goo blog サービス終了のお知らせ 

唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

薦相 [婁師德の德]

2025-03-31 10:00:00 | Weblog

薦相 [婁師德の德]
-----------------------------

田舎の農夫然とした風貌の宰相婁師德の単調な奏議が続いている。

次ぎに並ぶ狄仁傑は苛々していたが、則天皇帝の信任に厚い仁傑にとっても先任の宰相を遮ることはできない。
「この無能の愚図め」と何度内心ではつぶやいたことだろう。
「こんな無能を陛下はいつまで宰相にしておくつもりなのか」

やっと師德の上奏が終わり、のそのそと退出していった。

仁傑のテキパキとした上奏が終わると、
則天は聞いた「師德は有能と思うかな?」
仁傑は「辺境の司令官程度ならよいかもしれませんが、宰相には値しません」

「師德は人を見る目があると思うかな?」
「あるとは到底思えません、属吏程度の評価ならできるでしょうが」

則天はニャリと笑って言った。
「卿を是非とも宰相にすべきだと推薦したのは師德だったがな」

絶句した仁傑は早々と退出していった。
そして「私には師德殿の人徳がわからなかった」とつぶやいた。

次々と宰相を登用しては殺害・左遷をくり返す則天時代に、師德は長く在任し失脚することなく卒した。

*******背景*******

則天は数十人の宰相を次々と任用し、短期間のうちに殺害・配流・罷免をくり返した。

特に初期には5人任用して、次の月には全員配流していることもあった。

仁傑も天授二年九月に宰相となり、翌年正月には死刑を赦されて県令に貶されたことがあった。

中期以降は殺害はやや落ち着いたがそれでも罷免はしょっちゅうだった。

師德は長壽二年[693]に宰相となり、萬歳通天元年[696]には対吐蕃敗戦により罷免されることがあったが翌年には宰相に復帰し、聖暦二年[699]に卒するまでその任にあった。
仁傑の再任用は697年のことである。


渭水の盟 [太宗の恥辱]

2025-03-30 10:00:00 | Weblog

渭水の盟 [太宗の恥辱]
---------------------

武德九年七月、父の高祖皇帝を恫喝して退位させ、強引に即位した皇太子世民[太宗]のもとに急報が入った。

突厥頡利可汗・突利可汗が百万と号する大軍で侵攻してきて渭水に迫ってきていた。

突厥の使節執失思力は
「可汗は属国の帝が許可も得ず即位したことに激怒されています」
「また皇太子建成や齊王元吉を殺害し、高祖皇帝を廃位した事に異議をとなえておられます」と高飛車に言い放った。

皇太子・齊王殺害は太宗側の一方的な襲撃であり大義は無い。
また高祖は進んで地位を譲ったわけではなく、武将尉遅敬德の武力による威嚇に脅えた結果である。
そのため朝廷の人心は太宗に決して好意的ではないのだ。

「まずいな、戦うわけにはいかないし、その戦力も今はない」
と太宗は判断し、思力に皇居を預け、わずかな供回りとともに渭水へむかった。

そして可汗の元で、莫大な貢ぎ物とともに平伏謝罪した。

諸臣には絶対見せられない状景だ。

もともと可汗は本気で征討する気などは無く、宗主国としての権威を示すつもりであったので、平身低頭する太宗の地位を追認してやった。


そこで正史では「挺身輕出,軍容甚盛,有懼色」とか「頡利獻馬三千匹、羊萬口,帝不受」という与太話を加えてごまかしている。貢ぎ物を出したのは太宗で、頡利可汗が馬・羊などをくれるはずもないので受け取れるはずもないのである。

「くそ、この恥は晴らさないではおられぬわ」

太宗にとっては恥辱の極みであり、この後対突厥軍備に邁進していくのであった。

*******背景*******
唐高祖は隋に太原で反した時から突厥の支援を受けていた。その後も何度かの支援・対立関係があったが、強大な突厥帝国の属国であった。唐は漢民族の国家ではなく鮮卑族が建てた国なので、初期は中華思想的なものはなく、突厥の支配下にあることに違和感はなかったようである。

高祖の失敗により、あまりに太宗[世民]の軍功が大きくなりすぎ、皇太子建成との対立が国家をゆるがすようになってしまったのでこのような事態を引き起こしてしまった。

この時点で太宗は自分の部下達を除き、唐帝国の宰相や軍を掌握していなかったため、総力戦に入ることができなかった。


回心 [忠武節度使周岌の帰服]

