唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

朔方節度使 その7

2012-05-31 17:29:31 | Weblog
・渾瑊は河中節度使として朔方・邠寧・鄜坊を副元帥として統括した。朔方節度使としては杜希全が入った・
・貞元3年[787年]には希全は夏綏を吐蕃から回復しようとし夏綏銀鹽等州節度使を分置した。
・邠寧・原などの対吐蕃京師防禦が完成してくると、外邊部の朔方の重要性は低下していった。
・任命される節度使は范希朝-王-李光進-杜叔良-李聴-李進誠と神策系の武官が続き蕃族を管理する立場であった。
・咸通年間[861-873年]に入るとその位置の低下からか将帥の交替時期が不明瞭となってきた。
・廣明-中和年間[880-884年]、残存した軍は京師回復に動員され。現地蕃族を中心とした現地軍となっていき、
光啓年間[885-887年]以降は韓氏一族の私領として五代へ継承されていくことになる。
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朔方節度使 その6

2012-05-27 16:23:44 | Weblog
・建中元年[780年]宰相楊炎は原段秀實を司農卿に左遷し、李懷光に兼任させたが、
將士はその厳格を懼れて拒否し劉文喜を擁立した。唐朝は鳳翔朱に節度使を代えて討伐させた。
・建中2年崔寧は右僕射に転じ、懷光が河中・邠寧・朔方を統括し、3年5月田・朱滔・
王武俊の河北連合軍の征討に向かったが、6月連篋山に敗北した。
・建中4年10月原姚令言が反し、朱とともに奉天城に宗皇帝を包囲した。
東征中の懷光は回軍し、長駆して11月魯店に軍を破り皇帝を救った。
・懷光の功績は極めて大きかったが、朝政に容喙し、皇帝の信任が厚かった宰相盧杞を糾弾
したため、敬遠されるようになった。
・懷光もまた不満をつのらせ、興元元年[784年]2月叛し、皇帝は興元府に逃れた。
しかし懷光は本心は叛を望まず、配下も動揺したので京師を占拠していたとも連携せず、本
拠出ある河中に戻った。
・唐朝は懷光配下の諸将を分断して李晟・渾瑊・馬燧らに附け、懷光を河中に孤立させた。
・貞元元年[785年]8月懷光は河中で誅され、朔方軍の主流は渾瑊が引き継いだ。
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記載予定

2012-05-27 11:31:09 | Weblog
このあと永平[義成.宣義]-浙東[鎭東]-東川-桂管[靜江]-忠武-泰寧[兗海]-宣歙[寧國]-横海[義昌]-邕管[嶺西]-振武-江西[鎭南]-鄜坊[保大]-福建[威武]-容管-夏綏[定難]-鎭国[華州]-天徳[豐州]-鄂岳[武昌]と続きます。
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朔方節度使 その5

2012-05-26 23:04:05 | Weblog
・大暦年間[766-779年]郭子儀は朔方軍主力を河中府に置き、旧安禄山配下の河北藩鎭を牽制したが、
吐蕃の侵攻には都合が悪かった。そのため大暦三年[年]邠寧馬璘を原に移して、
邠寧を直轄化して有力諸将を置き、鳳翔李抱玉と連携して防禦にあたることとした。
・子儀は邠州・京師・河中を移動しながら統治し、配下諸軍に絶対的位置を保ったが、
唐朝に対しては恭順を誓い、宦官勢力につけこむ隙をみせなかった。
・大暦14年[779年]宗皇帝が即位すると、閏5月さすがに老衰してきた子儀より平和的に軍權を回収し、
配下の李懷光・渾瑊・常謙光達に分割して分与した。
・後継の中心は厳格な靺鞨人李懷光であり子儀旧將達には不満が生じたが、懷光は9月これを誅した。
・11月には西川節度使より入朝した崔寧を京畿・朔方節度使として優遇した[懷光には河中を与えた]
が、名目だけであり旧朔方諸将が留後として分立していた。
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朔方節度使 その4

