奇襲 [李愬蔡州を陥す]
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元和十二年八月宰相裴度は自ら淮西戦線の督戦に出動し、李光顏や烏重胤などの勇戦によって、主戦線は若干優勢となっていった。しかし淮西?元濟は勇将董重質に主力軍を与えて反撃し、征討の見通しはまだまだつかなかった。
軍情が好転し、淮西降將から内情をしった李愬は、主戦線の停滞と淮西主力の集中を知り、側面からの奇襲を李祐とともに計ることにした。
十月愬は全軍をあげて張柴村を目指した。
そして愬は「蔡州へ入り呉元濟を捕らえる」と下命した。
諸将は愕然とし、監軍は「李祐の奸計にやられた」と嘆いた。
しかし愬の威令を懼れしたがうしかなかった。
雪嵐の中、ひたすら三十年以上も侵入できなかった蔡州への道を進んだ。
途次、元濟軍の姿はなく警戒線もなかった。
軍は蔡州城に突入し、ほとんど抵抗なく城域を抑えた。
急報を受けた元濟は「盗賊か、不満分子が騒いでいるだけだろう、すぐ鎮圧してやる」としか反応せず。包囲されてはじめて状態を知り降るしかなかった。
蔡州陥落を聞き、董重質は全軍とともに降った。
忠武節度使李光顏はすぐ淮西軍を麾下に編入し、忠武軍は天下最強となった。
------------背 景--------------
元和十二年後半になるとさすがに唐軍の圧迫により淮西は経済的に行き詰まってきた。
しかし淮西軍は強く野戦では負けなかったが、側面まで派兵する余裕はなかった。
李愬はその状況を知り、主戦線での勝利は困難と判断し、前線に派兵して空虚となった蔡州城を急襲することにした。
吳元濟は京師に送られて誅された。李祐や董重質等の淮西の將達は任用され節度使にまでいたった。
淮西は再び反することのないように分割され蔡州[忠武]申州[鄂岳]光州[淮南]となった。兵力は忠武軍に編入された。