2025-03-29 10:00:00 | Weblog

回心 [忠武節度使周岌の帰服]
--------------------------
「まさか行かれるのではありますまいね」
「節度使様ご招待だ、行かないわけにはいかんだろう」
「いくら節度使とはいえ、いまは黄巣に降った賊です」
「いけば殺されることも考えられます」
「いや周岌の心はわかっているよ」

忠武監軍楊復光の館は緊張に包まれていた。

節度使周岌は黄巣の侵攻時に率先して降り、忠武節度使を安堵されている。
しかし唐の監軍たる復光を拘束するのでもなく放置していた。

そして昨日、急に使いを寄越し招待をかけてきた。

「彼は唐に帰順したいのだよ」
「巣の勢力は弱まってきたと思っている」
「岌が立場を変えやすいようにしてやるだけさ」

酒宴が始まった。
復光はさかんに往事の事を語り、岌に昔を思い出させた。
やがて岌は泣きながら言った
「皇帝のご恩は一日として忘れたことはありません、ただ私一人では賊に対抗できなかったのです」

復光も泣いて言った
「殿の忠心はよく知っています。状況は変わってきました。今なら殿は本心に立ち戻ることができます」

「帝はお赦しくださるだろうか」と岌

「帝も殿の忠義はご存じです、私が取り次ぎましょう、あとは行動に示すだけです」

そしてこの夜、復光は巣の使者を攻め殺し、既成事実を作ってしまった。

忠武軍節度使は唐に復帰したのである。

*******背景*******
廣明元年黄巣が河南へと北上してきたとき。

それを防止する河南諸軍で相継いで軍乱がおこった。
最強の忠武軍で周岌が節度使薛能を逐った。
武寧軍では時溥が節度使支詳を逐った。
河中軍では王重榮が節度使李都を逐った。
制置使齊克讓は懼れて自鎭である泰寧軍に奔った。

そのため黄巣軍は易々と河南へ侵入し、東都を落とし潼関を破って京師に入った。
軍乱を起こしたばかりの周岌は軍を掌握できず黄巣に降ったのである。
黄巣は京師突入を主目的にしていたため忠武軍[許州]に抑えを置くだけにしていた。

楊復光は許州周岌・陳州趙犨を味方にすると、蔡州秦宗權をも帰順させて黄巣包囲網を作っていった。


裏切り [朱全忠の成立]

2025-03-28 10:00:00 | Weblog

裏切り [朱全忠の成立]
--------------------------
「降ってもはたして受け入れてくれるかな」

「俺の評判は極めて悪いし」と溫

「そんな事をいっている場合ですか」
「敵軍はどんどん増えているのに、こちらにはろくに援軍はきません」

「孟楷どもが殿を讒言しています。もう生命が持つかという問題です」と側近の謝瞳が叫んだ。

援軍を頼むために京師の黄巣のもとに派遣されが、まるで取り合ってもらえなかった怒りで顔が真っ赤である。

官軍に対する最前線の華州城では不穏な空気がただよっていた。

「河中の王重栄から密書がきています」
「都監の楊復光からもです。奴らも焦っているのです。」
「官軍につくなら今です」と部下達はすっかりその気になっている。

「しかしなあ・・・・、俺ではな・・・」

ひとかけらの土地もなく、農奴としてこき使われ
黄巣のもとで流賊となって久しい溫には
官に対する反発と警戒心が強い。
それに手下共も納得させなければならない。

しかし、四月溫はついに監軍嚴實を殺して王重栄に降った、追いつめられ降らざるえなかったといってもよい。

一緒に降ろうとした華州守將の李詳は発覚して殺されてしまった。

右金吾大將軍河中行營招討副使に任ぜられ、同華節度使とともなり、「全忠」と名を賜わった。

しかしそれだけである。今までの部下を引き連れて、まだまだ強大な黄巣軍と戦うのだ。

後梁の開祖朱全忠、中和二年十月のできごとである。

*******背景*******
廣明元年十二月黄巣は京師を陥し、僖宗皇帝を逐った。まもなく体制を立て直した唐軍に包囲される状況に陥った。黄巣は兵は多いとは言え領土は京師周辺の数州でしかない。
しかし包囲するほうの唐軍は寄せ集めの雑軍でしかなく、黄巣軍には勝てない。
都統王鐸、河中王重榮・忠武周岌などは京師を攻めあぐねていた。

そこで黄巣軍の中でその力を警戒されている朱溫に働きかけて寝返らせようとしたわけである。

だがまだまだ武力は不足し、蕃族の沙陀李克用の南下を求めることになっていった。


教養   [玄宗の幽閉]

