唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞元二十一年・永貞元年(805年.延暦23年)

2006-10-26 19:02:59 | Weblog
正月宗が亡くなり、順宗が待望の即位をしたがすでに重病であり政務を満足に取ることができなかった。
そこで側近の王叔文が、王伾・劉禹錫・柳宗元・程异など少壮官僚達とともに新政に乗り出した。
宦官軍權の排除や停滞した政治の改革が矢継ぎ早に指令された。しかし抵抗勢力が強くなかなか浸透しなかった。
順宗の健康は悪化していくばかりであり、皇太子の即位を望む声が強く、八月には順宗は退位して上皇となり、憲宗が即位した。
憲宗は宦官吐突承璀の影響を受け、宦官の軍權を元に戻したが、政治改革については精力的におこなった。しかし前帝の側近王叔文や取り巻きの少壮官僚は左遷され姿を消した。
また八月には対吐蕃の重鎮西川節度使韋皐が亡くなり、その幕僚の劉闢が自立した。憲宗は即位早々この対策に逐われることになった。
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貞元二十年(804年.延暦22年)

2006-10-26 19:01:56 | Weblog
正月、勇名をうたわれた天徳防禦使李景略が亡くなった。軍は判官任迪簡を擁立し朝廷は相変わらず追認をつづけた。
宗の健康状態の悪化もあり政務はまったく停滞し、姑息な対応策を重ねていくことになった。
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貞元十九年(803年.延暦21年)

2006-10-26 18:07:03 | Weblog
宗も老齢化し、政務も姑息を極め・人事も停滞し沈滞した雰囲気が続いている。相変わらず節度使が死ぬと、行軍司馬が昇格する人事[行軍司馬は軍の意向を伺ってから任命される]が続いていて、中央の威令は届かない。このような状況で皇太子[順宗]周辺に現状に不満をもつ若手官僚が集まりつつある。
正月安南、閏十月鹽州で反乱が起きるが大勢に影響するものではなかった。
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