唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

滄州 横海軍節度使 その3

2012-08-30 19:18:34 | Weblog
・旧成徳將であった李全略(旧名王日簡)は、唐朝に貢納し子同捷を登用させ、
周辺藩鎭に働きかけ自立を図ったが寶暦2年[826年]卒した。
・同捷は自立し、成徳王廷湊の支持を得た。魏博史憲誠は両端を持し、幽州李載義は唐朝を支持した。
・即位したての文宗皇帝は融和策を取り、大和1年[827年]同捷を泰寧節度使とし、
天平鳥重胤を横海節度使兼任としたが従わなかった。
・そのため征討が始まったが、重胤は11月卒し、晉慈李寰が後任となったがその軍は統制が悪く
戦果はあがらなかった。
・武寧王智興(自立)は自分のことは棚に上げ、同捷の不法を糾弾し、全軍をあげて進攻し棣州を陥した。
・寰が罷免されたあと、夏綏傅良弼(これも旧成徳將)が主将となったが途次に頓死した。
・そのため金吾大将軍李祐(旧淮西呉元濟將)が主将となり、智興や載義等の圧迫もあり、
大和二年末には同捷は窮地に陥った。
・廷湊は魏博將亓志紹を反乱させて体勢を挽回しようとしたが、義成李聴はこれを破った。
・大和3年[829年]2月祐は州を陥し、同捷は降ったが、宣慰使柏耆は勝手にこれを殺した。
祐は驚愕して頓死した。
・戦乱により荒廃した滄は殷侑節度使となり再建に努めた。棣州は淄青節度へ。
景州は廃されて滄州に統合された。
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滄州 横海軍節度使 その2

2012-08-25 22:26:34 | Weblog
・貞元21年[805年]程懷信は卒し、子の執恭(賜名され權)が嗣いだ。權は元和11~12年の憲宗皇帝
の成徳攻撃に参加し、元和13年[818年]淮西が平定され、成徳王承宗が徳棣二州を献じて帰服する
のをみて、滄景二州を唐朝に返還帰朝し邠寧節度使に任ぜられた。
・唐朝は滄景徳棣四州をもって横海軍節度使として鄭權を任じた。これにより義武・横海が河北を
分断し。成徳は萎縮し、魏博田弘正・幽州劉總は命を奉じて淄青李師道討伐の体制ができた。
・長慶元年[821年]成徳・幽州が叛し、魏博が蠢動する状況下、河陽鳥重胤を横海に移したが、
重胤は討伐の困難を訴え山西に左遷された。
・その後神策杜叔良が宦官の推薦により赴任したが、長慶二年大敗して罷免された。
・そのため徳州刺史李全略が横海節度となるが、忠武より李光顔が滄景州節度として派遣され、
全略は徳棣節度に移った。
・ところが光顔軍は自潰したため、光顔は懼れて辞任し、全略が徳棣滄景節度使に戻った。
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滄州 横海軍節度使 その1

2012-08-23 09:59:13 | Weblog
・建中3年[782年]成徳將易州刺史張孝忠は李惟岳を裏切り唐朝に帰順した。その功績に対して
成徳軍節度使となり、やがて易定滄三州節度使に移されたが、本拠地は易州であり隣接する定州
と違って滄州は飛び地であり、戦乱が続くなか維持は困難であった。派遣された將程日華は自立し
興元元年[784年]滄州刺史横海軍使に任ぜられた。孝忠は別途軍糧を与えられることであきらめた。
・単一州であるため、近隣の幽州・成徳・淄青から狙われる位置にあったが日華は独立を維持し、
貞元2年[786年]4月海軍節度使に昇進し[方鎮表では3年]、貞元4年11月卒した。
・子懷直が自立したが、唐朝はどうにもできなかったが節度使には任じなかった。そこで貞元5年
懷直は滄州を分割して景州を創設し、その刺史を唐朝の任命に任せた。
唐朝はこれを喜び懷直は節度使に任ぜられた。
・貞元10年[794年]懷直は河北の藩鎭としてはじめて入朝したが、遊猟を好み統治がおろそかになり、
11年9月從父兄懷信に逐われて京師に逃れた。
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華州防禦使 鎭国軍節度使 その3