2025-03-27 10:00:00 | Weblog

教養   [玄宗の幽閉]
--------------------------
「くそ、馬鹿にしやがって」李輔国は顔を真っ赤にしてつぶやいた。

肅宗を擁立し、飛ぶ鳥を落とす勢いの輔国である。
自分の前では宰相も将軍も頭を下げ、顔色をうかがう
ところが興慶宮の玄宗上皇のもとに行くと、成り上がりの田舎者扱いだ。

玄宗の周りは優雅な側近達が取り巻き、教養のない輔国には理解できないやりとりが続く

「誰が安禄山の乱を鎮定したと思っているんだ」
「軍政のことなら俺が一番理解しているんだ」と輔国は腹立たしかった。

肅宗の元に戻ると
「上皇様の側近達は、帝を廃して復位をねらっています」と奏した。
「まさかそんなことはあるまい」と肅宗
「帝の即位は変則でした。上皇様はともかく、側近達は不満に思っています」

たしかに禄山の乱に敗走の途中、側近達によって擁立された肅宗であった。
上皇の京師復帰時には形ばかりとはいえ皇位を辞するようなまねもしなければならなかったのだ。

「悪いのは側近どもです、上皇様と切り離せばよいのです」
「そんなことをすると父上はお嘆きになるだろう」
と煮え切らぬ肅宗を無視して輔国は禁軍に命令を下した。

「側近どもはすべて流罪か隠居」
「上皇は奥殿へ押込め」
肅宗は輔国が怖くてそれをどうすることもできなかった。

押し込められた玄宗は鬱々として楽しまずまもなく崩御した。

*******背景*******
全て宦官李輔國の責任になっています。

肅宗は前皇太子が殺された後に冊されましたが、宰相李林甫に脅かされましたが、宦官高力士等に守られてなんとか地位を守ってきました。また楊貴妃に子がなかったため廃されず、長く玄宗の影に隠れていたのでした。

そして確かに肅宗は優柔不断で輔國に押しまくられていました。
その即位の正統性には疑問があります。

父玄宗へのコンプレックスを常に抱えているのです。

遊び人の玄宗のほうは責任のない気楽な立場を楽しみ復位する気などさらさらなかったでしょう。高力士や陳玄禮などの側近も玄宗と共に遊宴を楽しみ、父老の歓呼を受けていただけです。

肅宗は輔國の要求を幸いに、責任逃れで黙認したというのが実際だと思います。

そしてやはりその不孝を後悔はしていたのです。

輔國も登用してくれた恩人の力士等を、厳しくは扱えず配流して、玄宗と切り離すことに止めました。上元元年のことでした。


佞臣   [鄭注立身]

2025-03-26 10:00:00 | Weblog

佞臣   [鄭注立身]
--------------------------
「監軍殿より、厳重注意してもらえませんか」

「あの鄭注という奴には、がまんできません」

「なぜあんな奸物を、節度使殿は近づけるのかわかりません」

「上には媚へつらい、下には徹底的に傲慢になるやつです」

「わかった、李愬殿に注意してみよう」
武寧監軍王守澄はうなづいた。

そして愬の所に赴くと、聞いてきた注の悪い噂をつげて諫言した。

「名将といわれる殿ですが、文臣をみる目はなかなか甘いようですな」

「いや、そう言われるが注は奇才で捨てがたい人材ですよ」

「奸物ほどそういうものなのです。追放された方がよい」

「そうですかな、明日、注を監軍殿の所に行かせます、一度話を聞いてやってください。その上で問題があるなら追放もしかたがありませんな」

「まあ話ぐらいは聞いてやりますが・・・」

翌朝、注が謁見を求めてきた。

「奴め来たか、儂を丸め込めるとでも思っているのかな」

険しい表情の守澄であったが、注の話が始まると膝を乗り出し、数刻後には会うのが遅かったことを悔やむありさまであった。

翌朝、守澄は愬に言った

「なるほど奇才ですな」

そしてたちまち注は守澄の信頼を得て側近となった。

守澄はやがて中央に戻り枢密使となり、鄭注もどんどん引き立てられていった。

*******背景*******
鄭注は本姓魚氏、医術により李愬に取り入り、守澄に寵遇されその謀臣となった。宋申錫の事件を引き起こし、諸人から警戒されたが、ついには文宗皇帝にも寵遇されると、守澄を失脚させ、工部尚書・鳳翔隴右節度使まで栄進した。そして李訓と組んで宦官排斥を企てたが、訓は独走し甘露の変を起こして失敗し、注も殺された。


