唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

選將

2006-07-31 08:31:54 | Weblog
「崇文が招討使だって」

「崇文とは誰だ、知らんぞ俺は」

西川の劉闢が自立して三ケ月。

宗時代なら劉闢程度の反抗はなあなあで収められる所だったが

若い憲宗が即位し、強硬派の宰相杜黄裳の意見が通り征討にむかう
ことになった。

名のある諸將は、自分が指名されることを期待していた。

ところが決定したのは中堅の長武城使高崇文であった。

「いままでの將軍はたるんでいます」

「ここは若手を登用しなければ」という黄裳の推薦だった。

崇文は指名を受けて勇躍し即日全軍を率いて出陣した。

兵器・軍糧すべて完備し欠けるところはなかった。

「やっと俺達の時代がきた」

「朝敵は粉砕してやる」

軍の先頭に立ち崇文は斜谷への道を走った。
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餞別

2006-07-30 09:25:25 | Weblog
「エッ!、遊懷が戻ってくるのか」

「まさか? あいつの子供は謀叛を起こしたんだぞ」

「免官や左遷は当然と思っていたが」

朝から邠寧節度府は大騒ぎである。

節度使韓遊懷が、子供の謀叛のために離鎮して二週間。

まさか戻ってくるとは誰も想像していなかった。

遊懷は上に良く、下に厳しい人間であったので、

邠寧での將士の評判は極めて悪い。

しかし皇帝の信任は厚いということで皆はガマンしていたのだ。

そこに子欽緒が謀叛に連座するという事件が起こった。

將士のふんいきは

「ざまあみろ、あいつもこれで終わりだ」

「餞別も見送りもいらんだろう」

というもので、離鎮する時は誰も見送らなかったのだ。

ところが、遊懷は皇帝に謝罪するとともに、
辺境の築城について持論を滔々とぶちあげ
感心した皇帝は罪を許し復帰させることにしたのだった。

「奴が戻ってきたら大変だな・・・・」

「今から機嫌をとってもどうなるものでも・・・」

代表格の范希朝は荷物をまとめて鳳翔に逃げる準備を始めていた。
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狼狽

2006-07-29 08:31:40 | Weblog
「倉庫は空っぽです」

「禁軍兵士に与える米もありません」

「飢えが迫って兵士達は怒り狂っています」

「強制徴募され、食糧も与えられない、儂らは罪人かと叫んでいます」

「兵営を出た兵士は市場を荒らし回っています」

貞元二年の春、京師には飢餓が迫っていた。

兵士も民衆も痩せて黒ずみ、よろよろと歩いていた。

本格的な兵乱にならないのはただ体力がないせいである。

「どうしたらよい、なぜ貢米が届かない」

皇帝はおろおろと心配するばかりであった。

「もし吐蕃が侵攻してきたら、誰も防ぐ者はいない」

その時
「浙西からの米三万石が届きました」

陝州の李泌からの上奏が届いた。

喜びのあまり皇帝は皇太子の所に出向いて言った。

「助かった、これで我々親子は無事だ!」

「一刻も早く禁軍に知らせよう」

報せを聞いて禁軍兵士も萬歳を叫び、やがて始まる配給を
うけるため兵営に戻り始めた。
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首魁の帰順

