回紇和約 その2 [李泌の策]
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德宗は「陝州の事、泌の言う通りかな」と重臣李晟や馬燧に問うた。
両大臣は「臣らもそのように思います」と答えた。
泌「すでに回紇は陛下に恥をかかせた可汗を殺し、新可汗が立っています。情勢は一新しているのです。今吐蕃の害は回紇に数倍です」
德宗「そうは言っても回紇との和は困難であろう」
泌「回紇が臣と称し、使節の数を制限し、漢人を拉致せず、吐蕃に共同して対抗するという条件で交渉したいと考えています
「そんな条件を回紇が呑むとは思えない、特に臣と称するとは」
「この条件なら陛下はお許しくださいますか?」
「それができるなら朕には異存がない」
回紇は西域諸国と唐の仲立ちをし交易の利を得ていたが、当時唐とは対立し経済的困難を抱えていた。内部には親唐派と反唐派はあったが、現可汗は親唐派に擁立され一刻も早い交易再開を望んでいた。
そこで可汗は遣使して「兒及臣」と称し,泌の条件を全て吞んだ。
「こんな事が実現するとはな」と德宗は大いに驚いた。
德宗は可汗に咸安公主を降嫁させ同盟を強化し、回紇は多くの馬を供給してきた。
唐と回紇が同盟をすると吐蕃は警戒し侵攻をやめた。
さらに雲南蠻との和約を進めたため、京師は安全になっていった。
-------背景----------
回紇も初期は純朴で質実であったが、唐からの貢納を得、西域の貿易の利が入るようになると宮殿を築き官僚体制も敷き豪奢な生活を送るようになっていった。
唐に対しては功を誇って傲慢で、その使者達は押し買い・豪奪をくり返していたが、代宗は姑息で宥和するばかりであった。
德宗は強硬策に出たため、幽州朱滔とともに侵攻することがあったが、吐蕃とは西域の交易を争う仇敵関係にあるうえ、唐との交易が立たれると経済的に困難となってしまった。
そこで一刻も早い唐との交易再開を願い妥協的姿勢に転じてきた。
唐は回紇と連合することにより、吐蕃が關内侵攻をすれば挟撃できるようになった。
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