時代錯誤 [宦官が支える唐末]

2025-03-25 10:00:00 | Weblog

時代錯誤 [宦官が支える唐末]
--------------------------
「懷ごときに割ける土地はないぞ」
「しかし、かりにも彼は陛下の舅ですぞ」
「時勢を考えろ、一兵・一銭でも欲しいという時に、あいつは、前のうすら馬鹿のほうがましだったな」
 うすら馬鹿とは僖宗皇帝のことである。

「朝廷の威光が通る方鎭なんていくらもないのだぞ」

観軍容使楊復恭(宦官)はあきれてしまっている。

京師の貴族どもは現実がまるでわかっていない。
そして今の昭宗もだ。傀儡が皇帝のつもりでいる。

唐の威光は京師近辺の山間十数州にしか及ばない。

ただひたすら禁軍を再建しようとしている復恭にとって
穀潰しの貴族が、皇帝の義父であるというだけで節度使を要求してくる事など信じられなかった。

「帝の強いご意向です」
「わかったわかったあの黔中節度使にでもしてやろう」と復恭
側近があわてて「黔中は楊守立に与えるというお約束がありますが」
「心配ない、守立に与える」
「は・・・・、?」

王懷は喜んで一族とともに黔中に向かった。
そして途中の山西で、復恭の養子守亮が渡し船に穴をあけて沈め全滅させた。
帝はこれを知って復恭を憎んだが、いかんともすることができなかった。

*******背景*******

大順年間の事である。田令孜が失脚した後、宦官楊復恭が観軍容使として実権を握っていた。
もはや唐朝に従う方鎭は少なく、京師近郊と復恭が假子を配置した山西地方だけであった。

魯鈍で操り人形であった僖宗と違い、昭宗は普通の人間であったため、傀儡では安住しない。寄生する唐朝が倒れては共倒れなので必死に画策する宦官達からすると迷惑な存在だ。

官僚貴族達は外鎮とつながって代理人になる連中と、時代錯誤に朝廷ごっこしているものに別れる。王懷などはごっこ組だ。

昭宗は結局復恭一派を京師から追い出しには成功した。そして鳳翔李茂貞や邠寧王行瑜の傀儡におちぶれる。


功臣 [李泌、德宗の猜疑を諫める]

2025-03-24 10:00:00 | Weblog

功臣 [李泌、德宗の猜疑を諫める]
--------------------------
貞元三年六月、德宗はついに念願であった陝虢観察使李泌を宰相に任用することになった。

そして泌は李晟・馬燧・柳渾とともに入見した。

德宗は泌に「肅宗より歴代の皇帝は、卿が宰相にふさわしいと思っていた。朕は今やっと任用することができた。そこで卿が仇と思うもの、恩を返したいと思うものを朕が処置してやろう」

泌は「李輔國や元載など仇はすでに誅されました。恩ある者達はすでに栄達しているか零落しています。もう報いようもありません」

「それでも少しは報いたいと思うものもいるだろう」

「それより臣は陛下にお願いがございます」

「それは何か?」

「陛下が功臣を疑い排斥されませんように。李晟・馬燧達は国家に大功があります。しかし誣告・讒言をするものは常にいます、今は陛下は疑っておられませんが、これから迷われることもあるかもしれません」
「天下の武将、方鎮達はそれをみています。そして不安になり、騒乱をおこすものも出てくるかもしれません」
「陛下は李懷光の事を覚えておられるでしょう。懷光も不安になったため反してしまったのです」
「晟や燧は富貴となりました、陛下が疑われなければ彼らは安心し、征討の時には全力を尽くすでしょうし。天下の諸臣も安心するのです」

德宗は「わかった。社稷の安定のため、これからも二大臣を大切にしておこう」
喜んだ晟・燧は起立して泣謝した。

*******背景*******
德宗は建中年間藩鎭を征討し、成德を征圧しある程度の成功を収めたが、処理を誤り大乱を招き、涇原の軍乱により京師を逐われ、朱泚が反し奉天城に追いつめられた。それを李懷光に救われたが、また懷光を疑い反を招いた。
德宗は武臣への猜疑心が強くなり、宦官に頼るようになっていく。
大功を上げた李晟・馬燧をも疑い、位階は上げたが兵権を奪った。
これをみて功臣諸将は朝廷への反感を高め緊張感が高まっていた。
李泌はこれを感じて德宗を諫めたわけである。
德宗は諫めをいれて功臣圧迫策をやめ、晟・燧達もその卒時まで礼遇され、緊張感も緩んでいった。


