唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

幽州 陳行泰等の軍乱

2023-01-31 08:45:56 | Weblog
大和8年楊志誠を逐って自立した史元忠ですが、牙軍を統率できなかったようで

會昌元年9月
幽州軍が亂し、節度使史元忠を[旧唐書]逐う/[新唐書.通鑑]殺すと混乱しています。首謀者は牙將陳行泰です。元忠は親唐朝派であったようで、朝廷は行泰の継承をすぐには認めません。

會昌元年閏9月
再び軍乱が起き、牙將張絳が行泰を殺し自立します。宰相李徳裕は現地が混乱している状況を察し、継承を慎重にするよう提案しました。

會昌元年10月
再度軍乱が起き、絳は逐われ、雄武軍使張仲武が幽州に入り自立しました。絳と仲武は事前に連絡があったようですが、乱後に仲間割れしたようです。仲武は衆心を得ており、宰相德裕との事前了解もあったのですぐ留後に任ぜられました。そして親唐朝派として対回紇対策に協力しました。
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幽州軍乱 楊志誠逐われる

2023-01-30 08:21:47 | Weblog
幽州節度使李載義を逐って自立した楊志誠ですが、節度使となった後も反唐朝姿勢を取り、与えられた官爵に不平を言い、使節を抑留したりしていました。

大和8年9/10月
幽州節度使楊志誠と監軍李懷仵は牙軍に逐われ、將史元忠が自立しました。原因はよくわかりません。
志誠は京師へ遁走しました。

志誠一行は河東太原を通過しましたが、朝廷優遇され河東節度使となっていた前使李載義に襲撃され、本人は助命されましたが、妻子や從っていた將士は殺されました。
専殺ということになりますが朝廷は載義の功を考えて不問にしました。
載義は逐われたことや、母兄の墓を暴かれた恨みがあり、志誠を殺す事をあくまで願いました。

大和8年11月
京師で志誠は糾問され、史元忠の告発により、節度使時代に皇帝を真似ていたことから流罪となり、途次殺されました。

大和8年12月
通王を幽州盧龍節度使とし、權勾當幽州兵馬史元忠を留後とし、やがて節度使に昇任させました。
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永王璘の乱

2023-01-29 08:16:24 | Weblog
玄宗の子永王璘は幼くして母を失い、哀れんだ兄の肅宗皇帝に愛育されていました。好学でしたが容貌は冴えませんでした。安史の乱が発生しました。

至徳元年7月
諸王が各地に分遣され、璘は領荊州大都督領山南、江西、嶺南、黔中四道節度使となりました。それまで諸王は実任にはつかず京師の「十王宅」に常住していましたが、始めて地方に赴任したわけです。

世間知らずの璘は荊南江陵に至り、江淮の租賦が山積しているのを見て舞い上がり、薛鏐、李台卿、韋子春、劉巨鱗などの軽薄な取り巻きの指嗾に乗って江淮で自立しようと思い立ちました。

至德元年11/12月
そして舟師を東下させ、渾惟明、季廣琛、高仙琦を將として淮南揚州を取ろうとし、採訪使李成式を攻めました。

吳郡採訪使李希言は將元景曜・李承慶・丹徒太守閻敬之・を派遣しましたが、璘軍將渾惟明に敗れ、敬之は敗死し、景曜、承慶は降りました。

淮南節度使高適・淮西節度使來瑱・江東節度使韋陟が安陸に合し璘を伐つことを誓いました。

至徳2年正月
璘は鄱陽郡を陥しました。

至德2年2月
河北招討判官李銑は、成式將裴戎・李承慶と伊婁埭に迎撃しました。
本格的な軍容をみて、璘將渾惟明、季廣琛、馮季康は動揺し投降しました。
李銑は新豐に璘軍を破り、璘は鄱陽へ奔りましたが、江西采訪使皇甫侁に殺されました。

ところが肅宗は「皇族ため璘を濫りに殺した」と侁を批判したとのことです。
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幽州 楊志誠の乱

