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唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

名君という偽装メニュ 太宗の履歴から その4 

2014-03-30 20:56:39 | Weblog
貞觀3.1「沙門法雅坐妖言誅。司空裴寂嘗聞其言,辛未,寂坐免官,遣還鄉里。」
 建国の功臣裴寂を微細な疑惑だけで追放した。本人が謀叛したわけでもなく、単なる僧侶
 の妖言を聞き流したというだけですべての功績を否定する冷酷さが太宗にはある。
 後年の劉洎・張亮・李勣などにもそれが表れる。


貞觀4.2 突厥頡利可汗を破りこれを捕らえた。鴻臚卿唐儉を派遣して和約を提案し、可汗が
 油断したところを、李靖に攻撃させたものである。正史では李靖の独断としているが、事実
 は太宗の命令によるはずである。


貞觀4.4「上御順天樓,盛陳文物,引見頡利可汗」
 便橋の恥をすすぎ得意ではあったろうが、背信行為を犯した後ろめたさから殺さなかった。

貞觀4.5「御史大夫蕭瑀劾奏李靖破頡利牙帳,御軍無法,突厥珍物,虜掠俱盡,請付法司推科」
 これも功績をあげた将軍に対する太宗の手法である。魏徴等を使って弾劾させ、功績を削り、
 太宗が赦すという形をとる。趙郡王孝恭・侯君集などもこの被害を受けた。


貞觀5.8「河內人李好得心疾,妄為妖言、上怒,命斬之于市,既而悔之」
 精神病で妖言した好を、法官の異議にも関わらず殺した。

貞觀5.9「上修仁壽宮,更命曰九成宮。」
 突厥が亡んで油断したのか、宮殿を次々と修築した。ところが戴冑に諫められると、一転して工事をした
 竇璡等に責任を押しつけ免じた。




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名君という偽装メニュ 太宗の履歴から その3 

2014-03-28 19:37:21 | Weblog
貞觀2.4「朕與突利為兄弟,有急不可不救。然頡利亦與之有盟,奈何?」
 突厥が疲弊し、頡利可汗と突利可汗との間で内紛が起こった。太宗は前恥を雪ぎたい気持ち
 ではあるが、盟約に違反することを気にして宰相に問うた。もちろん違約したいのである。

 「契丹酋長帥其來降。」
 突厥麾下の契丹が唐に歸附してきた。突厥は抗議して来たが「族種が違う」として受け入れた。

 「梁師都從父弟洛仁殺師都,以城降,以其地為夏州。」
 突厥の弱体化に乗じて、その配下の梁師都を攻めて滅ぼした。

貞觀2.6「辰州刺史裴虔通,隋煬帝故人,特蒙寵任,而身為弒逆,雖時移事變,屢更赦
令,倖免族夷不可猶使牧民,乃下詔除名,流歡州。」
 まさに使い捨てである。確かに隋煬帝の叛臣であるが、歸附して10年、功績をあげていた虔通
 をただ煬帝に背いたというだけで免官し流罪とした。
 しかもこの後、「萊州刺史牛方裕、絳州刺史薛世良、廣州都督長史唐奉義、隋武牙郎將元禮並
 除名徙邊。」と続き粛清している。ところが煬帝弑殺の張本人の宇文化及の弟士及は、友人で
 あるということで罪することなくこの後も優遇している。太宗の二重基準がわかる。

貞觀2.10 「盧祖尚固執不可。上大怒曰:「我使人不行,何以為政!」命斬于朝堂,尋悔之。」
 瀛州刺史盧祖尚が瘴癘の地である交州(北ベトナム)都督を引き受けないことを怒って誅殺
 したわけである。祖尚は有能であるが外様であったので僻遠の地へ追い遣られようとしたわ
 けであり、功臣使い捨てのながれである。