2012-08-22 10:01:38 | Weblog
・その後光啓3年[887年]より宦官田令孜麾下の韓建が刺史となり善政を布いた。
建は軍人ながら書を読み廷臣としての儀礼も身につけていた。
・新書方鎮表では鎭国軍節度使は光化元年[898年]であるが、建は大順元年には
鎭国節度使と称していて、華州が行在となった時の形式的な表記といえる。
また光化3年[900年]に廃止されたという記述も誤りであり、その後も天復元年
[901年]に建が朱全忠に降り忠武節度使に移されるまでは存在している。
・建は令孜の命に従い大順元年[890年]河東李克用を攻めて敗北し、景福元年
[892年]には鳳翔李茂貞や邠寧王行瑜と連携して唐朝を威迫し、乾寧2年[895年]
には李克用の侵攻に降り、乾寧3年の茂貞の侵攻による昭宗皇帝の京師逃亡時には
華州に迎え入れた。その地位を利用して太傅にいたり、貢納を私して蓄財し、
諸王を殺戮、親軍を解散するなど専権を極めたが、光化元年には昭宗皇帝を京師に戻した。
その際に匡国軍節度使(同州)を併合した。
・天復元年朱全忠が西進するとこれに降った。
・その後は全忠麾下が刺史となり後梁にいたった。
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華州防禦使 潼関節度使 その2

2012-08-21 10:59:53 | Weblog
・建中4年[783年]京師で朱が反すると、華州刺史董晉は州を棄てて奔った。
鎭国軍副使李元諒(西域人。宦官の養子)は兵を集めて潼関を保ち、反乱軍の東進を防ぎ、
華州を回復した。そのため興元元年[784年]潼関節度使が置かれ、元諒が節度使となった。
・貞元4年[788年]元諒は良原に築城し隴右観察使も兼任し対吐蕃防衛にもあたった。
・貞元9年[793年]11月元諒が卒すると、節度使は廃され、潼関防禦兵のみが華州刺史の
もとに残され、文官刺史が赴任した。
・唐末にいたり.黄巣の乱に都統王鐸は王重簡(河中重榮の兄)を防禦使とした。
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華州防禦使 鎭国・關東節度使 その1

2012-08-20 10:58:22 | Weblog
・華州は京師の東隣で東都への道筋であり、有名な潼関を含む要衝である。
・安史の乱華州は回復され、上元2[761年]陝西節度使より分離して鎭国/關東節度使が置かれた。
領州は同・華二州である。節度使は李懷譲であった。
・懷譲は軍功があり検校工部尚書を加えられたが、宦官程元振に讒言され、廣徳元年[763年]
6月自殺し、節度使は廃止された。
・永泰元年[765年]より宦官魚朝恩武將の周智光が同華節度使として横暴を極め、たまりかねて
大暦2年[767年]唐朝は河中郭子儀に征討を命じた。それを聞いた智光の麾下はたちまち智光を
殺して降り、同華は分離され、華州刺史潼関防禦鎭国軍使が置かれた。
・その後中級文官が相次いで刺史となった。
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江西都団練観察使 鎭南軍節度使 その2

2012-08-19 16:34:13 | Weblog
・咸通6年[865年]宰相楊収は安南・邕管への連年の雲南蠻の侵攻に対処するため、
洪州に鎭南軍節度使を置き、兵力・兵糧を蓄積して備えることを提議して認められ。
嚴震の子譔が節度使となった。
・咸通8年[867年]収が収賄により失脚すると譔もまた殺されたが、節度使は必要で
あったため乾符元年[874年]まで残置された。
・その後また都団練観察使となったが管轄は王仙芝・黄巣により荒掠された。
・中和2年[882年]5月撫州刺史鍾傅[団練將で自立]が観察使高茂卿を逐い自立した。
・龍紀元年[889年]唐朝は傅を鎭南軍節度使とした。
・傅は天祐3年[906年]4月卒し、子の時が嗣いだが、これに不満な養子江州刺史延規
は淮南楊渥に降り、9月洪州は陥落して淮南領となった。
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記述予定