2023-01-28 08:08:06 | Weblog
幽州節度使李載義は親唐朝姿勢を貫いていましたが、それに不満な河北勢力も根強く存在していました。載義は本来外来の家系で幽州軍内の

大和5年正月
球場後院での宴会で副兵馬使楊志誠と一党が反乱し、載義と子正元は易州に奔りました。志誠は載義姻戚莫州刺史張慶初を殺しました。あまりにもろい状況ですが、反唐朝グループが強かったとも言えます。

藩鎭不干渉の政策をとる宰相牛僧孺はなんの動きもみせず、志誠の自立を認めました。
しかし入朝した親唐朝姿勢の載義を太保同平章事として遇し、まもなく山西節度使を与えました。

継承を認められた志誠ですが、反唐朝姿勢を示しました。
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幽州 李載義の乱

2023-01-27 08:45:05 | Weblog
幽州朱克融は自立して節度使になったが、その統治は暴虐で不安定で、その政治姿勢も成德王廷湊に追随するだけでした。

寶暦2年5月
幽州で軍乱が起こり、克融と子延齡が殺され、第二子延嗣が擁立されました。

寶暦2年9月
延嗣は暴虐であったため、都知兵馬使李再義と弟再寧が乱し、延嗣と家屬三百余人を殺し自立しました。再義は劉總に登用され親唐朝分子であったようです。

寶暦2年10月
再義はたちまち節度使に任ぜられ、「載義」と賜名されました。載義達と唐朝は連絡があったようです。

その後奴隷化されていた張弘靖幕僚の家属を返還したり、横海李同捷征討に協力するなど親唐朝姿勢を貫いていました。
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山西・興元の軍乱

2023-01-26 08:52:51 | Weblog
李絳は憲宗時代の謀臣・宰相で功績がありました。以降は凡帝が続き、高官を歴任しましたがさしたる業績はありません。大和3年正月太常卿より山西節度使に転じました。

劍南西川節度使杜元穎の失政により南詔蠻が入寇し成都を陥す事態になり、朝廷は神策軍を派遣し、山西軍も動員されました。

大和4年2月
山西軍は少ないため新兵千人を動員しましたが、西川の寇は早期に収まったため、手当を与えて解雇することになりました。ところが絳と不仲の監軍楊叔元は手当をろくに与えません。新軍兵は怒って乱し倉庫を荒らして使府に突入し、絳や幕僚趙存約・薛齊等を殺し、絳の家族も殺しました。

叔元は絳の失態であると上奏しましたが、諌官達は弾劾しました。

尚書右丞温造が山南西道節度使となり鎮定に向かいました。

大和4年3月
造は褒城に至り、西川からの歸途にあった山西都將衛志忠の兵と会し、興元府に入りました。
そして新軍兵800を集め志忠兵に包囲させて悉く殺しました。
叔元は康州に流罪となりました。
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宣宗皇帝崩御後の変

2023-01-25 08:48:21 | Weblog
宣宗皇帝は宦官の擁立により即位したにもかかわらず、その治政への熱心さと、ボス宦官不在のため、宦官の政治関与を抑制していました。しかし皇太子については、三男夔王滋を立てたい思いと、長男鄆王温を排除する理由がないことから躊躇したたま重病となりました。

大中13年8月
宣宗派の宦官樞密使王歸長や馬公儒等は、右軍中尉王茂玄と図って、夔王滋を擁立しようとしましたが、同意しないであろう左軍中尉王宗實を排除するため、宣宗がすでに逝去しているにもかかわらず、淮南監軍への移動命令を出しました。

宗實は命に従い赴任しようとしましたが、副使亓元實に止められ入内し、宣宗が既に崩御していることを知りました。そして王歸長・馬公儒の行為を責め、長子である鄆王を擁立しました。
そして歸長、公儒等をみな殺しました。夔王は殺されていません。

もはや皇帝擁立が宦官達の勢力関係により、宰相がなんの関与もできない状態になっています。
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敬宗皇帝の殺害

