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唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

奇襲  [李愬蔡州を陥す]

2025-04-23 10:00:00 | Weblog

奇襲  [李愬蔡州を陥す]
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元和十二年八月宰相裴度は自ら淮西戦線の督戦に出動し、李光顏や烏重胤などの勇戦によって、主戦線は若干優勢となっていった。しかし淮西?元濟は勇将董重質に主力軍を与えて反撃し、征討の見通しはまだまだつかなかった。

軍情が好転し、淮西降將から内情をしった李愬は、主戦線の停滞と淮西主力の集中を知り、側面からの奇襲を李祐とともに計ることにした。

十月愬は全軍をあげて張柴村を目指した。
そして愬は「蔡州へ入り呉元濟を捕らえる」と下命した。
諸将は愕然とし、監軍は「李祐の奸計にやられた」と嘆いた。
しかし愬の威令を懼れしたがうしかなかった。
雪嵐の中、ひたすら三十年以上も侵入できなかった蔡州への道を進んだ。

途次、元濟軍の姿はなく警戒線もなかった。

軍は蔡州城に突入し、ほとんど抵抗なく城域を抑えた。

急報を受けた元濟は「盗賊か、不満分子が騒いでいるだけだろう、すぐ鎮圧してやる」としか反応せず。包囲されてはじめて状態を知り降るしかなかった。

蔡州陥落を聞き、董重質は全軍とともに降った。

忠武節度使李光顏はすぐ淮西軍を麾下に編入し、忠武軍は天下最強となった。

------------背 景--------------

元和十二年後半になるとさすがに唐軍の圧迫により淮西は経済的に行き詰まってきた。
しかし淮西軍は強く野戦では負けなかったが、側面まで派兵する余裕はなかった。

李愬はその状況を知り、主戦線での勝利は困難と判断し、前線に派兵して空虚となった蔡州城を急襲することにした。

吳元濟は京師に送られて誅された。李祐や董重質等の淮西の將達は任用され節度使にまでいたった。

淮西は再び反することのないように分割され蔡州[忠武]申州[鄂岳]光州[淮南]となった。兵力は忠武軍に編入された。

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まもなくこちらは更新停止します

2025-04-22 12:59:45 | Weblog

アメーバブログが順調に更新できていますので、

こちらはまもなく停止します。

これからは ↓ をご覧ください

https://ameblo.jp/qutou0619/

 

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再建 [李愬の準備]

2025-04-22 10:00:00 | Weblog

再建 [李愬の準備]
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元和十一年十二月閒廄宮苑使李愬は鄧州刺史充唐隨鄧等州節度使に任ぜられた。
愬は德宗時代の名将太尉晟の子であり、名門の子弟として順調に昇進していた。

唐隨鄧等州節度使は対淮西吳元濟の第二戦線となる戦地であった。
前使袁滋はひたすら元濟に宥和を働きかけ戦いを避けていた。
そのため左遷され、武官の愬が赴任してきたのではあるが、愬も軍人としての実績はなかった。

滋が戦いを避けたのは文官出身で宥和論者というだけではなく、相継ぐ敗戦によって肝腎の軍がガタガタになっていたためだ。

「これはダメだな、兵数だけは揃っているが使い物にならない」
「みんな淮西兵を懼れていて、戦いを避けることだけを心がけている」閲兵した愬は嘆じた。

兵達も元濟も「こんどの節度使は名門のおぼっちゃまだな、朝廷もあきらめたようだ」と感じていた。

愬は考えた。「まず士気を高めなければならん、いままでの戦死者家族の慰問からだ」
「次ぎに精兵を補充してもらう必要がある、数だけではだめだ」

要請に応じて昭義、河中、鄜坊より步騎二千が派遣されて来た。

「よし、負けグセがついた軍に、勝利の味を味あわせないと」
愬は少数の淮西軍を多数で攻撃し、敵の将校を捕らえることに専念した。
そして捕らえた敵将を誅せず、慰撫して味方としていった。

