この年、宗皇帝は侵攻を続ける吐蕃[チベット]との和約を図った。吐蕃の首領尚結賛は言葉巧みに和を持ちかけ、武臣の代表である河東副元帥馬燧はそれに応じた。もう一人の武臣代表である鳳翔副元帥李晟は吐蕃を信用できないと反対したが、政敵である宰相張延賞の暗躍により、兵権を奪われ大尉[名誉職]に祭り上げられた。閏六月、水で和約を結ぶことになり、副元帥渾かん※[たまへんに咸]が代表となって出席したが、吐蕃は盟を裏切り代表を捕らえようとした。渾かんはかろうじて逃れたが多くの将吏が死亡した。このため馬燧も失脚し、張延賞は失意のため亡くなり、吐蕃とは全面対決を続けることとなった。こののちも吐蕃の侵攻は続いたが、唐側の防衛体制が整っていき被害は小さくなっていった。この事件は唐側に根強い吐蕃不信を与えることになった。