2023-01-24 08:21:19 | Weblog
18歳の敬宗皇帝は低能の不良少年で、ポロ競技やレスリングに熱中し、朝禮政務にはなんの関心もありませんでした。宰相李逢吉達はその馬鹿さ加減に手を焼きながらも、自分達で政治を行えるため放置していました。禁軍や諸道方鎭は競技選手や力士を献上してご機嫌うかがいをし、敬宗はお気に入りの力士達に莫大な賞賜を与えたり、一転して鞭打ち・流罪にしたりとやりたい放題でした。特に宦官達はそのムラ気を懼れていました。

寶暦2年12月
敬宗は遊びから帰り、宦官劉克明、田務成、許文端やポロ選手・力士と宴会をしていました。そして便所で劉克明等に殺害されました。

克明等は翰林學士路隋に遺制を書かせ、憲宗六子の絳王悟を擁立しました。

事態を知った宦官主流の樞密使王守澄・楊承和、中尉魏從簡・梁守謙は神策軍を動員して絳王悟、克明等を殺害しました。そして翰林学士韋處厚の提言に従い皇太后の令で謹厳な穆宗次男の江王[文宗]を擁立しました。

残った敬宗側近や力士等を流罪にしました。
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文宗皇帝崩御後の変

2023-01-23 08:24:15 | Weblog
大和9年の甘露の変以降、文宗皇帝は傀儡となって、宦官勢力が全権をにぎったという記述がありますが、それほどではなく、昭義劉従諫の恫喝や一部官僚勢力の抵抗を背景として、官僚派と宦官派がせめぎあっていた状況でした。

開成3年宦官達に堕落させられた自子の皇太子永が卒したあと、文宗は幼少の敬宗六男の陳王成美を皇太子としました。

開成5年正月
文宗皇帝が崩御すると、宰相李玨や文宗派の宦官知樞密劉弘逸は皇太子を即位させようとしますが、文宗を憎んでいた神策軍中尉仇士良、魚弘志等は挙兵し懿宗の子穎王瀍[武宗]を皇太弟として擁立し、皇太子や安王溶、賢妃楊氏を殺害して即位させました。

安王は文宗の寵姫楊氏の子で立太子を図り宰相等に阻止されていたのです。

穆宗以降、宦官が皇帝を擁立する傾向がありましたが、文宗以降ははっきりと宦官による擁立が当然となりました。以降皇太子制度は形骸化します。
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宰相 元載の変

2023-01-22 08:33:53 | Weblog
理財に長けた元載は宦官李輔國に取り入り宰相となり、その後禁軍を支配する宦官魚朝恩と、河中朔方軍を支配する郭子儀と三頭政治で唐朝を支えてきました。大暦5年魚朝恩を排除し中央の権限を独占するとますます専横となり、莫大な賄賂をかきあつめていました。代宗皇帝は次ぎに実権回収を図りましたが、もうひとりの宰相王縉も載党で官僚人事を握り、禁中は宦官董秀に掌握させている載にどうにもできませんでした。

大暦12年3月
代宗皇帝は信頼できる舅の左金吾大將軍吳湊を京兆尹に任じ、警察権を掌握して載・縉・秀を逮捕させ、載と秀を誅殺し、縉を左遷しました。莫大な収賄物が摘発されました。