丁士良、陳光洽と続き、吳秀琳が文城柵とともに降ってきた。
小さいが勝利が続き、兵士達も自信をとりもどすようになってきた。

唐鄧軍は淮西軍を破ることができるようになり、十二年五月ついに驍將李祐を捕らえた。

愬は祐等を優遇し、淮西の内情を深く知ることが出来た。

------------背 景--------------

淮西節度は申光蔡三州の領域しかもたないが、李希烈以来の精兵でありしばしば唐軍を破ってきた。
淮西包囲の主力は陳許忠武軍節度李光顏・河陽節度烏重胤・宣武節度韓弘等であり郾城付近で退治していたが淮西軍は勇戦し押し気味であった。

側面戦線として西側に山東節度唐鄧隋方面、東側に淮南壽州、南側に江西節度があるが、唐鄧と壽州は潰滅し、かろうじて江西嗣曹王皐軍が押し気味で南進を防いでいた。

唐鄧隋方面では、嚴綬が十年二月に大敗し、高霞寓も十一年六月に惨敗していた。
そのため愬が赴任した時の唐鄧は敗残軍といってもよい状況であった。

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中国では皇嗣の即位例はない

2025-04-21 10:00:00 | Weblog

中国では皇嗣の即位例はない
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どこかの国に「皇嗣」という存在が居ます。

皇太子・皇太孫・皇太弟・皇大叔などいろいろあるが、皇嗣には「太」がつきません。
「太」という字は「最も尊い・最上位」という意味があるので「皇嗣」は格が低いということなのかもしれません。

載初/天授元年[692]九月、則天は即位して「大周帝国」を建国しました。
つまり「大唐帝国」は滅びたわけです。

いままでの唐の傀儡皇帝の李旦は格下げされて皇嗣となり、輪と改名しました。
旦/輪は則天の実子であるので「武氏姓」を与えられました。

そして旦の子供達、皇太子成器は皇孫に、隆基達は「親王」から「郡王」に格下げされました。

しかし皇嗣が則天を継承すると明確に定められたわけではなく、皇太子の座は空いたとも考えられます。そこで則天の甥にあたる魏王承嗣や梁王三思などは継承をねらって策動しました。

天授二年[693]九月鳳閣舎人張嘉福を指嗾して承嗣を皇太子にと請願させますが、宰相岑長倩や格輔元が反対したため成りません。長倩や輔元はこのあと誣告され殺されました。

そして承嗣の勢力はどんどん強くなりましたが、則天の寵臣李昭德が「甥が伯母の祭祀を行うことはありません」と警告し、則天は承嗣への継承をあきらめました。
中国では、家系を重視し血縁に拘らない日本と違い養子の概念が厳密であり、同じ武氏とはいえ実子のある則天が承嗣を継承者とするのには抵抗があったのでしょう。

結局、聖暦元年[698]に一度廃した廬陵王哲[中宗]を呼び戻し皇太子としました。
皇嗣輪/旦は兄が復帰したため、皇嗣を辞し、聖暦二年相王となりました。

つまり唐/周では「皇嗣」が即位することはなく、中国の歴史では例はありません。

-----------背景----------

光宅元年[684]高宗の後を継いだ皇帝哲[中宗]は則天により廃され廬陵王として地方に安置されました。
そして弟り相王旦が皇帝とされましたが、則天の傀儡でしかありませんでした。

則天は嗣聖/天授元年[690]即位し、旦は廃されて皇嗣となりました。

皇族となった武氏一族は策動して承嗣・三思の立太子をねらいましたが、則天は決断できず、そうこうしているうちに男妾である張易之・昌宗の策動で廬陵王の復帰ということになりました。

旦は神龍元年[705]の哲[中宗]の即位後、安国相王となり、景雲元年[710]の韋后の乱の後に擁立されて皇帝[睿宗]となりました。

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回紇和約 その2 [李泌の策]

2025-04-20 10:00:00 | Weblog

回紇和約 その2 [李泌の策]
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德宗は「陝州の事、泌の言う通りかな」と重臣李晟や馬燧に問うた。
両大臣は「臣らもそのように思います」と答えた。

