唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

宦官一覧表のアップ

2018-02-25 11:00:58 | Weblog
唐後半に大きな影響を与えた宦官勢力ですが、
整理の関係で一覧表を作ってみました。
官位の上下に関係なく549名のリストです。
一族番号で同族を示しています。
本来宦官は生殖能力はないはずですが、妻を娶り
子を作って[ほとんど養子ですが]、爵位等の継
承を図っています。
子は大半が宦官、神策系武将になっています。
リストからは祖先・子孫・兄弟でも宦官以外は省いています。

唐史資料集 Webです。

唐宦官一覧表 Excelファイルです。

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唐朝の皇太子 その8

2018-02-24 10:20:07 | Weblog
そういえばこの人も皇太子だったのだ。

嗣聖元年二月中宗が廃位され、相王旦が即位したとき、子の永平郡王成器が皇太子と
なりました。天授元年父が廃位され皇太子に格下げとなると、成器も「皇孫」となり
長壽二年さらに下がって壽春郡王、景雲元年六月父が即位して宋王に。功績が多かっ
た弟隆基[玄宗]に皇太子の地位を平穏に譲りました。姉太平公主は隆基と争い、成
器を皇太子に擁立しようとしましたが、彼は同ぜず隆基を支持しました。玄宗期にな
っても兄弟仲はよく開元二十九年に亡くなりました。玄宗は彼に「皇帝」の号を贈り
謝意を示しています。
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唐朝の皇太子? その7

2018-02-23 16:50:51 | Weblog
今はやりの皇嗣なんです。皇太子は未経験ですが。

相王旦は武后の末子で、嗣聖元年二月兄の中宗が廃位された後に皇太子を経ずに
即位した。単なる傀儡で実権は武后が持っていた。
天授元年九月武后が即位し「大周帝国」皇帝となり、皇嗣に格下げされた。
その後武氏一族の圧迫を受けながら、ただ謹慎して生存していた。
長壽二年には二人の妃を殺害され、子達も郡王に格下げ。
自分も酷吏來俊臣に謀叛で告発されたが、家臣安金蔵が切腹して抗議したこと
により免れることができた。
聖暦元年九月兄が呼び戻されて皇太子となるが皇嗣はそのままで併立すること
になった。
二年正月相王に戻る。
神龍元年正月中宗が復位すると安國相王に昇格。
しかしまた告発されることもあり、ただ畏縮しているだけだった。
景雲元年六月中宗が毒殺され、韋后が溫王重茂を擁立。
旦の子隆基[後の玄宗]が娘[太平公主]らと蜂起して韋后等を誅した。
この時も皇太子を経ず即位して皇帝[睿宗]となった。
睿宗はすっかり政争に飽きていたので、隆基と太平公主がもめ始めると
二年ほどであっさり退位して隆基に皇帝の座を譲った。


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唐朝の皇太子 その6

2018-02-22 21:41:51 | Weblog
意志薄弱の恐妻家

唐の三愚帝[中宗.敬宗.僖宗]の筆頭である英王哲は武后の子であるが、兄たちとは違い意志薄弱であった。永隆元年賢が廃され、代わって皇太子となった。弘道元年12月高宗が崩御すると即位したが、愛妻韋氏の父をいきなり宰相に登用しようとした。実権を渡すつもりなどなかった武后はこれを廃位し、盧陵王に落とし房州・均州に配流した。配流中はただ殺されることを怖れて、韋氏にすがりついて怯える毎日であった。武氏一族に政権を継承する企ては何度も起こったが、武后は結局自分の子である中宗・睿宗に嗣がせることにし、重臣達の勧めもあって聖暦元年盧陵王を呼び戻し、再度皇太子とした。
長安5年[神龍元年]武后が老衰し病に倒れると、張柬之など重臣達は皇太子を押し立てて即位させ「唐」を復活させた。
しかし中宗はすでに韋氏のいいなりであり、韋氏は武一族の武三思を愛人としていた。
唐再興の重臣達を裏切り、ただ安穏を求めるだけの中宗は、武三思や妻韋氏・娘安楽公主の傀儡として漂うだけであった。やがてうすうす真相を感づいたが、妻や娘に毒殺された。
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皇嗣とは縁起が悪いが

2018-02-21 15:13:08 | Weblog
天皇退位後、秋篠宮が皇嗣になるという。
皇嗣というと、寡聞にして唐代の前例しか思い浮かばない。
弘道元年[683]十二月父高宗の崩御後に継承し、翌嗣聖元年正月に則天により廃位され[盧陵王に]た中宗のあと、相王旦が傀儡皇帝となったが、天授元年[690]則天の即位により格下げされてなったのが「皇嗣」である。
やがて盧陵王が呼び戻されて皇太子となり、旦は相王に格下げされた。
あまり吉例とは言えないが、識者といわれる方々はそれを理解した上で
命名されているのだろう。
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唐朝の皇太子 その5