大曆12年4月
清廉な楊綰・常衮を宰相とし、代宗皇帝は即位して15年で初めて実権を握ることができました。

大曆12年5月
代宗の怨みは強く、元載の祖先の墓・家廟を破壊し、側近卓英倩等を殺しました。
弟英璘は金州で乱しましたが、刺史孫道平が平定しました。

附.元載の勢威についての話
地方方鎭・官僚からの貢物は載を第一とし、代宗を第二としていました。
載の末の一族で官を求めて地方から京師にでてきた某がいました。
まったく才能がなかったのか、載に放置され持ってきた財物が尽きてしまいました。
某は載の子に泣きつき、子は載にとりなしましたが、
「あの無能さではなあ、まともな官は務められないだろう」という返事でした。
それでもと願うと、「幽州節度への使いにでもするか」とし手紙をわたされたそうです。
某は不満でしたが、泣く泣く幽州に赴きましたが、使いの主旨を聞かされておらず不安でした。
そこで密かに手紙を開けてみると、白紙が数枚で、末尾に載の自署があるだけでした。
某は当惑しましたが、どうする才能もないため、怯えながら幽州府につきました。
府では載の使いということで丁重に扱われ、幹部官僚に手紙が渡ります。
節度使や幹部達も手紙を見て当惑しました。
「これはどういうことだ?」「載殿の自署は間違いないが」
府には暴かれたくない秘密が多々あります。「どの件だろう」「あれなら大変だが」・・
結論は「白紙ということは、贈賄したらなにもなかったことにするということ」となりました。
戦々恐々と待つ某に、載への莫大な貢ぎ物が渡され、某へも多くの物が渡されました。
復命した某は財を持って郷里にもどったそうです。
元載の権威がいかに強かったかがわかります。
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魏博 何進滔の乱

2023-01-21 08:40:41 | Weblog
魏博節度使史憲誠は半朝廷派で、いやいやながら自立した横海李同捷の征討に加わっていました。
息子の唐[孝章]は名の通り朝廷べったりで、風見鶏的な父を諫言し朝廷に従わせていたからです。

大和2年3月
史憲誠は子の副大使唐と都知兵馬使亓志紹に兵二萬五千を率いさせ德州[李同捷]を討たせました。唐の強請によるものです。

大和2年7/8月
魏博軍は平原を攻め、武寧王智興は棣州を陥します。さすがに同捷と成徳王廷湊は危機感を感じ、亓志紹を裏切らせるよう働きかけました。

太和2年12月
行營都知兵馬使亓志紹は所部二萬人と謀叛し、魏州を襲い史憲誠父子を殺して自立しようとしました。

太和3年正月
憲誠は救援を求め、朝廷軍の義成李聽等は志紹軍を破り、志紹は成徳へ逃亡しました。

鎮定はできたとはいえ、魏博牙軍はすぐ乱を起こし、憲誠の地位は不安定なのままでした。すっかり嫌になった憲誠は朝廷に節度使を返上しようとしました。

太和3年6月
憲誠は河中節度使へ、魏博節度は分割され魏博は義成節度使李聽が、相衛澶三州は分離され史孝章が節度使となることが発令されました。

これを知った牙軍は怒り、李聽がなかなか赴任しないのに乗じて憲誠を殺害し、魏博衙内都知兵馬使何進韜を擁立しました。

太和3年7月
進韜達は魏博の分割を認めず、李聽を迎撃し大破しました。聽は遁走し昭義軍に救助されました。

太和3年8月
同捷の乱を平定したばかりの朝廷は余力なく、進滔を魏博節度使とし、相衛澶三州を戻しました。
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魏博 史憲誠の乱

2023-01-20 21:39:56 | Weblog
魏博節度使であった田弘正は、王承宗の没後対立関係であった成德節度使に転じました。当然危険な状況であったので魏博兵二千を身辺警護として引率して赴任したのですが、朝廷はその経費を惜しんだため帰還し、王廷湊らの乱により弘正は殺害されてしまいました。
当時の魏博節度使は淮西吳元濟を滅ぼした名将李愬でしたが、既に重病で成德征討にはあたれません。

長慶元年8月
そこで朝廷は弘正の子涇原節度史田布を魏博節度使として伐たせようとしました。忠誠心の厚い布は急遽赴任して全軍三万を動員して南宮に出鎭し王廷湊を討とうとしました。

しかし魏博牙軍は札付きの軍であり、いままで多くの褒賞により甘やかされており、田弘正や李愬にとっても扱いにくい連中でした。しかも朝廷は経費を出し惜しみ褒賞どころか、軍費ですら当面自弁させようという姿勢でした。

長慶2年正月
奚出身の先鋒兵馬使史憲誠は軍中の不満を悟り、煽動して乱を起こし、大半の軍を率いて勝手に自立し、残された布はどうすることもてきず、中軍とともに魏州に戻り諸将を説得しましたがならず自殺しました。

