキテイル  (福島市) 美原凍子

 作中の「ヒカリノオトニ秋ガキテイル」という部分は、何かの出典に基づいての表現でありましょうか?
 それとも、この部分を「ヒカリノオトニ秋ガキテイル」とカタカナ書きにすることに拠って気の利いた作品にしよう、との意図に基づいてのことでありましょうか?
 視覚的イメージの「ヒカリ」を、聴覚的に「オト」として感得し、その「オト」に依って「秋ガキテイル」ことを心で感得する。
 美原凍子さんらしい手の込んだ詠風とは思われましょうが、評者の私にとっては、「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」という『古今和歌集』所収の藤原敏行の作品に、少しだけ手を加えた程度の作品のようにしか見えません。
 ところで、本作の作者は、「ヒカリノオト」に“セシウムノニオイ”を感じなかったのでありましょうか?
 だとすれば、大変結構なことである。
 〔返〕  キッチンの窓辺に立てば秋の気配ヒカリのオトにセシウム混じる   鳥羽省三


○  「雑草という草はないんだよ」言はれて見ゆるダンドボロギク  (滋賀県) 川並二三子

 作中の「雑草という草はないんだよ」とは、さる高貴なお方のお言葉かと思われます。
 それにしても、上句「雑草という草はないんだよ」の部分のリズムの悪さが目立ちます。
 もう少し手を加えて「雑草という名の草はないんだよ」となさったらいかがでありましょうか?
 また、本作をそのまま素直に解釈すると、「『雑草という草はないんだよ』と、今は亡きさる高貴なお方から直接『言はれて』気がついたら、あの帰化植物の『ダンドボロギク』が目に入った」ということになりましょう。
 恐らくは、作者・川並二三子さんの周辺の何方かが、さる高貴な方のお言葉を、それと知ってか知らないでか、自分が感じたようにして「雑草という草はないんだよ」と言ったのでありましょう。
 さる高貴な方のお言葉を自分の言葉のようにして話したこともさることながら、それを受け止めた際の「言はれて見ゆるダンドボロギク」という表現も、かなり粗雑な表現である。
 作者も粗雑、選者も粗雑、粗雑の上に粗雑を塗り重ねたような作品である。
 ところで、「ダンドボロギク」とは、北米原産の帰化植物で、昨今の我が国では北海道西部から九州まで生育している。
 1933年に愛知県で採取されたが、発見地の段戸山に因んで「ダンドボロギク」と命名されたと言われている。
 本作の作者・川並二三子の目には、「ダンドボロギク」が「雑草」そのもののように見えたのでありましょうか?
 〔返〕  「雑草という名の草はないんだよ」昭和天皇我らを諭す   鳥羽省三


○  雑草の育たぬ畑は畑じゃない言われて十年戦い続く  (安中市) 入沢正夫

 つまりは、本作の作者・入沢正夫さんは、本物の「畑」で、その「畑」が本物の「畑」であることを証明する「雑草」と「十年」もの長い間「戦い」続けた、ということになりましょう。
 さて、我が家の「畑」が本物であることを証明する生き証人との「十年」に及ぶ「戦い」の戦果はいかがでございましたでしょうか?
 〔返〕  大豆五石小豆二石を勝ち得たりはびこる草との戦い十年   鳥羽省三
      年により戦果さまざまある年は泣きの涙の収穫放棄


○  新たなる日々を生きよと身をよぢる残りわづかの歯みがきチウブ  (東京都) 山下光代

 「歯みがきチウブ」なる無機質な物体が「新たなる日々を生きよと身をよぢる」とは、何とユーモアたっぷりで、何と示唆に富んだ言い草でありましょうか!
 「歯みがきチウブ」が「新たなる日々を生きよと身をよぢる」のか?
 「新たなる日々」とは、どんな「日々」なのか?
 「新たなる日々を生き」るとは、どんな生き方をするのだろうか?
 たかが三百円足らずの品物のくせに、しかも中身を空っぽにされてしまったくせに、「歯みがきチウブ」というやつは生意気なことを言うやつだ。
 それにしても、本作の作者・山下光代さんは“超ドケチ”な方とお見受けし、一本の「歯みがきチウブ」の中身を、徳川家康みたいに、搾れるだけ搾って捨てたのでありましょう。
 評者にとっては、搾れるだけ搾られた挙句に捨てられた「歯みがきチウブ」の行く末が心配である。
 〔返〕  新たなる日々を生きよと捨てられた蛇の抜け殻火傷の薬    鳥羽省三
      新たなる日々を生きよと脱ぎ去られ蝉の抜け殻ミミズの玩具