2006-07-28 08:33:32 | Weblog
「もう抵抗も限界だ」

「淮西の元濟のようにならないうちにだな・・・」

「しかしどうしたらいいんですか、殿は皇帝から最も憎まれています」

「朝廷になんの手づるもありません」

成徳の王承宗の幕府では、毎日幕僚達との深刻な会議が続いていた。

元和12年ついに淮西の呉元濟が平定された。

平盧の李師道とも連携した反朝廷三道連合も一角がくずれた。

しかも魏博の田弘正によって分断され、幽州の劉總は南下して圧迫してくる。

「もう勝ち目はまったくありません」

「師道がやられるか、殿がやられるかです」と幕僚達

その時参謀の崔燧が言った。

「ただ一人だけ、朝廷に殿を取りなせる方がいます」

「誰だそれは、そんな者がいるのか!」と承宗は叫んだ。

「弘正殿です」と燧

「あいつと俺は犬猿の仲だぞ」と承宗

「弘正殿は儒学の徒、すこぶる公正さを重んじられます。殿が身を低くして願えば厭とは・・・」

「弘正殿なら、皇帝もとりなしを拒むことはできますまい」

「あいつに頭を下げるのか」承宗は呻いた。

「お家のためです。いまのままでは敗北し、殿の家は族滅されます」

「師道をみすてるのか?」

「師道がまだ抵抗している時だから可能性があるのです」

「やむおえまい」承宗が断じた。

係争の地である徳棣二州を献上し、すべての男子を人質に出すという条件で

弘正はとりなし、承宗は赦された。

翌年、平盧の師道は誅殺され、李家は族滅された。
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減税

2006-07-27 09:38:28 | Weblog
ある時、宣宗皇帝はお忍びで狩猟の途中に百姓家に立ち寄り、湯を求めた。

「近頃、生活はどうかの」

「苦しいですわ、生きていくのがやっとですわ」と百姓

「どうしてか、収穫は良いと聞いているが」と帝

「税金がどんどん増えるし、使役も厳しくてたまりませんわ」

「いくら収穫が増えても、それ以上に巻き上げられますだ」

善政をしいているはずの帝は心外であった。

「昨年も今年も減税になったのではないのかな?」

「上の方はなにもご存じないのですよ、本当の税はすこしばかりです」

「官吏どもがその何倍も裏税をとっとるんです」

「本当の税が半分になっても、裏税は変わらんのです」

「それどころか、昨年から新たな裏税ができたとです」

「帝のご命令なんか守る連中ではないんです」

「内廷では宦官共が、外廷では官僚共が朕を欺いている」

と皇帝は憮然として百姓家を立ち去った。
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平盧軍解体

2006-07-26 18:20:23 | Weblog
「ついにやったぜ」

「次は悟様が節度使です」

「バカ殿一族ともお別れですな」

大将の劉悟が裏切って、平盧軍節度使李師道を殺して数日がたっていた。

五十年以上にわたって自立していた強大な平盧軍が平定されたわけである。

師道には何度も帰順する機会があった。

しかし彼の優柔不断と、取り巻きの諸将がそれをゆるさなかった。

実は悟もその取り巻きの一人であった。

ゆがて征討軍の大将魏博の田弘正からの使者がきた。

「ついに節度使ですぜ、俺には曹州を、奴には海州をお願いしますぜ」

諸将は期待にざわめいた。

「悟を郡王に封じ、義成軍節度使に転任させる」

「平盧は三分割し、薛平・馬總・王遂をそれぞれの使とする」

朝廷の命令は悟らが愕然とするものであった。

長い間の自立がこれからも保てるという甘い観測が打ち砕かれた。

「一刻も早く義成に移られよ、遅れれれば諸軍は君を討つ予定だ」

という弘正からの手紙に悟は震えた。

即日悟は取り巻きの幕僚のみをつれて滑州(義成)に走った。
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塩争い

2006-07-26 09:18:53 | Weblog
「金がない」

「せっかく再編した禁軍を養うだけの金がでてこない」

観軍容使田令孜は悩んでいた。

黄巣からやっと京師は取り戻したものの

荒れ果てた關中地方からはろくに税も入ってこない。

金蔵であった淮南や両浙地方からも多少の貢物のみだ。

しかし軍備充実は急務になっている。

といって皇帝の体面というものもあるので、他の節度使と同じように軍備だけというわけにもいかない。

「そうだ塩だ」と令孜は思いついた。

關中など内陸部の塩は海塩ではなく、河中の塩池や四川の塩井からくる。

塩は専売制であり、誰もが買わずにはおれない。

ところが四川塩井は令孜の弟陳敬宣の金箱である。

河中の王重栄の塩池を取り上げるしかない。

そこで「おとなしく渡せば栄転させてやろう、さもなければ追討しよう」
と重栄に通告した。

京師回復の功臣重栄も、金のためならすぐ逆臣となる。

「ふざけるな、塩池を無くしたら河中軍はどうなる」と重栄

しかし単独では禁軍に勝てるわけはない。

「河東の李克用にたよるしかないか」

蛮族の沙陀ごときに頭をさげるのは癪だが背に腹は替えられぬ。

重栄は息子に克用の娘をもらい同盟を固めた。

せっかく収まりかけた紛争がまた拡大することになった。
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抜擢

2006-07-25 13:57:42 | Weblog
李行言の県令の任期が終了したのは大中八年の事である。

さしたるひきもなく、党派にも属していない行言には

陽の県令があたったこと自体が非常な幸運であり

在任中は結構がんばったつもりだった。

しかしそんな事が評価されると思うほど甘くはなかった。

次の職はなかなかもらえないとは覚悟していた。

ところが、宰相府に県令終了の挨拶に行くと

突然、皇帝(宣宗)に呼び出されていた。

行言は、なにかお叱りを受けるのかと緊張しながら御前にまかり出た。

「海州刺史に任じ金紫を賜う」と帝は昇進を申し渡した。

行言は茫然としながらも拝謝した。

「ありがたいことです。しかし帝はなぜわたくしめを」

帝は御殿の柱に貼ってあるメモを指し示しながら告げた。

「この前、狩猟にいったとき、樵夫(きこり)に会った」

「おまえの県令は誰かと聞くと、李行言ですとのことだつた」

「どんな県令だと聞くと、禁軍に属する家の横暴を厳しく取り締まる人だと言った」

「そこでお前を抜擢すべき者だと思ってメモしておいたのだ」

皇帝はお忍びで狩猟し、京師周辺の民政を調べていた。

そこで民の言葉を聞き、良吏を探し求めていたのだ。
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宦官宰相