2012-08-11 18:06:56 | Weblog
あと残るのは[順不同]
鄜坊/保大-夏綏/定難-振武-忠武-兗海/泰寧-滄景/横海/義昌-歸義-宣歙/寧國-鄂岳/武昌-黔中/武泰-邕管/嶺西-容管-京畿-同州/國-華州/鎭国/潼関-延州/保塞/衛國-東畿-雲州/大同-代北/鴈門-邢洺-金商/昭信-保義-秦州/天雄-遂州/武信-龍劒-卭南-豊州/天徳-齊州/武肅-平營-乾州/保勝-巴渠開-興文-隋唐-相衛-齊ですね。まだまだですね。
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江西都団練観察使 江西節度使 その1

2012-08-09 08:55:12 | Weblog
・乾元元年洪州に洪吉都防禦団練観察使[領洪吉虔撫袁五州]が置かれた。江南道の治安対策の為であるが、
これ以前から豫章防禦使が置かれていた。
・廣徳2年江南西道と改称された。
・原則として文官の赴任地であったが大暦8~10年嶺南の哥舒晃の反乱に対して、武将路嗣恭が鎮定の拠点とした。
・建中4年淮西李希烈が反し、南下を懼れた唐朝は江西節度使を置き、観察使嗣曹王皐を昇格させた。
・皐は安州を制圧するなど配下の諸将を督励し希烈の侵攻を撃退した。
・貞元元年[2年かも]希烈の乱か静まり、皐は荊南に移り、江西は都団練観察使となった。
・強力な牙軍も成立せず、浙江に次ぐ財源地として、中級文官の赴任地になった。
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福建威武軍節度使 福建都団練観察使

2012-08-04 09:55:05 | Weblog
・福建は少数民族が居住し、山地が多くリアス式海岸が続き海賊等の跳梁もある地域である。
・開元21年[733年]福州に福建経略使[福建泉漳潮五州]が置かれた。
・上元元年[760年]安史の乱の影響により節度使に昇格されたが直接は乱の影響はなかった。
・大暦6年節度使は廃され都団練観察使となった。
・代々文官が赴任していたが、武官呉詵[李晟の部下]が赴任すると、貞元4年[788年]その専横から軍乱が起こった。
・貧窮の地であるため牙軍も小規模であり海賊と治安対策のものであった。
・観察使には空海に関わる閻濟美[永貞元年~元和2年]、宦官の墓参りで出世した杜宣猷[咸通2~6]がいる。
・唐末には流賊黄巣が浙東から嶺東へ移動し、福建も荒掠していった。
・中和4年[884年]將陳厳が自立し、観察使鄭鎰を逐った。管轄各州はそれそれ割拠していった。
・大順2年[891年]厳が卒すると、一族の范暉が嗣いだが、泉州による王潮[元は光州から流れてきた賊]はこれを攻撃した。
・景福2年[893年]潮は福州を陥し、五代の閩王国の基を築いた。
・乾寧4年[897年]潮は卒し、甥の審知が嗣ぎ、威武軍節度の號を得た
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歙ぶ婺衢睦都団練観察使

2012-08-01 09:55:00 | Weblog
・天祐2年浙西の歙婺衢睦四州に淮南楊行密によって設置された。
・錢鏐の勢力圏の衢州・睦州・婺州が楊行密に附き、9月従来からの歙州と併せて
將陶雅を江南都招討使,歙婺衢睦觀察使を任じた。
・しかし天祐3年正月錢鏐は三州を奪還し、雅は撤退し実態は消滅した。
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