○  かなう夢なんてはなから夢じゃないなどとわたしの夢がつぶやく  (垂水市) 岩元秀人

 つまるところ、本作の作者・岩元秀人さんは、“夢も希望も無いような夢”ばかり見ていたのでありましょうか?
 〔返〕  信じれば必ず叶ふ福島の復興成就はいつの日ならむ   鳥羽省三


○  一日に三便佐渡の小木航路待合室を通る潮風  (東金市) 山本寒苦

 「一日に三便」のライフライン「小木航路」の「待合室」には、いつも涼しい「潮風」が吹いているのでありましょうか?
 だとすれば、佐渡島は現代社会の桃源郷のような島でありましょう。
 〔返〕  一日に一便だけの羽後バスがお客も乗せずに走る横手市   鳥羽省三  


[馬場あき子選]

○  幼子ら希望を掴む両手出し体内被曝量測らるる  (福生市) 斉藤千秋

 「幼子ら」の「両手」が「希望を掴む」とは、大人側の単なる「希望」でしかありません。
 かく「希望」する大人は、自分自身の「両手」が「希望」とは異なって、どんな物を掴んだか、ということを、自己の体験に基づいて知悉しているからこそ、「幼子ら」の「両手」が「希望を掴む」ことを、強く念じているのでありましょう。
 その「希望を掴む」ことを強く念じられている「両手」を差し「出し」、被災地・福島の「幼子ら」は、今しも、自分の「体内」に含む「被爆量」を「測ら」れようとしているのである。
 〔返〕  両手とは体内被曝量測られる為にあるのか福島の児に   鳥羽省三 


○  盆踊りの櫓の後ろ不気味なる北電泊原発が見ゆ  (稚内市) 藤林正則

 稚内市のご自宅のテレビ画面に映った泊村の「盆踊り」風景に取材した作品でありましょうか?
 それはどうでも、私たちは、三月十一日以前と以後との、自分自身の目に映った風景に対する印象の違いに着目するべきでありましょう。
 私も今から七、八年前に、泊村から積丹半島へと続く道をドライブしたのであるが、
車が泊村の村内を通過している時は、道路は整備され、家並みは瀟洒で、「北電泊原発」の建屋を、まるでお伽の城を見ているような思いで一望したものでした。

 〔返〕  盆踊りの櫓見下ろし忌まわしき北電泊原発建屋   鳥羽省三
 「建屋」という即物的な単語も、あれ以来、私たちの生活とすっかり馴染んだ単語と化しました。


○  盂蘭盆会先祖に汚染のこと伝へ古米の餅を供へて偲ぶ  (須賀川市) 布川澄夫

 「古米」の意味が不明である。
 通常、「古米」という言葉は、お米の収穫期が過ぎた後の、過年度産の美味しくないお米を指して言うのである。
 本作の作者がお住いの福島県須賀川市界隈には、「盂蘭盆会」に際して、ご「先祖」様に、わざわざ美味しくない「古米」の餅米で作ったお「餅」を「供へ」る習慣が在るのでありましょうか?
 それとも、作中の「古米」とは、いわゆる“古代米”即ち“赤米”を指すのでありましょうか?
 〔返〕  須賀川の稲田は今年田植えせずご先祖様も古米で我慢   鳥羽省三


○  朝顔の蕾の螺旋爽やかで理髪をせんと思ふ今朝なり  (草加市) 菊地のはら

 未だ「朝顔」が開花する前の早朝でありましょう。
 本作の作者の菊地のはらさんは、未だ「螺旋」状態を成している「朝顔の蕾」に、突如「爽やか」さをお感じになられ、この「爽やか」でさっぱりした気分で一日を過ごそうと思い、午前九時過ぎになったら「理髪」をする為に、千円カットの床屋に出掛けようと思い付いたのである。
 「朝顔の蕾の螺旋」に「爽やか」さを感じた瞬間、理髪店の「螺旋」クルクル回転看板を思い出し、「理髪をせんと思ふ」のは、ごく自然な心の動きでありましょう。
 〔返〕  朝顔の藍の深みの爽やかに昨夜ぼられたママを忘れる   鳥羽省三