2006-07-25 09:10:05 | Weblog
兵部尚書李輔国は宦官の出身で、肅宗皇帝を影で操っていた。

金も官位も自由にならないものはないはずであった。

「俺ぐらい能力があるのだから宰相になってもいいじゃないか」

「でも自分からなりたいというのはまずいな」

「そうだ、蕭華の奴に推薦させよう、あいつには弱みがある」

蕭華は安禄山や慶緒に仕えていた前歴がある。

名家の出身なので赦され、能力があったので宰相にまで昇進していた。

ところが、やっと肅宗を丸め込んで、前例のない宦官出身の宰相を認めさ
せたのに華がウンといわない。

「宦官ごときに宰相など」と
官僚どもも一致団結して華を支持する。

「華の奴め、逆臣のくせに俺に背くのか」

怨んだ輔国は肅宗に強く華の解任を求めた。

理由にならない理由で華は解任されることになった。

その後、輔国はお飾りである司空の地位は得たが、
宰相となることはできなかった。
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牛李の党争

2006-07-24 18:03:50 | Weblog
「維州を放棄するなんて・・・・」

「牛宰相は国益を考えていないのでしょうか」

「この徳裕が憎いということだけだろう」

大和五年、維州守將悉旦謀が唐に帰順してきた。

吐蕃や雲南蠻の侵攻は困難となり、西川節度府は安泰となった

節度使李徳裕の懸命の働きかけが功を奏したのだ

二年前の雲南蠻の侵攻により成都府が陥落した記憶がまだ生々しい

その時も、維州が唐のものであれば侵攻などできなかったはずだ。

ところが宰相牛僧孺は維州を吐蕃に返還し、悉旦謀も送還しろと命じてきた。

「維州の兵は皆殺しになってしまう」

「唐の信用は地に墜ちる。これから誰も降るものはいなくなる」

徳裕は再度訴えたが、中央の決定は覆らなかった。

牛は「外敵とは争わず、藩鎭には干渉せず」という平和策なのだ。

悉旦謀は一族とともに送還され、幼児にいたるまで虐殺された。

「いまにみておれ、政権をとったら、牛党の奴らにこの悔しさを味あわせてやる」

徳裕ははるかに北、京師をにらんでつぶやいた。
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書生あがり

2006-07-24 17:57:46 | Weblog
「奴はしょせん書生あがりだよ」

「そうかな、怖がりすぎたかな」

「御史中丞をお授けになるんだぜ喜ぶはずだ」

「まあ、なんとでもなるか」

反乱した朱の部将牛雲光と、の家奴蘇玉の会話である。

雲光は幽州兵を率いて隴州に駐屯していた。

朱が反乱すると、臆病者の刺史郝通は逃げてしまった。

留守居役は判官韋皐である。

そこで雲光は簡単に隴州を乗っ取れると思ったがうまくいかず
退却途中で、使者の玉と会ったわけである。

「もう一度行って説得しましょうぜ」

「ダメなら攻め落とせばいいんだし」

二人は隴州へ戻っていった。

皐は二人を歓迎し、の命を受けた。

「だから言わないこっちゃないでしょう、しょせん文官は臆病者でさ」と玉

「さあ兵士達を城内へ入れてくつろいでください」と皐に言われ、

二人は武装を解きいそいそと宴会に出てきた。

兵士達も武装を解いたのをみて、皐は悉く誅殺した。

そしてただちに皇帝に帰服し、隴州の節度使に任命された。

しかも兄弟を人質として皇帝のもとに送り、その忠誠に揺るぎがないことを示した。
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自決