貞觀2.12「自今有奴告主者,皆勿受,仍斬之。」
 主人の秘事を奴隷が密告する場合はこれを受けず、殺せと。貴族階級への宥和策か。


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名君という偽装メニュ 太宗の履歴から その2 

2014-03-27 09:42:09 | Weblog
武徳九年 「 」は通鑑データ
10月
「詔追封故太子建成為息王,謚曰隱;齊王元吉為剌王,上哭之于宜秋門,甚哀。」
さすがに兄弟を殺害したのは寝覚めが悪かったのであろう、葬儀だけは行っているが
「隠」だの「刺」など悪声は忘れていない。
「立皇子中山王承乾為太子,生八年矣。」
自系統が皇統を独占するために幼児を慌てて立太子した。これが後の魏王との紛争の
種になる。唐皇室は漢人ではなく蕃族の鮮卑系であるため、兄弟相続の伝統があり、
 それを防ごうとしたともいえる。
「初定功臣實封有差」
 自派の功臣達に實封を大盤振る舞いして人気取りをした。これによりまた再建途上の
 財政が苦しくなった。唐の封侯の戸数(**開國郡公.封二千戸等)は虚構で有り、単
 なる名称でしかない。しかし 實封は唐末を除き実収があった。
「瑀、叔達皆坐不敬,免官。」
 太宗にとって扱いにくい、高祖時代の宰相達が争い、特に名門出身で目障りな蕭瑀
 (梁の皇族)と 陳叔達(陳の皇族)を解任した。

11月
「降宗室郡王皆為縣公,惟有功者數人不降。」
 功臣に實封を与えて財政難になったことでもあり。目障りな宗室の郡王達を縣公に降
 した。もちろん功績大なもの数人は除いた。

12月
「上患吏多受賕,密使左右試賂之。」
収賄する官吏を罠に掛けて誅殺しようとして、裴矩に諫言された。

貞觀元年正月
「右驍衛大將軍長孫順受人饋絹,事覺」
 法を厳正に執行すると宣言しながら、法を犯した親族の順を処罰せず、反って物を与
 えている。しかも「恥を感じさせているのだ」と強弁している。順という蕃人はその
 後も一向に「恥」た様子はない。
「天節將軍燕郡王李藝據州反。」
 幽州を唐に献じた功臣李藝(羅藝)を挑発して反させて誅殺した。弟利州都督壽も坐
 させた。地盤の幽州から切り離し州に置いていたが、太宗と同じように武勇を誇る
 藝が邪魔であったようである。

2月
「命大加並省,因山川形便,分為十道」
 高祖時代に来附した諸侯の封地となっていた諸州を整理して取り上げた。これは功績
 かも知れない。

4月
「賜死涼州都督長樂王幼良」
 目障りな皇族の整理である。挑発して謀叛を企画させて殺した。

7月
「會大雪,雜畜多死,連年饑饉,民皆凍餒。頡利用度不給,重斂諸部,由是內外離怨,
 諸部多叛,兵浸弱。」
 突厥の弱体化を聞き、先年の恥を晴らそうとしたが、長孫無忌から準備不足を諫め
 られた。太宗は隋の煬帝と同じで戦争好きである。

9月
「幽州都督王君廓謀叛,道死。」
 廬江王瑗を除くのに利用した幽州都督王君廓を謀叛させ処理した。
「嶺南酋長馮盎、談殿等迭相攻擊,久未入朝,諸州奏稱盎反」
 嶺南酋長馮盎を疑い討伐しようとするが、魏徴に諫言される。

12月
「利州都督義安王李孝常等謀反,伏誅。」
 高祖の功臣利州都督義安王李孝常を謀反させ誅す。右武衛將軍劉裕・統軍元弘善
 監門將軍長孫安業も坐す。「走狗煮られる」の口である。

是歳 
「鄃令裴仁軌私役門夫,上怒,欲斬之。」
微罪の官吏に対して、太宗は法を無視して厳刑にする傾向があり、李乾祐に諫言される。
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名君という偽装メニュ 太宗の履歴から その1 

2014-03-26 21:17:00 | Weblog
貞觀政要や正史の中で名君を偽装している唐二代太宗皇帝の失政の記録
をたどってみよう。

もちろん若い頃の太宗(秦王世民)が名将である事は間違いないし、秦王の
周りに有能な家臣団が結集し、皇太子建成や齊王元吉と対立したことは、初
代皇帝高祖の失策であるから太宗に責任はない。そしてその対立を放置した
無策な高祖が押し込められたのもしかたがない。

玄武門において皇太子建成や齊王元吉を襲撃して殺害したのは、正史におい
ていかにごまかしていても太宗側の一方的攻撃であることは間違いない。
皇太子である建成はそのような非常手段を必要としていないのだ。

そして建成や元吉の子供を幼児に至るまで虐殺したことも弁解できない。
太宗はその家臣団も誅殺しようとしたのだが、兄弟・親族・友人が別れてい
る自派の家臣団の反対にあってあきらめて処罰しないことにした。これも
太宗の寛大さにすり替えられている。

