再建 [李愬の準備]
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元和十一年十二月閒廄宮苑使李愬は鄧州刺史充唐隨鄧等州節度使に任ぜられた。
愬は德宗時代の名将太尉晟の子であり、名門の子弟として順調に昇進していた。
唐隨鄧等州節度使は対淮西吳元濟の第二戦線となる戦地であった。
前使袁滋はひたすら元濟に宥和を働きかけ戦いを避けていた。
そのため左遷され、武官の愬が赴任してきたのではあるが、愬も軍人としての実績はなかった。
滋が戦いを避けたのは文官出身で宥和論者というだけではなく、相継ぐ敗戦によって肝腎の軍がガタガタになっていたためだ。
「これはダメだな、兵数だけは揃っているが使い物にならない」
「みんな淮西兵を懼れていて、戦いを避けることだけを心がけている」閲兵した愬は嘆じた。
兵達も元濟も「こんどの節度使は名門のおぼっちゃまだな、朝廷もあきらめたようだ」と感じていた。
愬は考えた。「まず士気を高めなければならん、いままでの戦死者家族の慰問からだ」
「次ぎに精兵を補充してもらう必要がある、数だけではだめだ」
要請に応じて昭義、河中、鄜坊より步騎二千が派遣されて来た。
「よし、負けグセがついた軍に、勝利の味を味あわせないと」
愬は少数の淮西軍を多数で攻撃し、敵の将校を捕らえることに専念した。
そして捕らえた敵将を誅せず、慰撫して味方としていった。
丁士良、陳光洽と続き、吳秀琳が文城柵とともに降ってきた。
小さいが勝利が続き、兵士達も自信をとりもどすようになってきた。
唐鄧軍は淮西軍を破ることができるようになり、十二年五月ついに驍將李祐を捕らえた。
愬は祐等を優遇し、淮西の内情を深く知ることが出来た。
------------背 景--------------
淮西節度は申光蔡三州の領域しかもたないが、李希烈以来の精兵でありしばしば唐軍を破ってきた。
淮西包囲の主力は陳許忠武軍節度李光顏・河陽節度烏重胤・宣武節度韓弘等であり郾城付近で退治していたが淮西軍は勇戦し押し気味であった。
側面戦線として西側に山東節度唐鄧隋方面、東側に淮南壽州、南側に江西節度があるが、唐鄧と壽州は潰滅し、かろうじて江西嗣曹王皐軍が押し気味で南進を防いでいた。
唐鄧隋方面では、嚴綬が十年二月に大敗し、高霞寓も十一年六月に惨敗していた。
そのため愬が赴任した時の唐鄧は敗残軍といってもよい状況であった。


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