泌「すでに回紇は陛下に恥をかかせた可汗を殺し、新可汗が立っています。情勢は一新しているのです。今吐蕃の害は回紇に数倍です」

德宗「そうは言っても回紇との和は困難であろう」

泌「回紇が臣と称し、使節の数を制限し、漢人を拉致せず、吐蕃に共同して対抗するという条件で交渉したいと考えています

「そんな条件を回紇が呑むとは思えない、特に臣と称するとは」

「この条件なら陛下はお許しくださいますか?」

「それができるなら朕には異存がない」

回紇は西域諸国と唐の仲立ちをし交易の利を得ていたが、当時唐とは対立し経済的困難を抱えていた。内部には親唐派と反唐派はあったが、現可汗は親唐派に擁立され一刻も早い交易再開を望んでいた。

そこで可汗は遣使して「兒及臣」と称し,泌の条件を全て吞んだ。

「こんな事が実現するとはな」と德宗は大いに驚いた。

德宗は可汗に咸安公主を降嫁させ同盟を強化し、回紇は多くの馬を供給してきた。

唐と回紇が同盟をすると吐蕃は警戒し侵攻をやめた。
さらに雲南蠻との和約を進めたため、京師は安全になっていった。


-------背景----------

回紇も初期は純朴で質実であったが、唐からの貢納を得、西域の貿易の利が入るようになると宮殿を築き官僚体制も敷き豪奢な生活を送るようになっていった。

唐に対しては功を誇って傲慢で、その使者達は押し買い・豪奪をくり返していたが、代宗は姑息で宥和するばかりであった。
德宗は強硬策に出たため、幽州朱滔とともに侵攻することがあったが、吐蕃とは西域の交易を争う仇敵関係にあるうえ、唐との交易が立たれると経済的に困難となってしまった。

そこで一刻も早い唐との交易再開を願い妥協的姿勢に転じてきた。

唐は回紇と連合することにより、吐蕃が關内侵攻をすれば挟撃できるようになった。

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回紇和約 その1 [陝州の恥]

2025-04-19 10:00:00 | Weblog

回紇和約 その1 [陝州の恥]
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吐蕃の背信により盟約がならなかった貞元三年のある朝。
宰相李泌は德宗皇帝と対していました。

德宗は「邊將から馬が乏しい、これでは吐蕃は防げない、なんとかしてくれという要求がくる。しかし必要はわかるが手に入らない上に非常に高価だ」と嘆いた。

泌「私の策を採用してもらえれば、数年の内に馬の供給は増え、安くもなります」
「どんな策だ」
「陛下のお気にいらぬとは思いますが、国のために申し上げざるえません」
「卿はなにをためらっているのか」
「北に回紇と和し、南に雲南、西に大食・天竺と通じれば,吐蕃は脅威となりません」

「雲南・大食・天竺との和はよいが、回紇はだめだ」

「陛下がそうおっしゃるとわかっていますが、回紇との和こそが肝腎なのです。三國はその後でよいのです」

「回紇の事はもう言うな」
「臣は宰相ですから、陛下には苦言も申し上げなければいけません」
「卿の献策はたいてい聞きとげるが、回紇との和は絶対だめだ。あっても遙か先だ」

「陛下は陝州の恥を根に持っておられるのですか」

「そうだ、韋少華達は朕のために傲慢な可汗に杖殺された、復讐したいと思うが国家多難なためできないのが現状だ。もう和約のことは言うな」

「少華等を害したのは牟羽可汗で、即位時にも侵攻しようとしましたが、今の合骨咄祿可汗に殺されました。合骨咄祿は陛下の仇をとったのです。しかも張光晟が回紇使節を殺したにもかかわらず、唐の使節を害していません。友好を求めているのです」

「卿はあくまで拘るのだな」
「臣は国のために論じているのです」

しかしプライドが高い德宗はなかなか許そうとはしなかった。

そこで泌は「回紇和約を許してもらえなければ、私には方策はなくやめざるえません」

「困らせるな、理屈はともかく、犠牲となった少華達のことを思うと認められぬのだ」

「しかし少華達は陛下に罪がありました」

德宗は驚き「彼らになんの罪があった?」

「当時回紇は国を挙げて来援してきたのです、唐に大功があると任じていたわけです」
「しかも牟羽は可汗であり、相当な礼遇を期待していたのです」
「年少であった陛下を補佐する少華達は回紇と調整する義務があったのです」
「しかし少華は一方的に唐の立場だけを主張し争いました」
「ために陛下は恥を受けることになるのです。これは少華の失態で、陛下への罪です」