2006-07-23 11:59:58 | Weblog
「俺にはどうにもできない」

「死んで帝や父にお詫びするしかない」

田布は幕舎の中で一人繰り返していた。

父弘正が成徳の王廷湊に殺されて半年、

仇を討つために急遽、魏博節度使に転じた。

しかし父の旧鎭である魏博兵は働こうとしなかった。

賞を貰うことになれ、危険を畏れる兵達を、

若い布にはなかなか動かすことができなかったのだ。

しかも宰相達は吝嗇で軍費を滞らせるようになった。

そのくせ次々と使者が到着し督戦してくる。

寒さの中で供給は滞り不満はつのるばかりであった。

年末、ついに軍の大半は自壊して勝手に引き上げてしまった。

諸将を召し出して会議をしても誰も発言しようとはしない。

実力者の史憲誠は、中軍を握り陰で兵をそそのかせていた。

そしてなんの結論もなしに散会したのだった。

長慶二年正月、布は自害した。
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鄭注立身

2006-07-23 08:59:16 | Weblog
「監軍殿より、一言注意してもらえませんか」

「あの鄭注という奴には、がまんできません」

「なぜあんな奸物を、愬殿は近づけるのかわかりません」

「上にはへつらい、下には傲慢になる表裏のかたまりです」

「わかった、愬殿に注意してみよう」

武寧監軍王守澄はうなづいた。

守澄はさっそく節度使の李愬の所に赴くと、聞いてきた注の噂をつげて諫言した。

「名将といわれる殿ですが、文臣をみる目は甘いようですな」

「いや、そう言われるが注は奇才で捨てがたい人材ですよ」

「奸物ほどそういうものなのです。追放された方がよい」と守澄

「明日、注を監軍殿の所に行かせます、一度話を聞いてやってください。その上で問題があるなら追放もしかたがありません」

「話ぐらいは聞いてやりますが・・・」

翌朝、守澄に謁見を求めてきた。

「奴め来たのか、儂を丸め込めるとでも思っているのか」

険しい表情の守澄であったが、注の話が始まると膝を乗り出し
数刻後には会うのが遅かったことを悔やむありさまであった。

翌朝、守澄は愬に言った

「なるほど奇才ですな」

たちまち注は守澄の信頼を得て側近となった。

王守澄はやがて中央に戻り枢密使となり、鄭注も引き立てられていった。
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玄宗幽閉

2006-07-22 15:28:41 | Weblog
「くそ、馬鹿にしやがって」李輔国は顔を真っ赤にしてつぶやいた。

肅宗を擁立し、飛ぶ鳥を落とす勢いの輔国である。

自分の前では宰相も将軍も頭を下げ、顔色をうかがう

ところが興慶宮の玄宗上皇のもとに行くと、成り上がりの田舎者扱いだ。

玄宗の周りは優雅な側近達が取り巻き、教養のない輔国には理解できないやりとりが続く

「誰が安禄山の乱を鎮定したと思っているんだ」

「軍国のことなら俺が一番しっているんだ」輔国は腹立たしかった。

輔国は肅宗の元に戻ると

「上皇様の側近達は、帝を廃して復位をねらっています」と奏した。

「まさかそんなことはあるまい」と肅宗

「帝の即位は変則でした。上皇様はともかく、側近達は不満に思っています」

たしかに安禄山の乱に敗走の途中、側近達によって擁立された肅宗であった。上皇の京師復帰時には形ばかりとはいえ皇位を辞するようなまねもしなければならなかった。

「悪いのは側近どもです、上皇様と切り離せばよいのです」

「そんなことをすると父上はお嘆きになるだろう」

と煮え切らぬ肅宗を棚上げにして輔国は禁軍に命令を下した。

「側近どもはすべて流罪か隠居」

「上皇は奥殿へ押込め」

肅宗は輔国が怖くてそれをどうすることもできなかった。

押し込められた玄宗は鬱々として楽しまずまもなく崩御された。
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土地はない

2006-07-22 09:05:42 | Weblog
「懷(かい)ごときに割ける土地はないぞ」

「しかし、かりにも陛下の舅ですぞ」

「時勢を考えろ、一兵・一銭でも欲しいという時に、あの馬鹿は」

観軍容使楊復恭はあきれてしまっている。

側近の貴族どもは現実がまるでわかっていない。

そして帝もだ。

唐の威光は京師近辺の山間十数州にしか及ばない。

ただひたすら禁軍を再建しようとしている復恭にとって

穀潰しの貴族が、皇帝の義父であるというだけで節度使を要求してくる事など信じられなかった。

「帝の強いご意向です」

「わかったわかった黔中節度使にでもしてやろう」と復恭

側近があわてて「黔中は楊守立に与えるというお約束がありますが」

「心配ない、守立に与える」

「は・・・・、?」

王懷は喜んで一族とともに黔中に向かった。

そして途中の山西で、復恭の養子守亮が渡し船に穴をあけて沈め全滅させた。

帝はこれを知って復恭を憎んだが、いかんともすることができなかった。
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