2012-05-25 09:52:03 | Weblog
・元年9月[762年]回紇の大軍が南下し、その助力を得た唐軍は僕固懷恩に率いられ河南・東都を
奪還、史朝義は廣元年[763年]正月に殺され、配下の諸将も歸順した。懷恩は副元帥に任ぜられた。
・しかし懷恩は10月宦官程元振の讒言により逐われて反乱に追い込まれた。朔方軍の東征による間隙
を突き、吐蕃・回紇等は隴右諸州を奪い、關内に侵攻し京師を落とした。代宗皇帝は華州に奔った。
・李光弼を始めとして有力諸将は宦官勢力を嫌い来援せず、苦境に立った代宗は子儀を關内副元帥に
任じた。軍權を失っていたため兵力を確保できない子儀は舊知の回紇を味方につけて吐蕃を撃退し
京師を回復した。
・懷恩の反乱も、子儀の登用により旧部下の朔方軍の將士が帰順し大事にはいたらず、宦官元振が追放
されたこともあり、子儀は朔方・關内・河東[河中のこと、太原の河東軍ではない]の
副元帥を兼ねて勢力が確立した。
・以降唐朝の軍人は、朔方軍系[郭子儀・李光弼]・平盧軍系[侯希逸・李忠臣・李正己]・范陽軍系
[田承嗣・李寶臣・朱希彩]が主要な流れになる。
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朔方節度使 その3

2012-05-24 22:55:59 | Weblog
・乾元元年[758年]9月子儀等諸軍は敗走する安慶緒を相州に包囲したが、無能な肅宗皇帝は宦官に操られ
統一した指揮を誰にも委ねず、しかも幽州で帰順した史思明を挑発するという愚を犯した。史思明は4月
に反し、11月魏州に南下して唐軍を破り、2年3月には滏水で全軍潰滅し、東都もまた失われた。
・6月には邠寧節度使[邠寧慶鄜坊丹延原九州]が朔方より分離された。
・7月には宦官魚朝恩の策動により副元帥は子儀から李光弼に代えられ。兵権のほとんどを奪われた。
・上元元年正月邠寧は邠寧・鄜坊の二道に分けられ、子儀は名目的に両節度使とされた。
・朔方軍は乾元二年~上元2年[761年]光弼の指揮[僕固懷恩を前線指揮官として]のもとに戦った。
・寶應元年[762年]建卯月河中絳州に屯していた朔方軍等は反乱し都統李國貞を殺した。河東軍もまた反し、
前線が崩壊する危機が生じた。子儀が急遽副元帥として登用され、旧部下達を鎮撫して帰順させたが、
危機が収まると宦官李輔國の蠢動により4月解任された。
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朔方節度使 その2

2012-05-23 11:27:44 | Weblog
・開元2年[714年]に安北大都護府に設定された朔方総管府が、
開元9年[721年]に單于大都護府に朔方節度使として移された。
・突厥・回紇などに対して關内地方を防禦する役割をもっている。
・天寶14年[755年]安禄山の反乱に際して朔方軍は郭子儀が節度使となり、將李光弼を河東
[安禄山の管轄下ではあるが、直轄地ではない]に派してこれを確保させ、
15年6月来寇した賊將史思明を嘉山に大破した。
・同じく6月禄山によって京師を逐われた玄宗皇帝から別れ、皇太子[後の肅宗]はわずか
な兵をつれて朔方をめざした。有力藩鎭のうち、平盧・范陽は禄山下、河東は潰乱、
隴右・河西兵は潼関での哥舒翰の敗北により潰滅。劍南は雲南との敗戦により弱体というこ
とから、頼みになるのは朔方軍だけしかなかった。
・朔方軍所属の文官は好機と見て皇太子を迎え、7月これを擁立して肅宗皇帝とした。
子儀・光弼も引き返し京師回復をめざすようになった。
・至徳二年[757年]2月子儀は河中府を回復し、光弼は河東で賊將蔡希を破った、
4月子儀は司空副元帥となったが、5月賊將安守忠に清渠で大敗した。
・9月子儀は回紇の騎兵軍の応援を得て京師を回復し、10月東都も回復した。
12月子儀は司徒に、光弼は司空となった。
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河陽節度使 その4

