唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

唐朝の皇太子20 陳王成美

2018-05-15 17:45:35 | Weblog
荘恪太子の死後、開成4年10月すでに健康を害していた文宗は、自分の子ではなく敬宗の少子陳王成美を皇太子に立てます。宦官勢力の自分への憎しみを感じていたのでしょうか。荘恪の乱行が周囲の宦官達の陰謀ではないかと疑い、自省の念にかられていたのでしょう。そして自分の信頼する宦官劉弘逸・薛季陵と宰相楊嗣復と李玨が皇太子を補佐してくれることを望んでいました。しかし開成5年正月文宗が崩御すると、軍權を握る幹部宦官仇士良、魚弘志は穆宗第五子潁王瀍を擁立[武宗]し、成美や安王溶、賢妃楊氏を殺害しました。潁王瀍は一瞬皇太弟ということになります。
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唐朝の皇太子 その19 荘恪太子

2018-05-13 20:29:34 | Weblog
文宗は生真面目で好学、自分を擁立してくれた宦官達を嫌っていました。彼はまず皇太子として敬宗の長男晉王普をかんがえていたのですが太和二
年夭折してしまいました。そこで太和六年自分の子魯王永を立てました。太和九年文宗は宦官排斥に失敗[甘露の変]して、実権を失います。そして鬱々としながら愛妾楊賢妃の讒言を真に受け、太子を疑い出します。また太子もまた宦官にそそのかされて遊興を好み、質素好学な文宗の気に入らず、ついに開成三年これを廃そうとします。しかし諌官達官僚が激しく反対したため近臣を処罰するだけで中止しますが、なぜか太子は帰邸後頓死します。自殺か毒殺かは不明ですが、捜査も行われなかったことから大物宦官が関与しているとみられます。
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皇太子でない継承が続きます 文宗

2018-05-11 20:35:34 | Weblog
敬宗以降は皇太子が継承するということがなくなります。別に皇太子がまったくいないわけではありません。宦官が勝手に皇帝を擁立するので、いても継承できないわけです。まず無頼の少年敬宗皇帝ですが、今で言う格闘技やポロにのめり込み、周囲に若い宦官や力士連中を集めて放蕩を重ねます。人権なんかカケラも意識せず、気に入らなければ遊び仲間も鞭打ったり処罰したりします。寶暦二年十二月そのため絞め殺されてしまいました。
若手宦官劉克明等は憲宗の子絳王悟を擁立しようとしますが、幹部宦官王守澄、楊承和,魏從簡、梁守謙等は穆宗次男の江王昂を擁立し、克明や絳王を粛清します。外廷の宰相達は関わることが出来ません。ですから江王は皇太子[皇太弟]を経ずに即位[文宗]するわけです。
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唐朝の皇太子 その18 敬宗

2018-05-11 16:00:18 | Weblog
穆宗は遊興好きで愚鈍でした。宦官達に盛んにポロ競技をさせ、その最中の事故にショックを受けて体調を壊します。辟易した宰相達は、まだ穆宗が若いにもかかわらず皇太子を定めることを求めます。長慶二年十二月長子の景王湛を皇太子としました。四年正月には道士の金丹中毒も併発して穆宗が頓死すると即位[敬宗]します。これがまた遊び好きのどうにもならない不良少年でした。
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唐朝の皇太子 その17 穆宗

2018-05-09 19:21:22 | Weblog
恵昭太子の死後、後継の皇太子選定は紛糾します。有力な宦官吐突承璀は澧王惲を推薦します、能力的にはこちらが高かったようですが、結局憲宗は父が郭子儀の子曖、母が昇平公主である懿安皇后の子遂王恒[穆宗]を選びます。穆宗は無能であり、唐朝の中興を成し遂げた名君の憲宗は廃することも考えていますが、元和15年宦官により突然殺されたことにより即位することができました。即位時に澧王と吐突承璀は粛清されました。
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唐朝の皇太子 その16 惠昭太子寧

2018-05-09 19:08:24 | Weblog
憲宗の元和4年3月、長子の鄧王寧が17歳で皇太子となります。6年閏12月に亡くなります。この人に関しては善悪ともなんの情報もありません。
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唐朝の皇太子 その15 憲宗

2018-05-09 18:54:25 | Weblog
順宗は即位時にすでに重病でしたが、長い皇太子時代に形成された側近の少壮官僚は、停滞した德宗の政治を変えられると始動し始めました。側近の王叔文を中心として次々に改革がなされましたが、当然宦官を中心とした旧勢力は抵抗勢力となります。それでも順宗が健康なら排除できたでしょうが、既に口もきけないほどの病身でした。三月旧勢力は長子の廣陵王淳を押し立てて立太子し、七月ついに順宗を退位させて即位させます[憲宗]。若手官僚は左遷追放され改革は頓挫してしまいました。
しかし憲宗は英明でしたので、やがて唐朝は覇権回復の道に進みますが、宦官重視の傾向は強まり弊害が増えていきます。
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