唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

河朔三鎭の權力構造

2013-03-17 10:45:37 | Weblog
1995年渡邊孝氏が書かれた「魏博と成 : 河朔三鎭の權力構造についての再檢討」という論文を読む。
河北(河朔)三鎭のうち、幽州盧龍軍は奚や契丹、そして渤海等との関係があり、常に臨戦状態にあり
他の二鎭とは違う状況であることはわかっていたが、魏博と成徳に関しては類似した状況にあると思っ
ていた。氏の論文をみてそれぞれの差異がある程度理解できるようになった。
魏博 初代田承嗣に親軍なし→徴兵による在地性の強い軍の編成→強力な牙軍の形成→方鎭の継続→
成徳 初代李寶臣に親軍あり→有力な將領の率いる軍の結合体→將領の分離・没落→王氏世襲へ
 つまり成徳では強力な牙軍が形成されることはなく、それによる廃立が発生しなかったという論である。
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使相とその會要記事 その102武宗

2013-03-14 20:50:03 | Weblog
宦官に擁立された武宗皇帝は意外に有能で、豪腕宰相李裕に力を振るわせ、回紇帝国崩壊への対処や、
昭義節度劉稹の討伐などを成功させ、廃仏により財政再建も開始した。しかし水銀中毒により頓死し、
その事業は中断した。
會要による使相は四人
◎劉從諫(昭義)
◎王起(山西)-宰相を経験しない初の文官使相である
◎何宏敬(魏博)
◎王元逵(成徳)
 魏博・成徳は昭義討伐の功績による
いつものように宰相出身の使相は抜けている
李紳(淮南)
崔鄲(河中)
陳夷行(河中)
牛僧孺(山東)
李石(荊南-河東)
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使相とその會要記事 その9文宗

2013-03-08 11:15:45 | Weblog
生真面目で誠実だが、定見のない文宗皇帝の時代、宦官勢力を排除しようとしてかえって反撃され傀儡となってしまった。自然災害は多かったが戦乱は横海李同捷の反乱程度であり比較的平和な時代であった。
そのため會要の使相は五人と少ない。相変わらず文官はすべて脱落している。
○烏重胤(天平・横海)
○史憲誠(魏博・河中)
○王智興(武寧・河中・宣武)
○李載義(幽州・山西・河東)
○劉從諫(昭義)
[記載漏れ.すべて文官で宰相経験者]
杜元潁(西川)
段文昌(荊南.淮南.西川)
王播(淮南)
裴度(山西.山東)
牛僧孺(武昌.淮南)
李程(河東)
李逢吉(山東)
李裕(山西.)
李宗閔(山西)
路隋(鎭海)
李固言(西川)
李石(荊南)
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(番外)河北三鎭 その6.河北の残照-2

2013-03-04 10:38:26 | Weblog
4.幽州 常に契丹等と戦い武力を維持していたため、唐末には李可擧は沙陀(李國昌-克用)討伐に活躍し、李威は成徳を支援して河東李克用と対抗した。しかし威は弟匡籌に逐われ、弱体化した所を克用に征服された。克用下で任命された劉仁恭はやがて自立した。仁恭は積極的に勢力拡大を謀って義昌を征服し、魏博・成徳を攻撃した。しかし全忠の北伐には対抗できず敗走して城に籠もり、子の守光に監禁された。守光はやがて全忠麾下に入った。
5.義武 王處存は京師回復に活躍し功績をあげた。その後河東李克用と連携し、幽州・成徳と戦ったが、全忠の北伐には対抗できず麾下に入った。
天祐年間には河北はほぼ朱全忠の勢力圏に入ったが、衰弱した魏博以外は半独立の状態で有りやがて、後唐の勃興時には離反する。
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(番外)河北三鎭 その6.河北の残照-1

2013-03-03 11:17:12 | Weblog
會昌以降乾符まで唐と河北三鎭の関係は共存期に入り、唐朝はなんらの回復も試みておらず、三鎭側も反抗的な態度を示していない。會昌年間には回紇滅亡後の処理に幽州と唐朝は協力してあたり、昭義節度劉愼の討伐に関しては成徳や魏博は参戦している。また咸通年間の徐州龐の乱では魏博は派兵し、成徳は軍資を提供する状況であり、ほぼ体制内の組織となった。
しかし唐末(廣明元年12月の黄巣による京師制圧以降)にはそれぞれの動きを示す。
1.魏博 節度使韓簡は勢力拡大を謀り、渡河点の河陽を制圧し、黄河対岸の天平を攻撃したが敗北し牙軍の信頼を失い、樂彥禎に奪位された。やがて彥禎も牙軍に殺され、羅弘信が擁立された。すでに老朽化したその軍は、新たに勃興した李克用・朱全忠らに敗北を重ねる状況であった。弘信を嗣いだ紹威は全忠の協力を得て、牙軍を潰滅させたが、弱体化し全忠の麾下に入るしかなかった。
2.成徳 王氏一族が世襲し、唐末には貴族化した景崇・鎔が君臨した。当然として軍は弱く、李克用等の侵攻に際しては常に幽州の支援を仰いだ。幽州の支援が得られなくなると全忠の支配下に入った。
3.義昌(横海) 盧彥威が自立していたが、さしたる活動をせず、やがて幽州劉仁恭に滅ぼされ、子の守文が入った。全忠の北伐にはなんとか耐えていたが、父仁恭が兄に監禁されると全忠の麾下に入った。
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(番外)河北三鎭 その5.河北体制の変質

2013-03-02 16:54:53 | Weblog
幽州(朱克融)成徳(王廷湊)魏博(史憲誠)が自立したが、
幽州は最外殻の位置でもあり唐朝への反感は弱く、異民族への対応もあって積極的な策動をすることはなく、李載義や張仲武・張允伸など親唐朝の姿勢を取ることも多かった。
魏博は牙軍の勢力が強く、節度使は担がれているだけであり実権は乏しかった。史憲誠は唐朝に帰服しようとして殺され、何進滔が反唐朝であったが、あくまで非協力という程度のものであり、進滔の没後は唐朝に妥協的な姿勢に変わっていった。
成徳の牙軍は保守的であり、節度使の連続性を重視していた。廷湊は反唐朝の姿勢を明らかにして、横海李同捷の自立を支援したが大勢に影響を与えず、廷湊没後は子の元逵以降は唐朝に妥協的な姿勢に変わっていった。
横海は三鎭の独立の影響を受けて混乱し、李全略-同捷は自立を謀り唐朝の討伐を受けた。唐軍の相変わらずの惰弱さから乱は長引いたが、武寧王智興(自分も自立したのだが)の攻撃により平定され、その後は中央から派遣される武官に支配される順治となった。
義武は中央からの援助がなければやっていけない貧地であり、比較的良政を敷く節度使が続いたため、一時期の張璠の時代を除き、順治として唐朝の管轄下にあった。
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