正月、宗はご機嫌取りとして平章事や検校僕射などの官職を、全国の藩帥にばらまいた。これらは虚名ではあるが名誉職として藩帥の権威づけには有効であった。四月には魏博節度使田緒が死亡したが、田家の世襲は揺るがず、子の季安が継承した。
宗は宦官を重用し、六月神策軍に護軍中尉を置き完全に宦官支配とし、これより宦官の継続的な専権が強まっていった。
七月には宣武軍節度使李萬榮の病死後、柔軟で老獪な元宰相董晉を送り込むことに成功し一時的に宣武軍を回復した。
九月には皇帝の信任のみが厚く、官界の鼻つまみであった裴延齢が病死した。
宗は宦官を重用し、六月神策軍に護軍中尉を置き完全に宦官支配とし、これより宦官の継続的な専権が強まっていった。
七月には宣武軍節度使李萬榮の病死後、柔軟で老獪な元宰相董晉を送り込むことに成功し一時的に宣武軍を回復した。
九月には皇帝の信任のみが厚く、官界の鼻つまみであった裴延齢が病死した。