2012-05-22 10:04:05 | Weblog
・光啓2年[886年]10月爽は卒し、配下の部将達は子の仲方を擁立したがすぐお互い争い始めた。
・12月黄巣の後継秦宗權の部将孫儒が河陽を制圧し、仲方は奔った。
・光啓3年儒は河陽を棄て、爽の將李罕之が入るが、文徳元年[888年]仲間の東都張全義に逐われた。
・罕之は河東李克用の支援を得て回復を志し、窮した全義は朱全忠に頼り、河陽を全忠將丁會に渡した。
・その後河陽は全忠勢力下となり、留後が交替していったが、全義や會がなることが多かった。
・光化元年[898年]には李罕之、3年には孟遷、天祐4年[907年]には王師範と帰降した将帥の名目的
な就任があったが実質は會のもとにあった。
・澤潞二州は克用・全忠の最前線として転々と帰属が変わるが、河陽は継続的に全忠の拠点として維持された。

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河陽節度使 その3

2012-05-21 10:41:13 | Weblog
・元和15年[820年]魏博田弘正が成徳に移鎭し、その子布が河陽節度使となり、魏博の抑えとした。
・その後、太和年間[827-835]に横海李同捷征討などに従事した。
・開成2年[837年]節度使李泳[長安の商人で買官により就任]の貪殘不法に抗して軍乱が起こった。
・その後李執方-王茂元-王宰と神策系の軍人が赴任した。
・會昌3年[843年]昭義劉稹征討の根拠地として、汝州から孟州[旧河陽.東都のうち五縣を分離]に移治した。
・劉沔-石雄という部将のあと、中級文官の赴任地となっていった。
・廣明元年[880年]黄巣の侵攻時、その別軍が將諸葛爽を降し、爽は河陽を制圧した。
・しかし中和元年[881年]爽は唐朝に帰順するが、中和2年勢力拡大を図る魏博韓簡が侵攻し逐われた。
・中和3年[883年]爽は、天平攻略にてこずっている簡を襲い武陟にこれを破り孟州を回復した。
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河陽節度使 その2

2012-05-08 09:06:55 | Weblog
・河陽節度使は隣鎭の昭義節度との関係が強く、昭義との交流がよくみられる。
・貞元年間[785-804年]には事がおこらなかったが、元和5年[810年]昭義将鳥重胤が節度使
となり、憲宗皇帝の成徳・淮西征討に積極的に従った。
・元和9年[814年]魏博田弘正が唐朝に帰順し、成徳王承宗が牽制できるようになったことと、
弘正への信頼をあらわす意味で河陽節度を黄河北の懷州より、南の汝州に移し淮西対策に主眼
を置くようにした。
・その後重胤は忠武李光顔と協力して淮西呉元濟の主力と小溵河・淩雲柵・賈店で戦った。
・元和12年[817年]李愬が奇襲によって淮西を陥し、重胤は元和13年[818年]承宗が帰服
して献じた徳棣二州を含む横海節度使に転じた。しかし牙軍は移鎭を喜ばず潰走するものが多
かったが、後任の文官令狐楚はこれを慰撫してよく治めた。
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河陽節度使 その1

2012-05-07 10:32:39 | Weblog
・河陽は黄河の渡河点であり、河北から東都・汴州を防衛する重要拠点であり両岸等に三城が築城
され舟橋が設置されていた。
・安史の乱においても河陽において激戦がおこなわれ、懷州に鎮西四鎭行営節度使[李嗣業-茘非元禮]
が屯していた。
・乱後は澤潞節度使[李抱玉]に属し李抱愼が留後となっていた。
・大暦6年[771年]常休明が河陽三城使となったが、大暦10年[775年]にはその苛政と魏博田承嗣に唆さ
れた乱兵により逐われた。
・その後馬燧が入り汴宋李靈耀の乱の鎮定に活躍し、大暦14年[779年]には河東節度使に昇進した。
後は李芃が嗣いだ。
・建中二年[781年]東都より五縣を割き、懷州と併せて河陽三城節度使[號懷衛節度使]を置き芃
が引き続き統治した。
・芃は成徳李惟岳・魏博田征討などに活躍し貞元元年[785年]に卒した。
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鳳翔隴右節度使 その5