憲誠は布の死を知り、牙軍を説得し擁立させました。

やむをえず朝廷は史憲誠を後任の魏博節度使としました。
王廷湊や朱克融を征討するどころではなく、憲宗皇帝の河北回復は、穆宗皇帝の失政により二年で崩壊してしまいました。

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山東 梁崇義の乱①②

2023-01-18 08:57:11 | Weblog
簡単に動揺する皇帝によって山東節度使來瑱は、転任・復任・昇進とそれぞれ異例の意味の解らない待遇を受け、結局、賄賂を断られた宦官程元振の誣告により、寶應2年正月殺されてしまいました。軍人達は朝廷に不信感をいだきましたが、もっとも衝撃をうけたのは山東軍です。來瑱は山東の將士の人望が厚かったのです。

寶應2年閏正月
山東將梁崇義は羽林軍より來瑱に従い山東にうつり右兵馬使となっていました。崇義は武勇に優れ衆心を得て鄧州に鎮していましたが報を聞くと襄州に入りました。
瑱の死で山東軍は統制が乱れ、行軍司馬龐充は追い払われ、左兵馬使李昭、副使薛南陽と崇義が争い、結果として衆心が集まった崇義が立ち、昭・南陽は殺されました。
崇義の自立を聞いても、朝廷は伐つこともできず追認するしかありませんでした。

寶應二年三月
崇義は襄州刺史山南東道節度使となりました。瑱を敬愛する崇義は収葬し祠を立て、正堂に像を置きました。
崇義は貢賦を収めず、官吏を自補し、半独立体制をとりました。


山東 梁崇義の乱②

山東節度使梁崇義は襄、鄧、均、房、復、郢六州で自立し淄青・河北三鎮と結んでいましたが、他とは離れ、勢力も弱いため露骨な反唐姿勢はとりませんでした。

建中2年3/4月
德宗皇帝は崇義に入朝を求めました。入朝して殺された來瑱の例もあり懼れていました。また平章事として使相となるのも來瑱と同じです。使者も涇原で乱した劉文喜を陥れた李舟でした。

隣接の淮西節度使李希烈は活躍の機会を求め、山東を併呑しようと崇義討伐を盛んに求めていました。

朝廷は崇義の勢力を削るため、山東將藺杲を鄧州刺史に任じましたが、杲は従いません。

建中2年5/6月
淮寧軍節度使李希烈は漢南北諸道都知兵馬招撫處置等使となり崇義征討を命ぜられました。

建中2年7月
希烈は長雨のため逗留し、宰相盧杞は希烈の起用に反対した楊炎のせいだと誣告し陥れました。

建中2年8月
崇義は先手をうって荊南江陵を攻撃しましたが大敗しました。

李希烈は諸道軍を率い、崇義將翟暉・杜少誠を蠻水に大破して降し、それを先鋒として襄陽を攻撃しました。山東軍はたちまち崩壊し、崇義は自殺しました。

希烈は山東を併呑するつもりでしたが、朝廷は李承を節度使として送り、希烈には平章事を与えただけでした。希烈は憤懣を抱きましたが、老練な李承の術策には勝てずしぶしぶ撤退しました。
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成德 王武俊の乱

2023-01-17 08:44:04 | Weblog
武俊は契丹人で李寶臣に仕えていました。勇猛果敢でしたが、軍内での地位はさして高くないため、かえって寶臣に愛され、娘を子の士眞に与えていました。寶臣が卒すると、諸将は動揺し、張孝忠や康日知は唐朝に付き、河東・昭義・幽州軍が侵攻してきました。惟岳は武俊も疑っていましたが、やむをえず趙州[康日知]を伐たせました。