德宗は考え込んだ。

-------背景----------

寶應元年十月代宗は雍王适[德宗]を天下兵馬元帥、僕固懷恩を副元帥として史朝義を東都に攻撃し安史の乱の決着をつけようとした。唐軍の力では到底実現できないので回紇に支援を求めた。

回紇は可汗自ら大軍を率いて来援し、朝義軍を大破した。

この時起こった「陝州の恥」とは、共同して進軍していた唐軍元帥雍王と回紇可汗が陝州で会し、可汗が雍王に拝礼・舞踏を要求したことにある。舞踏とは君に謁した臣下が喜びを示す作法である。
中書舎人韋少華等が「雍王は天子長子・元帥であり、中國の儲君が外國可汗に拝舞などできない」と強硬に争い、怒った回紇側が少華等を杖殺した。
そして雍王は年少でまだ礼儀をわきまえないのだろうとした。実際は拝舞させたのであろう。

同盟関係を結び援軍に来てもらい、皇太子でもない雍王が皇帝である可汗に拝舞するのは当然であるが、中華思想にそまった官僚達には認められないものであろう。
鮮卑族の唐もこのころには中華国家に染まっていたとみえる。

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ブログ移転について[報告]

2025-04-18 20:48:19 | Weblog

gooブログは廃止されるので、アメーバーブログに移転することになりました。

様子をみるため4月中は共存させ、5月からはアメーバーブログのみ更新する

予定です。

アメーバーブログアドレス ↓

https://ameblo.jp/qutou0619/

 

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早期歸順 [王承宗の選択]

2025-04-18 10:00:00 | Weblog

早期歸順 [王承宗の選択]
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元和十三年年初

「もうだめだ、勝ち目はなくなったな」

成德節度使王承宗は追いつめられていた。

淮西吳元濟、淄青李師道と組んで唐に反抗していた。
征討軍を何度も撃退し領域を守っていたのだが、
淮西元濟が李愬の奇襲により誅されてしまった。
淄青師道は軍略がなく兵も弱いので頼みにならない。

「淄青が残っている内に歸順しないと交渉にすら応じてもらえませんよ」と幕僚。
「交渉は無理だろう、俺は皇帝に一番憎まれている。継承時に裏切っているし、宰相武元衡を殺したのも俺だと思われているし」
「ですから誰かに仲介してもらわなければ」
「幽州の劉總か魏博の田弘正しかいないが、どちらも敵対しているしな」
「とにかく泣きつくしかありません。次に滅ぼされるのはうちか淄青です、早くしないと」
「泣きつくなら、信用出来ない總より、正論派の弘正かな」
「でも弘正がうんというかな」
「思い切った条件でなければ無理でしょうね」

何度も使節を送り、平身低頭してやっと弘正に仲介を受け入れてもらった。

条件は「徳棣二州の割地。子二人を人質に。管内諸州に唐の官僚を派遣」などである。

四月、弘正は憲宗に上奏した。
憲宗は受け入れたくなかったが、最終的に弘正の面子をつぶすことはできず、「淄青征討の先鋒になるならば」と受け入れた。

あわてて淄青李師道も歸順を申し出てきた。
宰相達は安上がりに鎮定できるならと、
「海沂密三州の割地。子を人質に、官吏の受け入れ」を条件とした。

師道は一度は受け入れたが、妻女の反対で人質をださず、まだ本格的な戦闘をせず完備している軍備にこだわってとりやめてしまった。

憲宗はえたりとばかり魏博を先鋒とし総攻撃をかけ師道を誅し、淄青十二州を回収した。
成德承宗は生き延びることができた。

------背景-------------

元和四年成德節度使王承宗は父士眞の後を継承しようとしたが、憲宗はなかなか許さず、徳棣二州を分離する条件で妥協が成立した。
しかし承宗は違約して二州を渡さず征討を受けた。
宦官吐突承璀を主将とする征討は失敗し、五年七月承宗の勝利で終わった。