2012-05-06 11:04:55 | Weblog
・克用が去ると茂貞は再び反し、乾寧3年[896年]京師侵攻し簡単に禁軍は潰滅し昭宗皇帝
は河東へ逃れようとしたが、鎭国韓建の誘いに乗って華州に入った。
・乾寧4年[897年]嗣覃王嗣周指揮下の禁軍が鳳翔を伐ったが敗北した。
・光化元年[898年]茂貞は継戦が建のみを利することに気づき、京師に昭宗皇帝を戻した。
・光化二年[899年]頃には原・邠寧・鄜坊・山西・武定など關内や山西諸鎭の大半を支配
するようになった。
・茂貞は唐朝の宦官勢力と連携し、宰相崔胤と対立した。胤は天復元年[年]朱全忠の来援を求めた。
・茂貞は11月昭宗皇帝を鳳翔に移した。全忠は鳳翔を攻囲し、茂貞は敗北を重ねた。
・天復2年[902年]に入っても敗北は続き、西川王建に山西諸鎭を奪われ、来援した邠寧李繼徽・
鄜坊李茂勲も敗れ降った。
・天復3年[903年]昭宗皇帝を全忠に引き渡し和を請うた。その後昭宗皇帝は洛陽に移され茂貞
の策動できる余地はなくなった。
・茂貞は岐王を名乗り、蜀の王建の支援を得て全忠の勢力と対峙したが劣勢であった。
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鳳翔隴右節度使 その4

2012-05-05 20:46:58 | Weblog
・邠寧と共に京師に近い大藩である鳳翔を得た茂貞は朝政に介入し、景福元年[892年]
には失脚し山西に逃れた宦官楊復恭を伐つこと志願した。もちろん勢力拡大のためであり、
唐朝はなかなかゆるさなかったが強行した。
・11月には興元を陥し山西各州を勝手に勢力下とした。
・そのため景福二年[893年]唐朝は茂貞を山西・武定節度使に転任させ、宰相徐彦若を
赴任させたが討伐軍はもろくも潰滅した。そして宰相杜譲能を殺して既得権を認めさせた。
・乾寧元年[894年]にも茂貞は京師に侵攻
・乾寧二年[895年]5月にも邠寧王行瑜・鎭国韓建とともに侵攻し宰相韋昭度を殺した
そのため昭宗皇帝は河東李克用に頼った。
・7月克用は大挙侵攻し、韓建は降り、行瑜は敗北し誅された。茂貞はひたすら謝罪して
赦免を受けた。克用は茂貞を伐つことを求めたが昭宗皇帝は勢力均衡を図って残すこととした。

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鳳翔隴右節度使 その3

2012-05-04 12:18:38 | Weblog
・中和元年[881年]畋は黄巣軍を龍尾坡に破り、朔方・原・秦成等の諸軍を糾合したが、
10月將李昌言により逐われた。唐朝は昌言の自立を認めざる得なかった。
・昌言は中和四年[884年]卒し、弟昌符が嗣いだ。
・光啓元年[885年]田令孜の命に従い河中王重榮を攻めたが、来援した河東李克用に敗北した。
反って朱玫とともに令孜を攻めて興元に逐った。ところが玫が新帝を擁立し専権を振るうと、
僖宗皇帝[楊復恭]に通じた。
・光啓三年[887年]京師は回復したが荒廃しているため、僖宗皇帝は鳳翔に滞在した。
・ところが6月禁軍と昌符が争い、昌符は敗走して隴州に逃れたが、禁軍を率いる李茂貞に敗れ殺された。
・8月茂貞が鳳翔隴右節度使となった。
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鳳翔隴右節度使 その2

2012-05-03 10:09:24 | Weblog
・朝廷の方針は対吐蕃対策で、強硬策を唱える李晟と、和平を重んじる河東馬燧+宰相張延賞が対立し、
貞元三年[787年]3月晟はすべての軍権を奪われ太尉に祭り上げられた。後任は部下の邢君牙である。
・ところが6月水の會盟で吐蕃は約を破ったために、馬燧も失脚した。吐蕃は連年侵攻を繰り返し、
唐朝はその対策に追われることになった。
・君牙は貞元14年[798年]に卒するまで在任し、その後も神策系の武将の赴任地となっていた。
・太和末-開成年間[836-840]以降は吐蕃が衰亡したため高級文官も赴任するようになってきたが
武将中心であった。
・大中-咸通年間[847-874]に入ると文官の短期交替が多くなりも宰相経験者の赴任も多くなっていった。
・廣明元年[880年]黄巣が京師迫る時、宰相鄭畋が節度使として赴任し、京師陥落後は潰滅した
神策諸軍を糾合して京師回復のための中心となった。


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