○  道よぎる亀を拾ひて山池に放つ子連れの秋のお遍路  (高石市) 木本康雄

 「子連れ」の「お遍路」と言っても、同行した「子」は、未だ就学以前の幼児でありましょうか?
 昨今は、親のご都合で、幼稚園児や小学児童を休園・休学させて、無理矢理、霊場参りに同行させる若年夫婦が居る、ということを耳にしてびっくりしている次第でした。
 給食費は払わない。
 学校行事には参加させない。
 親の都合で学校を無届けで休ませる。
 こんな勝手な親たちを、お大師様はお救い下さるのでありましょうか?
 それはそれとして、「道よぎる亀を拾ひて山池に放つ」とは、“放生”という仏様の教えに則った善行であり、こんな「お遍路」をこそ、弘法大師・空海上人様はお救い下さるのでありましょう。
 〔返〕  道々のお地蔵様にも手を合せ親子遍路は同行三人   鳥羽省三


○  雨浴びて雨の暗さをまとわねば街に一点火となるポスト  (和泉市) 長尾幹也

 仰る通り、独立事業法人・郵便事業会社の「ポスト」を赤く彩っている塗料は、水を弾く性質を備えているので、降雨時に「雨」を「浴びて」も「雨の暗さをまとわ」ないので、「街に一点」の灯「火」を点したような印象を受けましょう。
 〔返〕  泥に生え泥の汚れを纏はねば菩薩坐します蓮うるはし   鳥羽省三


○  熊蝉(しゃあしゃあ)の声に油蝉(じいじ)はひたと黙し蛁蟟(みんみん)は裏の榎へ逃げる  (岐阜県) 棚橋久子

 「熊蝉」は真昼間に鳴き、「油蝉」は夕暮れ時に鳴きますから、「熊蝉」の「(しゃあしゃあ」と鳴く音と「油蝉」の「じいじ」と鳴く音の重なる時はほとんど在りません。
 また、秋の気配を知らせるようにして「みんみん」と鳴く「蛁蟟」、即ち“つくつく法師”と「熊蝉」とは、鳴き声の性質から判断しても相性が良くないと思われ、「熊蝉」が「しゃあしゃあ」と鳴き出すと、“つくつく法師”は鳴き声を止めて、何処かへ逃げ去ってしまうのである。
 本作のケースは、作者の棚橋久子さんのご自宅の「裏」に、たまたま「榎」の木が生えていたから、「熊蝉」が鳴き出した途端に、“つくつく法師”は「裏の榎へ」逃げて行ったのでありましょう。
 本作は、いかにもご高齢の作者らしい暮らし向きが伺われる、静寂と思惟に満ちた作品と思われる。
 〔返〕  熊蝉の鳴く音聴きつつ昼寝する目を覚ましたら油蝉が鳴く   鳥羽省三


○  前足を揃えて猫は猫ポーズ柘榴樹の下涼みていたり  (四街道市) 佐相倫子

 「石榴」の青々とした葉が繁茂している下はいかにも涼しげな感じがするものである。
 「猫」という動物は、「前足を揃えて」お得意の「猫ポーズ」を取りながらも、涼しい所や暖かい所を、あれでなかなか見分けているのである。
 〔返〕  後ろ足でけんけんしてる変な猫お宅のミケは犬みたいだね   鳥羽省三


○  牛たちの潤む瞳を小窓よりのぞかせながら車列何処へ  (仙台市) 村岡美知子

 場というストレートな表現は、差別語として使われなくなってしまったのでありましょうか?
 本作の作者と言えども、「潤む瞳を小窓よりのぞかせながら」「牛たち」が連れて行かれる先は承知しているはずである。
 だが、それと言わないところが、短歌創作の妙諦と心得ていればこその表現でもありましょう。
 ただし、ずばり言うことも亦、妙諦の一つと心得なければなりません。
 〔返〕  護送車と申しましょうか牛たちの憂い顔して小窓より見ゆ   鳥羽省三


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