その後も淮西吳元濟や淄青李師道とともに反唐姿勢を示し、十年六月には主戦派宰相武元衡を京師で暗殺し、七月にはまた征討をうけた。

しかし淮西戦線は膠着し、成德戦線は幽州劉總軍の圧迫はあったが脅威とはならず、疲弊した唐朝は十二年五月停戦した。

ところが十月唐鄧節度使李愬が淮西側面から蔡州を奇襲し吳元濟を捕らえ、淮西節度は滅亡した。

憲宗は続いて淄青・成德を討滅しようと動いていた。

 

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登用 [憲宗の遺臣]

2025-04-17 10:00:00 | Weblog

登用 [憲宗の遺臣]
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大中元年
朝議の後、宣宗皇帝は宰相白敏中と雑談をしていた。

「父憲宗皇帝の葬送の時だがな、途中で急な豪雨にあって、私を含めて百官達は雨宿りを求めて四散した」
「ふとみると、白髭の山陵使一人が雨に打たれながら憲宗の靈駕に残って守っていた」
「激しい雨に打たれ号泣しているように見えた」
「あれは誰だったのかな?」

「故宰相の令狐楚でしょう」と敏中。
「子はいるのか?」
「長子緒が隋州刺史と次子綯が湖州刺史として仕えています」
「宰相になる素質はありそうか?」

「緒は多病ですが、綯は才器がありそうです」

宣宗はすぐ綯を考功郎中知制誥に任じて召し出した。

入謝時、宣宗は元和[憲宗]時代の事を問い、綯は詳しく答えた。

宣宗は満悦し宰相候補として翰林院に入れた。

早くも大中四年に綯は宰相となり宣宗時代を通して在任した。

--------背景-----------
宣宗皇帝は憲宗の十三男であり、本来即位する可能性はなかったが、武宗没後に宦官達が傀儡にしやすい愚人と傍系から即位させた。その時37才であった。

しかし宣宗は賢明で果断であり、専権を振るっていた李德裕を排除し、牛党の白敏中を登用して李党を排除した。

宣宗は父憲宗時代に憧れを持ち、その重臣の子孫を次々と登用していった。

白敏中が令狐楚・緒・綯とすぐ答えられたのも、三者が牛党であったからである。当然綯の登用にも賛成であった。

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冷遇 [源休の怒り]

2025-04-16 10:00:00 | Weblog

冷遇 [源休の怒り]
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「ふざけやがって、俺がどんな思いをしてきたと思っているんだ」
源休は荒れ狂っている。

遠く回紇へ使に行った功として、光禄卿に任じられたのである。

「光禄卿? 窓際族扱いじゃないか」

対応が難かしい回紇への使者なら、普通でももっと報われて当然である。

しかも今回は、振武の張光晟が回紇の使者達を殺害した後である。
当然、回紇国内は激高して、休達の生命すら危うかったわけである。

長時間、雪中に立たされ問責され続けた。
それを必死に陳弁して両国の平和を保ってきたのだ。
宰相に任じられてもおかしくないはずだ。

せめて実入りの良い節度使ぐらいに任命されて当然だ。

それなのになんの利益もない光禄卿だ。

「盧杞の野郎、今にみておれ」

休の宰相盧杞と德宗皇帝に対する怒りはつのっていった。

まもなく起こった朱泚の乱では真っ先に参加し、その宰相となった。

*******背景*******

回紇は安史の乱に唐を支援し、後は郭子儀と連携し吐蕃を牽制したことで、交易上優遇され、その使節は横暴でしばしば紛争を起こしてきた。
代宗皇帝はひたすら宥和政策をとったので回紇は増長してきていた。

しかし回紇を嫌悪する德宗皇帝が即位して方向性が変わった。

建中元年振武軍使張光晟は横暴な回紇使節千人を殺害し資財を奪った。
回紇は激しく抗議したが、德宗は光晟を閑職にまわす程度の対応しかしなかった。

その最中、京兆尹/少尹源休は回紇武義成功可汗の冊立の使者として行ったのである。

当然冷遇され、敵視される中、なんとか使命を果たしてきた。

当然昇進してよいはずであるが、宰相盧杞は休の宰相登用を懼れて、帰還途中に光禄卿という閑職に任命してしまった。

当時の光禄卿はまともな職務はなく、利権は宦官達に全て奪われていた。

回紇はこのあと幽州朱滔の誘いにのり河北へ侵攻し、吐蕃の侵攻を防がなくなった。

休は朱泚の乱が起こると率先参加し、中書侍郎同平章事判度支としてその体制づくりに協力した。泚の敗北後誅された。

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空虚  [迪簡の忍耐]