視膳問安  [皇太子の役割]

2025-03-23 10:10:00 | Weblog

皇太子の役割とは   [視膳問安]
--------------------------
貞元の末、徳宗皇帝は老い、人事は停滞し姑息な政策が続いていた。

現状に飽き足らない少壮官僚達は皇太子[順宗]の周囲に集まり議論を重ねていた。

「特に宮市の件は深刻です、宦官どもの押し買いに民の不満は大きいのです」
「殿下、殿下から直接陛下に申し上げていただけませんか」
「そうだな、民の切実な願いだからな」と太子
「よろしくお願い致します、さすがは殿下だ」と若手官僚達が喜ぶ。

しかし待詔の王叔文だけはずっと沈黙していた。

やがて官僚達は下がっていった。

太子はいつもは多弁な叔文が黙っているのが気になっていた。

「おまえはこのことに反対なのか」

叔文は答えた
「宮市の件に異論があるのではございません」
「太子が陛下に建言されるのを危ぶんでいるのです」
「太子の地位は高貴ではありますが、なんの実権もございません」
「その役割は視膳問安に限られております」
「即位されるまでは御自重なされませ、誰が穴をほるかわからないのですから」

太子はハッと気が付いた。
「おまえだけが、私のことを考えてくれているのだな」

叔文に対する太子の信任はこれより重くなっていった。

*******背景*******
德宗皇帝はもともと狷介で好き嫌いがはげしかったが、奉天の役の後はその傾向が強くなり、
貞元中期以降は官僚人事も節度使人事も停滞し、宰相もことなかれ主義の者達だけが任用された。
当然その弊害は累積し、若手官僚は不満をつのらせていた。
貞元二十一年德宗が逝去すると、待望の順宗が即位し、王叔文・王伾・韋執誼など若手官僚達が新政治を始めようとしたが、その時順宗もまた重病であった。
唐朝の皇太子はあくまで次期皇帝候補でしかなく、全期を通じて政務に関与することはない影の存在であり、武宗皇帝以降はほとんど置かれなくなってしまった。
「視膳問安」とは「皇帝の健康を尋ねたり、食事の様子を確認したりする」こと。


和解 [魚朝恩と郭子儀]

2025-03-22 10:00:00 | Weblog

和解 [魚朝恩と郭子儀]
--------------------------

唐朝の主力軍を握る郭子儀と、親衛軍を握る宦官の魚朝恩、宰相の元載は互いに牽制し対立関係にあった。
代宗皇帝は対立させ、しかも破綻させないという困難なバランスを保つ必要があった。

大暦四年正月、郭子儀が河中より入朝してきた。

そこで代宗は朝恩に歓迎の宴を催させることにした。

「朝恩など信用できるものですか、お行きになるのは・・・どうかと思いますが」

「どうしても行かれるならば、少なくとも精鋭200騎はお連れください、そして予備として・・・騎を即応で待機させます」

 子儀の屋敷では家臣達が口々に諫めていた。

宰相元載は二者の結託を懼れ、「朝恩が子儀を謀殺しようとしている」という噂を広く流させていたのである。

しかし子儀は「皇帝の命がないのに私を殺そうとするようなことを朝恩はしない」
と出かけていった。

一方、朝恩は「なぜこのような騒ぎになるのだ。俺はなにも企んだりしていないのに、なにか事が起こったら・・・俺の責任になるのか」とうろたえていた。

「まもなく子儀様がおこしになると先触れがありました」

あわてて朝恩が門に出迎えると、数人の平服の供をつれただけの子儀が馬上でにこにこと笑っていた。

「悪い噂が流れていましたのでおいでくださるかと・・・」と朝恩

「お互い皇帝陛下を支えるものどうしです。なにを懼れる必要がありましょう」

朝恩はその度量に感激し、対立関係を解消した。

*******背景*******
朝恩等宦官勢力は安史の乱において何度も子儀を誣告し登用を阻止した。廣徳年間の吐蕃の侵攻後はさすがに子儀追い落としは困難になった。
しかし行政を専権する元載はともかく、軍權をもつ子儀と朝恩は対立しやすく、また代宗もそれを利用して皇帝権を維持していた。ただ対立が深化しないよう、しばしば宴を開かせて三者を操っていたのである。
この時、子儀と朝恩が和解したことは、代宗や元載にとっては都合が悪く、両者は朝恩排除を企画し、五年三月に誅殺した。


破約  [吐蕃の背信]

