唐史話三眛

現在唐の宰相の略伝を記述しています。
最終的にはすべての宰相を網羅する予定です。

唐朝の皇太子26 昭宣帝

2018-06-11 22:42:58 | Weblog
天祐元年8月簒奪を計画した朱全忠[後梁の太祖]により、昭宗が殺害されました。即時に奪位するのは困難であったので、幼い昭宗九子輝王が擁立されます。もちろんなんの実權もない傀儡です。四年三月朱全忠に位を譲り曹州に幽閉され、翌年二月殺害されました。名実ともに唐朝は滅んだわけです。一応瞬間皇太子です。
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唐朝の皇太子25 德王

2018-06-11 22:33:35 | Weblog
昭宗は即位したもの実権は宦官楊復恭が握り、唐朝の大部分は軍閥が支配して、京師近郊しか支配権は及びません。まだ骨があった昭宗は楊復恭を追放しますが、鳳翔節度使李茂貞に京師を追われて、華州韓建の元に逃亡します。横暴ですが多少は学があった韓建は古例により皇太子を立てようとして、乾寧4年昭宗の長子德王祐を立太子します。実に敬宗以来です。光化3年12月酒乱の昭宗が宦官により廃位されると擁立されて即位しますが、翌天復元年正月宰相崔胤等により昭宗が復位すると、廃位され德王に戻されます。その後天祐2年朱全忠により殺害されました。
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唐朝の皇太子24 昭宗

2018-06-11 22:26:57 | Weblog
僖宗は唐代最低の皇帝で、宦官田令孜や楊復恭の完全な傀儡で、何一つ主体性はありません、白痴というのが言い過ぎならば魯鈍という所でしょう。黄巣に京師を追われて、剣南の成都に逃れ、その後も李克用や朱玫に京師を追われて山西を徘徊します。やっと京師に戻った文徳元年3月に27才で死んでくれました。もちろん皇太子など定まっていません。さすがにそのバカさかげんには辟易していた楊復恭達は、少しはみどころのある懿宗七子の壽王傑[昭宗]を皇太弟として擁立します。これも一瞬皇太弟です。
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唐朝の皇太子23 普王[僖宗]

2018-06-06 14:12:28 | Weblog
懿宗は無能であり我が儘で、妻の郭妃の言いなりで、宦官や腐敗した宰相達に政治を任せて仏教や遊興にふけりました。仇甫、龐勗の乱や南詔の侵攻がありましたが、宣宗の余光がまだあったのでなんとか体制は維持されていました。
皇太子は決められておらず、懿宗の死後、神策中尉劉行深、韓文約は、白痴的で幼少な五男普王儼[僖宗]を擁立しました。これも一瞬皇太子です。唐朝滅亡の始まりです。
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唐朝の皇太子22 鄆王[懿宗]

2018-06-06 13:49:27 | Weblog
宣宗は無能な長子の鄆王[懿宗]より、弟の蘷王滋を後継にしたいと思っていました。しかし長幼の順を乱すことを憚り、また宦官勢力に遠慮して立太子をせず、信愛する内樞密使王歸長や馬公儒等が蘷王を擁立することを望んでいました、しかし軍權を握る神策中尉王宗實は鄆王を擁立し即位させ、王歸長等を殺害しました。蘷王は殺されることはなく、4年後に卒しました。これも一瞬皇太子の形をとります。
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唐朝の皇太子21 皇太叔・光王とは 

2018-06-05 19:31:40 | Weblog
武宗は廃仏政策により仏教の影響を受けた歴史家に誹謗されていますが、宰相李德裕を用いて唐朝の権威を高めました。しかし唐朝の悪い習慣である道教に凝り金丹などを服用したため頓死しました。武宗の子は幼く、宦官の神策軍中尉馬元贄は憲宗の子光王怡を擁立しました。武宗からみると「叔父」にあたり「皇太叔」という不思議なことになります。光王は表面上愚鈍にみえたため、宦官達は自由に操作できると考えたのかもしれません。そして傍系からの即位のため、自分達に恩義を持ってもらえると思ったのでしょう。ところが光王[宣宗]は「小太宗」と言われる名君でした。唐朝の国力も皇帝の実権も小さくはなっていましたが、国政を掌握しようと努力しました。唐朝は宣宗の死で終わり、あとは付け足しだと言われています。もちろん「皇太叔」は一瞬でした。
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唐朝の皇太子20 陳王成美

2018-05-15 17:45:35 | Weblog
荘恪太子の死後、開成4年10月すでに健康を害していた文宗は、自分の子ではなく敬宗の少子陳王成美を皇太子に立てます。宦官勢力の自分への憎しみを感じていたのでしょうか。荘恪の乱行が周囲の宦官達の陰謀ではないかと疑い、自省の念にかられていたのでしょう。そして自分の信頼する宦官劉弘逸・薛季陵と宰相楊嗣復と李玨が皇太子を補佐してくれることを望んでいました。しかし開成5年正月文宗が崩御すると、軍權を握る幹部宦官仇士良、魚弘志は穆宗第五子潁王瀍を擁立[武宗]し、成美や安王溶、賢妃楊氏を殺害しました。潁王瀍は一瞬皇太弟ということになります。
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唐朝の皇太子 その19 荘恪太子

2018-05-13 20:29:34 | Weblog
文宗は生真面目で好学、自分を擁立してくれた宦官達を嫌っていました。彼はまず皇太子として敬宗の長男晉王普をかんがえていたのですが太和二
年夭折してしまいました。そこで太和六年自分の子魯王永を立てました。太和九年文宗は宦官排斥に失敗[甘露の変]して、実権を失います。そして鬱々としながら愛妾楊賢妃の讒言を真に受け、太子を疑い出します。また太子もまた宦官にそそのかされて遊興を好み、質素好学な文宗の気に入らず、ついに開成三年これを廃そうとします。しかし諌官達官僚が激しく反対したため近臣を処罰するだけで中止しますが、なぜか太子は帰邸後頓死します。自殺か毒殺かは不明ですが、捜査も行われなかったことから大物宦官が関与しているとみられます。
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皇太子でない継承が続きます 文宗

2018-05-11 20:35:34 | Weblog
敬宗以降は皇太子が継承するということがなくなります。別に皇太子がまったくいないわけではありません。宦官が勝手に皇帝を擁立するので、いても継承できないわけです。まず無頼の少年敬宗皇帝ですが、今で言う格闘技やポロにのめり込み、周囲に若い宦官や力士連中を集めて放蕩を重ねます。人権なんかカケラも意識せず、気に入らなければ遊び仲間も鞭打ったり処罰したりします。寶暦二年十二月そのため絞め殺されてしまいました。
若手宦官劉克明等は憲宗の子絳王悟を擁立しようとしますが、幹部宦官王守澄、楊承和,魏從簡、梁守謙等は穆宗次男の江王昂を擁立し、克明や絳王を粛清します。外廷の宰相達は関わることが出来ません。ですから江王は皇太子[皇太弟]を経ずに即位[文宗]するわけです。
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唐朝の皇太子 その18 敬宗

2018-05-11 16:00:18 | Weblog
穆宗は遊興好きで愚鈍でした。宦官達に盛んにポロ競技をさせ、その最中の事故にショックを受けて体調を壊します。辟易した宰相達は、まだ穆宗が若いにもかかわらず皇太子を定めることを求めます。長慶二年十二月長子の景王湛を皇太子としました。四年正月には道士の金丹中毒も併発して穆宗が頓死すると即位[敬宗]します。これがまた遊び好きのどうにもならない不良少年でした。
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