2025-04-15 10:00:00 | Weblog

空虚  [迪簡の忍耐]
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「倉庫はからっぽです。前使がみんな持っていきました」
「朝廷から送られてくる賜物はいつくるかわかりません」

義武軍行軍司馬の任迪簡にとっては頭の痛いことばかりであった。

前節度使の張茂昭は、易定二州を朝廷に返納して河中へ栄転していた。
長い間の河北の自立の一角が崩れたわけである。
しかし周囲の藩鎭はすべて敵であり、軍士達は不穏な状態が続いている。

現に二回の反乱がおこり、そのたびに迪簡は監禁されていた。

牙軍上層部は官爵を授けられ朝廷に従うつもりであるが、利益を感じられない中堅以下は不満であった。

「こんな貧乏節度使だから、茂昭は投げ出していったんだ」
「なけなしの財産もみんな持って行ったし」

迪簡が軍士に与える賞賜はろくになかったし、宴会すら開くことができなかった。

「ひらきなおるしかしかたがないかなあ」と
迪簡は府庁の門脇の小屋に寝起きし、粗末な食事を食べて自分にも金がないことを示した。

軍士達もそれをみて
「隠しているワケじゃあなさそうだ。ほんとうに金がないんだろう、賜物がつくまでは辛抱するしかないか」と徐々に静まっていった。

その後賜物がやっと届き、迪簡は政庁に戻ることができた。

*******背景*******

元和5年10月義武易定節度使張茂昭が兵権を返上し朝廷に歸附した。茂昭はもともと唐朝よりであったが、版籍も返上し完全に帰伏したわけである。

これにより河東節度とつながり成德節度は幽州節度と分断され包囲されることになり、唐朝の勢力は大きく河北へ食い込む。河北三鎭にとっては重大な脅威となる。

しかし幽州は劉總が継承したばかりであり、成德は唐と和してまもなかったため、異論はあってもすぐには手を出せなかった。

天徳の李景略の後を継いだ有能な迪簡が後任に登用されたが、三鎭の勢力圏を避けて運搬する賜物はなかなか到着しなかった。

茂昭は一族と共に、財産をねこそぎ持って河中へ移ったので、義武の倉庫は空っぽであった。

賞賜がもらえない將士達は不満がつのり、虞侯楊伯玉は乱し、また兵馬使張佐元も乱し迪簡を捕らえたが、牙軍幹部はこれを鎮圧した。迪簡はひたすら謹慎し、牙軍幹部達に忍耐を求めて賜物の到着を待っていた。

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排斥 [牛李の狭間]

2025-04-14 10:00:00 | Weblog

排斥 [牛李の狭間]
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「なぜいつまでも言われねばならないんだろう」
「たいしたことをしたわけじゃないか」
李商隠はとぼとぼと長安の街を歩いている。

河陽節度掌書記になったことに対する批判は強かった。

仲間からは裏切り者という目でみられた。

もともと若い頃の商隠は、牛李の党争では牛派の山西節度使令狐楚の配下であった。

その庇護のもと進士に合格したが賢良方正科には及第しなかった。

そして楚の死後、職がない時に

河陽節度使王茂元に気に入られ娘をもらい秘書郎として登用されることになった。
茂元は李派の軍人であり、当時は李徳裕の絶頂期であった。

貧乏な商隠としてはおいしい話であったので、あまり考えもせず引き受けたのだ。

ところが今は宣宗皇帝の時代、うってかわって牛派全盛。

李派に寝返ったことが旧悪とされ、徹底的に排斥されるようになってしまった。

今日も楚の子の綯に頼みに言ったのだが、一顧だにしてもらえなかった。
「おまえは節操がなさすぎる」という返事だった。

もっと小物なら赦してもらえるはずなのだが、世間には詩人として有名なのでより厳しくあたられるのだろう。

「もう官界では生きていけないのだろうか」

商隠は長安の街をとぼとぼと歩いていた。

*******背景*******
文宗皇帝の時代より牛李の党争が激しくなり、宰相から少壮官僚にいたるまで色分けされ、一方が主導権をとると、他方は都落ちして地方官となった。

次の武宗次代は李德裕の全盛時代で、牛派は迫害された。

宣宗が即位すると牛派が勢力を持ち、李派は地方に逐われた。

商隠は生活のため何度も両派をわたりあるいたため余計に信用されなくなった。

しかし抜群の詩才のため完全に排斥されることはなく、名目だけの官や地方官を渡り歩くことになり昇進はしなかった。

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手足を切る  [魏博牙軍討滅]