2025-03-21 10:00:00 | Weblog

破約  [吐蕃の背信]
--------------------------
貞元三年閏五月辛未
朝廷に 德宗皇帝と武臣宰相李晟・馬燧と宰相張延賞・柳渾が朝していました。

この日は長らく侵攻を続けてきた吐蕃宰相尚結贊と副元帥侍中渾瑊が、平涼で會盟し和約を結ぶ予定の日でした。

德宗が「今日で戦役が終わる、平和が来る、めでたいことだ」と笑顔を示した。

会盟支持派の燧「まことに」と応じ、延賞も同じた。

しかし反対派の渾は「吐蕃は信用出来ない蕃族です。なにごとも起きなければいいと心配しています」と洩らした。

晟もまたそれに同じた。

血相を変えた德宗が「書生の渾になにがわかる。晟まで同調しおって」と激怒し、早々に朝は終了した。

夕刻、邠寧節度使韓游瓌から急報が入った。
「吐蕃は盟約を破り、渾瑊の行方はわかりません。將士の大半は死んだもようです」
「吐蕃兵はぞくぞく侵攻して邠州・京師に迫っています」

德宗は狼狽し京師を棄てて逃亡しようとしたが、李晟に諫止された。

*******背景*******
貞元二年淮西李希烈が誅され国内の内乱は沈静化したが、吐蕃の来寇は盛んとなり夏州・鹽州は陥され、關内諸州は侵攻に脅えていた。鳳翔副元帥李晟は吐蕃との対決を望んでいたが、疲弊した朝廷は吐蕃との和約を望み、晟の兵権を奪って名誉職の太尉に祭り上げた。
そして河東副元帥馬燧が宰相張延賞とともに和約を進め、平涼において盟約を結ぶこととし、朔方副元帥渾瑊が会盟使となった。吐蕃の宰相尚結贊の真の意図は不明だが和約を望まず、渾瑊を捕ら、唐に打撃を与えることを望んだようだ。和約の会盟と信じる唐側は吐蕃軍の奇襲をうけて潰滅し、多くの使節が殺害・捕虜となった。しかし瑊は後軍に逃避することができた。
結贊の策は破れ、完全に唐は吐蕃と対決関係になっていく。
そして自尊心の強い德宗は柳渾を好まず八月には罷免した。


入貢  [李泌と浙江節度使韓滉]

2025-03-20 10:00:00 | Weblog

入貢  [李泌と浙江節度使韓滉]
--------------------------

興元元年の十一月
德宗皇帝は李晟の働きで反していた朱泚を伐ち、なんとか京師を回復したが、まだまだ淮西吳少誠・河中李懷光反しており情勢は不安定だった。

そして德宗の動揺と不安に乗じて諌官達による誣告・中傷が頻発した。
「浙江東西節度使韓滉は兵を集め石頭城を修築しています。これは極めて怪しい動きです」

韓滉は斜陽の唐朝に多量の浙江の米穀を送ってくれた忠臣であったが「淮南の陳少游は裏切っている、浙江の韓滉までが裏切れば財政破綻だ、反乱鎮圧どころではない」と全てに疑心暗鬼になった德宗には心に突き刺さるものがあった。

親任厚い謀臣の左散騎常侍李泌は「どうして貢献を続けている滉殿を疑うのですか、浙江を賊から守っているのは彼の力です。石頭城修築も治安のためです。彼は剛直で贈賄しないために誣告されてしまうのです」と取りなす。

「あちこちから告発がでているのだぞ、卿も聞いているだろう」

「聞いています。だから滉子の皐は怪しまれないため朝廷に留まって父の元に行こうとしないのです。そして滉にも告発の件は伝わり不安になっている所でしょう」

でも「私の策を取り上げてもらえれば事は収まります」

「息子ですら動揺しているのだ、朕は卿を宰相に任用しようと思っているのだが、衆議に逆らって滉の肩をもつのは、危険な事だぞ」

「今、關中には米がありませんが、浙江は豊作と聞きます。ここで滉が米を送ってくれなくてはやっていけないのです。滉の疑いを解き、滉も安心する策です」

泌の勧めにより德宗は皋を召しだし、「朕は誹謗など一切信じてはいない、今關中は飢えている。父の所へ行って米を送るように伝えてくれ」と勅した。

皋は急いで潤州に到り、滉に会った。滉は息子を戻したくれた德宗の信頼に感悅して、即日米百萬斛を送り出し、皋にすぐそれを護送して京師へ戻るように命じた。皋は母との別れを惜しんだが,滉に叱られて泣く泣く戻ることになった。