事件後、不遜にも自ら高祖の所に赴かず、猛将尉遅敬に威嚇させて皇太子
位を奪取したことは、弁解の出来ない自分の行為を恥じたとも言える。
しかしやがて高祖を押し込めて皇帝位を簒奪した。

簒奪に同調しない一族の幽州都督盧江王瑗を、將王君廓に挑発させて殺害
したのはやむを得なかったのかもしれないが、あとで秘密を知る君廓を始
末せねばならないことになる。

これに対して宗主国である突厥頡利可汗は大兵を挙げて侵攻し、その罪を
責めた。兵力に劣り、しかも道義にも反する太宗は、自ら可汗の下に赴いて
謝罪し、多くの貢ぎ物を差し出して臣従を誓った。これが正史では渭水便橋
で格好良く正対したことに偽装されている。
さすがに太宗は屈辱を感じたのであろう。対突厥戦の準備に勤しんでいる。

次回からは編年式に、武徳九年十月からの失政の記録を述べていく。
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藩鎭を渡り歩く 裴識 

2014-03-24 22:47:11 | Weblog
憲宗~文宗時の名宰相(とは私は思わないが)裴度の子である識は、実に九鎭もの
藩鎭を渡り歩いた。父親の勢力により秀才ではあるが有能とは言えない(ついに宰
相にはなれなかった)識は、憲宗時代を有り難がる宣宗によって抜擢され、
大中2~5 湖南觀察使.御史中丞.
大中6~8 原節度使.検校刑部尚書.
大中8~11 鳳翔節度使.検校戸部尚書.
大中11~13 忠武節度使.検校戸部尚書.
咸通1 邠寧節度使か天平節度使
咸通2~3 朔方節度使
咸通4 天平節度使?
咸通5 邠寧節度使?
咸通7 朔方節度使.検校右僕射.
と遍歴したが別に業績を上げているわけではない。
大和年間以降、文官の定期異動による節度使よく見られるが、名門貴族である
ために幾度も起用されたようである。同じような例は杜悰などにも見られるが
悰のほうが功罪ともにあったようだ。
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平盧軍系 1.淄青平盧軍節度使の成立

2014-03-15 22:48:39 | Weblog
安禄山は天寶14年11月配下の呂知誨に平盧軍を指揮させた。
天寶15年4月呂知誨は同調しない安東副大都護馬靈察を殺した。
將劉客奴・董秦・王玄志は知誨を殺し、唐朝に帰順した。客奴は節度使
玄志は安東都護となった。
15年6月客奴は幽州を攻撃し、留守將史思明に大敗した。
至徳2年正月玄志は客奴を毒殺し、安禄山將徐歸道を迎えたが、又これを殺した。
そして將董秦・田神功を渡海させ密地方を制圧させた。
乾元1年2月玄志は節度使となったが、12月卒した。
唐朝は牙軍の意向を受けて將侯希逸を節度使とした。
上元2年5月希逸は史朝義の兵を破った。しかし補給が途絶し、蕃族の奚の攻撃
を背後に受けて平盧の維持が困難となった。
元年建丑月希逸は平盧を捨て全軍を挙げて南下し、田神功と州で合した。
唐朝は希逸に淄沂・密の両節度使を与えて淄青平盧軍節度使が成立した。
田神功は兗鄆節度使に移った。
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安史の乱後の軍団相関

2014-03-14 11:37:16 | Weblog
安禄山-史思明の反乱により、唐朝の軍団の関係は大きく変化した。
①.反乱から歸附した盧龍軍系が河北に分據
 幽州[李]魏博[田]成徳[張]相衛[薛]永平[令狐]他に汴州張獻誠や能元皓
②.征討の主力となった朔方軍系が唐朝を擁して主流派に
 朔方・河中・邠寧[郭子儀]河南[李光弼]澤潞[李抱玉]
③.反乱に同調しなかった平盧軍系が東方を占拠
 淄青[侯希逸]淮西[李忠信]汴州[田神功]
④.安西より出征してきた諸軍系が分立、しかし山東・四鎭以外はやがて消滅、四鎭は朔方系に
 山東[萊瑱]四鎭行営[李嗣業-衛伯玉-馬璘]河東[王思禮]
⑤.雑軍
 魯や李奐・尚衡等
①や③は反唐朝的色彩が強く、唐朝はその制圧に努力することになったが、③は軍兵の統制には
欠けるが、將領には親唐分子[侯希逸・李忠臣・田神功等]が多く働きかけやすかった。
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