2025-04-13 10:00:00 | Weblog

手足を切る  [魏博牙軍討滅]
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「全忠様の援軍は来たか」
「馬嗣勳が千人とともに婚礼道具を運ぶと称して入城しています」
「武器庫の弓のツルは切ったか」
「甲冑のひもも切断して着用できなくしております」
「よし今夜決行だ」

唐の末 天祐三年正月

魏博節度使羅紹威は部曲(直属の兵)を率いて、その牙軍(節度使の親衛軍)に襲いかかった。

魏博の牙軍は代々親族関係を結び、気にくわない節度使があると乱を起こし殺害、強迫を繰り返してきた牙軍だ。

しかし予期しない内部からの攻撃に応戦できずバタバタと倒れていく。

狼狽から覚めると「武装しろ、兵器庫へ向かえ」と牙兵達

しかしそこには使い物にならない武具がころがっているだけだった。

「家族も見逃すな、皆殺しにしろ」

援軍に来た朱全忠の兵は容赦がなかった。

女幼児を含めて数万の牙軍と家族は皆殺しになっていった。

「紹威様、城内の牙軍は一掃しました」

凶暴な牙軍はいなくなり、紹威の地位が脅かされることはなくなった。

「よし外鎮の兵達には帰順するように布告せよ」

しかし親族・友人を虐殺された外鎮の兵達は反乱を起こして従わなかった。

全忠の強力な支援で鎮定した時、魏博にはもうまともな戦力は残っていなかった。

「自分で自分の羽翼を切り取ったようなものだが」

紹威は自嘲しながら、全面的に服従するしかなく全忠の元へ入朝して行った。

*******背景*******

田承嗣が形成した牙軍は、自分達で婚姻関係を結び結束し、節度使に対抗するようになっていた。田興・史憲誠・何進滔・韓允忠・樂彥禎・羅弘信と代々の節度使は牙軍が擁立したものであり、節度使は常に牙軍の意向を伺わねばならなかった。

弘信の跡をついだ紹威の地位も不安定であり、二年七月には牙將李公佺が謀反し逃亡していた。

紹威は自力では牙軍を抑えられないため、宣武朱全忠に依頼した。

全忠は七万を動員して魏州に入り、先鋒として馬嗣勳を魏州に潜入させた。

紹威は使府の牙軍を討滅することはできても、外鎮軍の反乱鎮圧には手が回らなかったのだ。

全忠軍は容赦なく魏博外鎮を征討し、外鎮軍も徹底抗戦した。

終了後、魏博にはまともな戦力は残っておらず、紹威は全忠の傀儡となってしまった。

懼れた紹威は全忠に媚びて、その即位を勧請した。

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復讐  [それは私事です]

2025-04-12 10:00:00 | Weblog

復讐  [それは私事です]
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永徽六年
高宗と武宸妃、そして長孫無忌・褚遂良以下の宰相陣との対立は頂点に達していた。

王皇后を廃して武宸妃を皇后に立后したいという高宗と、
出戻りの武氏を側室までならともかく、皇后にはできないという無忌派である。

宰相は無忌・遂良・于志寧の三重臣と韓瑗・來濟が無忌派、武氏派は李義府、中間派の崔敦禮。

無忌派を代表して遂良が太宗の遺訓をとして強硬に反対し、瑗や濟が同調する。
学者肌の志寧も筋が通らないと沈黙し賛意を示さない。義府も無忌の圧力に抑え込まれている。

気の弱い高宗は挫けそうになるが、武氏が怖くて退けない。

長い睨み合いのあとその日は結論がでなかった。

この会議には、もう一人の重臣司空李勣は病と称して欠席していた。

勣は密偵から会議の状況を聞き対応を考えていた。
「くだらん、皇后なんてどうでもよい、皇帝すらどうでもよいのに」
「俺や一族がうまくいけばいいだけだ」
「遂良のような無忌の手先の諫言屋には同調できんわ」