淮西の反軍と両端を持していた淮南節度陳少游も、これを伝え聞いて慌てて二十萬斛を急送した。

この入貢によって、滉への誣告はすっかり聞こえなくなった。

*******背景*******
建中四年朱泚の乱で京師を逐われた德宗皇帝は、翌興元元年五月になんとか京師に復帰できましたが、主要な漕運路である汴州を淮西李希烈に抑えられ、河中には反將李懷光が盤踞する状況です。關中は食糧的には自給できず、あとは山東・山西経由の細々とした供給にたよらざるをえません。
しかもその供給の大本江淮のうち、淮南陳少游は李希烈に媚びています。あとは浙江韓滉が裏切れば朝廷軍も飢え唐朝は傾く状況であったのです。
自信を失った德宗皇帝はすべてを疑い、逡巡する状況でした、諌官達はそれに乗じて種種の上奏を行い德宗をゆさぶります。
李泌は肅宗時代から、個人的な利害・好悪を超越して客観的に物事をみる謀臣でした。

その建言により危機を脱することができました。


復讐 [専殺は不可]

2025-03-19 10:00:00 | Weblog

復讐 [専殺は不可]
--------------------------
「ならんと言われるのか!!」
河東節度使李載義は怒りに震えて喚いた。

三年前の太和五年正月、幽州節度使であった載義は、信用していた後院副兵馬使楊志誠の突然の裏切りによって逐われた。

それだけならよくあることである。しかし志誠は載義の妻を犯し、部下やその家族を虐殺したのであった。

京師に逃げた載義は、朝廷にはそれまで忠義を尽くしていたので山西節度使として拾われ、その後河東節度使へ転任してきた。

自立した志誠は朝廷に対して不遜な態度を示していたが、
今。志誠もまた軍乱に逐われて京師へ逃亡して来るという。

載義はその途次を襲い怨みをはらそうとしていたのだ。
「志誠は不忠とはいえ朝臣です。法の裁きがなければ殺してはなりません」と使者が言う。
「きゃつがしたことへの復讐だ。このままでは武人として俺の面目が立たない」
「たとえ免官となろうとも、怨みをはらさねば、部下達にあわせる顔があろうか」
とはいいつつもも、載義は朝廷の恩との間で迷っていた。

使者は「勅命をよくお読みください、志誠を殺すことはまかりならんと」と繰り返した。
「志誠を・・・・・か」
やがて載義はにっこりして言った。「臣、確かに勅を奉じます」

そして部下達に命じた「徹底的に襲え、だが絶対志誠を殺してはならん」
襲撃が実行され、志誠の財産は奪われ、家族や部下のほとんどは虐殺された。

ただ数人の部下とともに志誠はほうほうの体で京師にたどりつくことができた。
その後志誠は有罪とされ嶺南に流され、途次に誰かに殺された。

*******背景*******
寶暦二年九月、兵馬使李載義は唐朝に反抗的だった幽州節度使朱克融の子延嗣を殺し自立しい、朝廷へよしみを通じた。

そして反乱した横海李同捷を北邊から圧迫し、征討をなんとか成功させた。その功績により太保平章事を加えられていた。
河東節度使としては横暴な回紇の使者に毅然とした態度を示し敬服させた。

唐朝では「専殺」と称して、勅命のない殺害、特に官吏への殺害は表面上厳しく禁じていた。志誠の場合も朝廷としては殺すことには異議はなかったが、裁判も無く、載義の専殺は認めるわけにはいけなかったわけである。判決後に密かに殺害することは黙認されていた。


切り捨て [宋申錫と文宗皇帝]

2025-03-18 10:00:00 | Weblog

切り捨て [宋申錫と文宗皇帝]
--------------------------
太和五年二月、神策都虞候豆盧著は左神策軍中尉王守澄[宦官]に、宰相宋申錫が文宗皇帝の弟漳王湊を奉じ、即位させようとしていると告発した。

