原節度使劉昌[元宣武軍将]は平涼城など諸寨を再建し、吐蕃の進入路を防ぐことに努めた。宗皇帝は建中年間の朱の乱に役に立たなかった禁軍のあとに神策軍を宦官に統御させて再建中であったが、その弊害として神策軍吏が横暴を極めることになった。また四月には安南都護[ベトナム北部]高正平が苛政によって反乱を引き起こしたが、幸い死亡したため乱は自然に治まった。西南部では西川節度使韋皐は雲南蠻を招撫し、対吐蕃防衛線を強化していった。
河北藩鎭では、淄青・魏博節度使と成徳節度使の間で領土紛争が起き、互いに攻めあった。この事態は朝廷にとっては都合のよいことであり、仲介者として振る舞った。回紇[ウィグル]は吐蕃と戦ったが形勢は悪く、その勢力下の北庭都護府は陥落することになった。一時は勢力が強かった回紇ではあるが、唐の物資に依存してこのころにはすっかり軟弱となっていた。