唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和四年(809年.大同三年)

2006-10-28 11:17:42 | Weblog
三月成徳節度使王士眞が亡くなった。憲宗は恒例となっていた世襲をゆるさず、王承宗に圧力を加えた。そのため承宗は成徳節度使の領州六のうち、徳・棣二州を献上することで認可を求めた。憲宗もそれをゆるしたのだが、承宗は違約して二州を渡さなかった。
そのため十月成徳討伐が宣言されたが、主将は意外にも宦官吐突承璀であり、世論[といっても官僚の世界だけであるが]は沸騰した。
十一月には札付きの淮西節度使呉少誠が死亡し、部将呉少陽が少誠の子を殺して自立した。少陽は反抗姿勢をすこしゆるめ、憲宗は成徳討伐中でもあり一応就任を認めた。

元和三年(808年.大同二年)

2006-10-28 08:27:12 | Weblog
嶺南の黄洞蠻の平定はさらに進んだ。
九月自立傾向であった山東節度使于頔が入朝し名誉宰相の司空になった。
六月には勇猛な蛮族沙陀[後唐建国の李克用の祖先にあたる]族が吐蕃から離れて帰服して朔方軍に配属された。臨城の築城もあり対吐蕃に関しては十分な防禦体制が確立された。
内政においては軍費集積のために地方官の進奉が奨励され、民衆の生活は苦しくなっていった。