実は文宗が宋申錫と謀議して、宦官達の勢力を削り、特に王守澄を除こうとしたことへの先制攻撃であった。謀議は京兆尹王璠が守澄に寝返ったことからバレていたのだ。

宦官達は謀臣鄭注の案に従い、直接文宗は攻撃せずに、申錫の罪として作り上げたのだ。

守澄はなにもかも知った上で「我々があなたを立てたように、申錫は漳王を立てようとしているのです」と詰め寄ると。

若い文宗はたちまち動揺し「朕はなにも知らぬ、申錫はなにを考えているのか」としらをきった。

守澄はただちに神策軍を派遣し申錫一族を誅殺してしまおうとした。

ところが右軍の幹部飛龍使馬存亮は「他の宰相と協議もしないでは」と同調しなかった。

召された宰相牛僧孺達は逡巡していたが、ろくに証拠のない告発には懐疑的であった。

崔玄亮など諌官達は冤罪を訴え、情勢が不利になってきた守澄達は、申錫の解任と配流
で手を打つことに変更した。

申錫は文宗に裏切られ、解任され流されてやがて死んだ。

*******背景*******
陋劣な敬宗皇帝が遊び仲間に殺されたあと、愚行に辟易した王守澄達幹部宦官は、まともな皇帝を求めて真面目な江王[穆宗次男、敬宗の異母弟]を擁立した。

即位した文宗が真面目に政務をとると、宦官達の横暴が気に入らなかった。
そこで信任する翰林学士宋申錫を宰相とし、宦官を抑えようとした。
ところが申錫が仲間と思っていた京兆尹王璠が守澄と通じていた。
守澄は文宗の忘恩を怒ったが、直接皇帝を攻撃することは憚った。
鄭注の提案により、「俺達はお前以外でも擁立できるのだぞ」と脅しをかける意味から、賢明と言われていた漳王[穆宗の六子.文宗の弟]を持ち出してきた。

文宗は申錫の謀叛などは信じていなかったが、自分達の謀議が宦官達に漏れているのを知って脅え、すべての責任を申錫に押しつけることにした。

宦官達も派閥があり、守澄達は神策軍でも左軍に属しています。馬存亮など非主流の右軍は殺害に同調しなかったわけです。


復位    [崔胤のクーデーター]

2025-03-17 10:00:00 | Weblog

復位    [崔胤のクーデーター]
--------------------------
「くそ! おもしろくもねえ」
「宦官どもが正統な帝を幽閉するなんて許せるのか!!」
場末の飲み屋で左神策指揮使の孫徳昭が今夜も喚いていた。

時は光化の末、唐朝もすっかり衰えて京師付近にしか勢力が及ばない。
それでも昔の余光のおかげで地方の節度使からの献納はまだまだ馬鹿にならない。
政府が混乱しているのに乗じて、徳昭も甘い汁をすこしは吸ってきた。

「多少の余得がないと、兵隊業なんてバカバカしくてやってられねえ」

もともとは鹽州地方からの出稼兵ぎである徳昭は禁軍の將の誇りや、忠義心などはさらさらないのだ。

ところが先頃、宦官劉季述達が酒乱の昭宗皇帝を幽閉し、太子を立てて政権を握った。
それだけなら、徳昭達にはどうでもいいのだが、一味の宦官王仲先が規律を締め、勝手に官物を流用できなくしてしまったのだ。

急に忠誠心を起こした徳昭、今日も飲み屋で酔っぱらってわめいていた。

「その気持ちは本当かい?」暗いところにいた小男から声がかかった。
ギクッとした徳昭がそちらをみると、宰相崔胤の家臣石晉であった。

「本気ならうまい話があるんだが」なと晉。
崔胤は宣武節度使朱全忠と結ぶ反宦官派の有力者であったが、今回の変で失脚していた。

警戒した徳昭だが「ああ、本気だぜ」「でもな小物の俺達がなにを喚いてもなんもできん、なにをしたらいいのかもわからん」と囁いた。

「宰相様には頭があるが兵が無いんだ」
「やってくれるなら、富貴が欲しいままなんだがな」と晉。

天復元年正月、崔胤の指示を受けた徳昭達が、劉季述達を斬り昭宗皇帝を復位させた。
そして徳昭は李繼昭と賜名され、節度使同平章事となった。

*******背景*******

唐朝はすっかり衰亡し、各地に李克用・朱全忠・王建・楊行密などの勢力が割拠し、近くは鳳翔李茂貞や華州韓建に脅かされる地方政権に没落していた。
光化三年には朱全忠と通じた宰相崔胤が専権していた。
魯鈍で宦官の傀儡であった僖宗とは違い、普通であった昭宗だが、なすことが全てうまくいかず苦悩し、それが昂じて酒乱となり、狂乱しては宦官や女官を殺害する事があった。
そこで幹部宦官の左右神策軍中尉劉季述、王仲先等は昭宗を押込め、皇太子裕を即位させた。
また宰相崔胤を殺そうとしたが、朱全忠との関係を憚り、度支鹽鐵の権限を削るにとどめた。
崔胤は全忠に救援を求めたが、全忠は逡巡していたため、孫德昭、周承誨、董彥弼等を糾合し、季述・仲先を殺して昭宗を復位させた。