2018-02-16 19:53:47 | Weblog
我が子よりも寵臣が大事な武后

雍王賢は武后の第二子で容貌がよく高宗に可愛がられ利發であった。
兄弘が殺された?後、上元2年5月に立太子された。
その後も高宗を助けて学問にも励んだが、武后が信任する道士明崇儼
と対立し、実の母親が武后の姉である韓國夫人ではないかと疑った。
永隆元年崇儼が暗殺されると、武后は太子を疑って高宗に迫り乱を企
てているとし、8月廃して庶人とした。
高宗はこれに逆らえなかった。
そして意志薄弱な英王哲を太子とした。
文明元年3月武后は丘神勣を指嗾して殺させた。
その後雍王に復し、睿宗時に贈章懷太子の号を贈られた。
三子は則天時代は軟禁拷問され、二子守禮のみが生き残り玄宗時に
邠王となった。
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唐朝の皇太子 その4

2018-02-13 09:43:43 | Weblog

④.我子でも毒殺した武后? 見ているだけの高宗

代王弘は武后の子であり、顯慶元年忠が廃された後の太子となった。極めて優秀で多くの業績[すべてが自作ではないと思うが]を上げた。軟弱だが好学の高宗にも気に入られていた。ところが不遇の異母姉達[武后が監禁していた]に同情したりしたため武后の不興をかい、上元2年4月24歳で亡くなった。

新唐書は 天后殺皇太子。
旧唐書は 皇太子弘薨于合璧宮之綺雲殿。
通鑑は 太子薨于合璧宮,時人以為天后鴆之也。[毒殺]と書いている。

ただ武后が上記の理由だけで我子を殺害したのかどうかは若干疑問である。武后への中傷の可能性もある。
高宗は惜しんで「孝敬皇帝」の号を贈った。
5月また武后の子賢を太子とした。 子孫はいない。
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唐朝の皇太子 その3

2018-02-12 10:36:45 | Weblog

③.意志薄弱な高宗が武后の為に廃した皇太子

陳王忠は高宗の長子であるが、王皇后が産んだ子ではない。身分の高くない劉氏の子だが王皇后の子として扱い、永徽三年に重臣団の推薦により皇太子に立てられた。高宗は四男の素節を好んでおり、太宗の女であった武氏とも密通し子をなしていたが、意志薄弱であり重臣の意向に逆らうことはできなかった。永徽六年武氏が王皇后を廃して成り代わると、太子忠の立場は弱くなり、顯慶元年廃されて梁王とされ、武后の子弘が代わって皇太子となった。顯慶五年には庶人とされ、麟德元年に殺された。
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唐朝の皇太子 その2

2018-02-11 10:44:49 | Weblog
②文治皇帝を気取った太宗に廃された遊牧民系太子の例から

常山王承乾は、泰[魏王]、治[高宗]とともに、太宗の正妻長孫皇后の子であり、14人の兄弟の長子である。
太宗が即位した、武徳9年10月中山郡王より皇太子となった。
父太宗に似て有能で武勇にあこがれ活動的であった。
しかし遊牧民としての遺伝が強く東宮での平穏な生活に退屈し、学問を好む一面もある太宗に迎合する魏王泰に反感を持ち、荒れた生活をすることも多かった。
取り巻きの家臣団も形成され、長い太宗の治政に飽き飽きしていたのは確かだが、乱を起こす意志や力はなかったもようだ。
太宗の不満に乗じた外戚長孫無忌は、重臣団とともにこれを廃位し、同時に有能すぎる魏王泰も排除して、人畜無害な晉王治[高宗]を擁立した。
太宗としては年長で隋王朝の系統楊氏の子呉王恪も考慮したようだが、外戚としての地位を失う無忌はこれをゆるさなかった。
無害なはずの高宗が武后の傀儡となって長孫家が没落したのはお笑いである。
承乾は庶人とされ、貞觀19年に卒した。恒山王を贈られ、子孫は皇族からはずれて臣下となった。
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唐朝の皇太子 その①

2018-02-10 14:55:03 | Weblog
唐朝は鮮卑の末裔が建国した非漢民族国家であり、遊牧民族[父子相続ではなく力のあるものが継承する]としての色彩が強く残っている。しかし漢民族の国制も継承するため皇太子制度を敷いたが、他王朝と違ってきわめて不安定なものであった。歴代の皇太子を例に上げてみよう。

①初代高祖では兄皇太子が弟に殺害され。弟=太宗が簒奪した例から。

高祖 隠太子建成
建成は世民[太宗]、玄霸[贈衛王]、元吉[齊王]とともに高祖の正妻である竇皇后の子であり、22人の兄弟の長子である。
高祖の京師制圧・唐建国に際して世子・皇太子となり、高祖を助けて活躍した。
弟世民[秦王=太宗]が薛仁杲・劉武周・竇建徳征討に大功をあげ、破格の恩賞[天策上将・太尉・尚書令]を受け、強大な勢力を築いたため不安定な立場となった。
しかし性格は温和で、家臣達の信望は厚く、劉黒闥や突厥との戦いでみせたように能力も高く、弟元吉を始め弟達からもよく慕われていた。
建成は既に皇太子であり、唐が安定するほど活躍の場がなくなる世民を圧倒することは確実であった。
焦った世民は武德9年6月に玄武門で襲撃し、元吉共に殺害し、高祖を脅迫し自立した。
そのとき建成の5子はすべて元吉4子とともに殺害された。
正史には太宗の立場に立って建成の非がいろいろ記述されているが信じるに足りない。
高祖は兄弟の不和には悩んだが、太子を廃する意志はなかった。
世民[太宗]はさすがに寝覚めがわるかったのか、即位後贈息王、贈隠太子とし、自分の子趙王福に継承させた。


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