太宗に裏切られて以来、勣は国家や社稷を思うなんてことはなくなったのだ。

「よし、皇帝やあの女に恩を売ってやるか、無忌の鼻をあかすのもおもしろい」

病が癒えたと出仕した。そして高宗に単独拝謁した。
高宗は猛烈な反対に弱気になっていた。

「武氏の件は難しいかな?、宰相達は反対なのだ」
「なぜそんなことを私にお聞きになります」と勣。
「いやこれは国家の大事だと宰相達が」
「嫁を決めるなどは私事でございます。他人にとやかく言われる筋合いはございません」

高宗は驚き、そして喜んだ。
「そうだな、卿らを煩わすようなことではなかった。朕が決めればいいだけのことなのだ」

勣はうなずき退出していった。

十月王皇后は廃され、武氏が皇后となった。遂良は潭州都督へ左遷された。

*******背景*******

李勣は太宗に左遷、高宗に再任用され、太尉無忌につぐ司空という高位にあったが、宰相と言っても武官であるので行政にはタッチしていなかった。

武氏は高宗を完全に丸め込み、子のない王皇后と違い、弘と賢という男児も産んで宸妃という特別な地位をつくりあげたが皇后位も狙っていた。

王皇后派の柳奭が逐われ、李義府が宰相となったが、大半は無忌派であった。褚遂良は一時期収賄で左遷されていたが、無忌に再登用してもらったため頭が上がらず、志寧は原則主義者であり高宗に同調などはせず、廷議には武氏の立后を認める雰囲気はなかった。

勣は無忌のような鮮卑系貴族集団外の立場であり、太宗への失望感もあり、社稷を守るなどという気持ちはなかった。

司空である勣の、これは皇帝の私事であるという見解により、高宗は廷議を無視して立后の事を進めることができるようになった。

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背信  [太宗と李勣]

2025-04-11 10:00:00 | Weblog

背信  [太宗と李勣]
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貞觀二十三年五月

「疉州都督を命じる、ただちに赴任せよ」

突然の左遷命令に宰相李勣は愕然とした。なんの原因も思い当たらない。

竇建徳や王世充と戦っている頃からの太宗を戦友と信じ、

困難な高久麗遠征にも全力で忠誠を尽くしていた勣である。

「たよりない皇太子をしっかり補佐してくれよ」
と病身の太宗から涙とともに頼まれ、感激して拝受したばかりであった。

「本当は、陛下は俺など信じてなどくれてはいなかった。すぐ裏切る盗賊上がりとみていたんだ。俺はまんまと騙されていたんだ」

家にも立ち寄らず疉州へ赴任する道で勣はどんどん覚めていった。
「皇帝など信用出来ない、二度とだまされない」

死期が迫った太宗は、皇太子治を呼んで言った

「勣は名将だ、俺は重恩を与え奴を使いこなせた。しかしお前からはなんの恩もうけていないのだ。使いこなすのは難しい」
「勣がぐずくずして赴任しないようであれば殺してしまえ。すぐ赴任するようなら、またお前が登用して恩を与えればよい」

即位した太子[高宗]は勣を再び任用して宰相とした。
しかし恩を謝する勣の内心は冷え切っていた。

*******背景*******

李勣は東都征圧や竇建徳と太宗とともに戦い、党項や吐谷渾の征討、太宗の大失策であった対高麗戦などにも勇戦し、厚い信頼を受けていたはずだった。

太宗には大きな功績をあげた将軍を、弾劾させてから赦すという悪癖がああったが、ここまで勣は免れてきた。

対高麗敗戦以降、太宗の精神状態はおかしくなり、張亮や劉洎のように冤罪のために誅殺されることが増えてきて、勣も不安であったが、太宗は厚い信任を示していた。

李勣は宰相の一員であったが、武人であるため行政には関与していなかった。

疉州は辺境隴右道の小さな州でそれまで都督府などは置かれていなかった。

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