建中3年閏正月
出陣した武俊は反旗を翻し、士眞と呼応して惟岳を誅しました。

建中3年2月
朝廷は恩賞として武俊を恆州刺史恆冀都團練觀察使としました。恒州と冀州は趙州で分離され、張孝忠が易定節度使となったのはともかく、軽んじていた深趙都團練觀察使康日知と同格というのは極めて不満でした。武俊としては孝忠領以外を領して成德節度使になるのが望みでした。

建中3年4月
そこで同じく恩賞に不満な幽州朱滔、敗北して危機に瀕した魏博田悅と通じ趙州を攻めました。
張孝忠と康日知は唐朝方です。

建中3年5月
武俊はみずから包囲されていた魏州田悅を救援しました。

建中3年6月
武俊・朱滔・田悅連合軍は、朔方李懷光・河東馬燧・昭義李抱眞・河陽李芃等の唐軍を連篋山で大破しました。
魏州の包囲は解け、唐軍は退却しました。武俊は追撃を主張しましたが滔は同じませんでした。

建中3年7月
連合軍は唐軍と永濟渠を挟み対峙しました。

建中3年11月
朱滔等は王号を称し、武俊は趙王となり、滔を盟主としました。

武俊は元同輩の兵馬使衛常寧を謀反したとして殺しました。

將張終葵に趙州を攻めさせましたが、日知に撃退されました。

建中3年12月
対陣が続き、軍糧を供給する田悅は負担に苦しんでいます。

建中4年6月
専権を示す朱滔との仲がわるくなって来ました。それを見透かして昭義李抱眞が帰朝の働きかけをしてきました。
武俊は成德領が保証されるならという態度でした。

建中4年10月
朱泚の乱が起き、德宗皇帝は京師を捨てて奉天城に籠城しました。それに乗じて田悅は武俊等に臨洺を攻撃しようと誘いましたが、抱眞は自領を確保するのが先だと説き、応じた武俊は趙州に向かいました。

元々叛心は強くない武俊は抱眞の誘いに傾き帰朝を考えるようになりました。

武俊は回紇騎兵を誘致していましたが、朱滔はこれを麾下に加えました。

建中4年11月
武俊は幽州将馬寔と趙州を攻めましたが勝てず、恆州に戻りました。

建中4年12月
德宗皇帝は武俊等に使者を送り、領域・官爵を保証するので帰朝するように促しました。

朱滔は武俊・田悅軍とともに回紇を含む大軍をもって黄河を渡り、李希烈が攻撃している汴州に向かおうとしました[汴州はこの月に希烈が取りました]。
疲弊している魏博田悅は逆らうことが出来ず渋々同意しました。武俊は昭義・河東軍を防ぐとして参戦していません。

興元元年正月
德宗皇帝は赦令を発し、武俊・田悅・李納はそれに従い、王号を捨て、それぞれ節度使に任ぜられ、所領を認められました。朱泚・朱滔・李希烈だけが反乱を続けます。

王武俊は恆冀深趙節度使となりました。

滔軍は武俊領を通過して魏博に入りました。両者はまだ態度をしめさず供軍しています。

しかし永濟に至ると、田悅が会同しないことを知り、激怒して魏博領州を寇掠し魏州を攻囲しました。

興元元年2月
武俊は平章事兼幽州節度使となり朱滔を伐つことを命ぜられました。

武俊・抱眞は魏博の貝州救援に進みました。

興元元年3月
魏博田悅が甥の緒に殺害され、緒の去就が不明なため逗留しました。その後緒も帰朝することになりました。

興元元年5月
武俊・抱眞軍は經城に滔軍を大破し、滔は占領地を捨てて幽州に敗走しました。

武俊は恒州に戻り幽州節度使の兼任を辞しました。
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夏綏 楊惠琳の乱

2023-01-16 08:36:25 | Weblog
夏綏節度使韓全義は淮西吳少誠征討で大敗し、ほうほうの体で逃げ帰りましたが、もうろくした德宗皇帝は宦官達に丸め込まれて功績があったとしていました。しかし皇帝以外は全義の失態を記憶していました。德宗が崩御し、順宗・憲宗皇帝が即位すると全義は観念し、処罰されない間に帰朝しようと考えました。

永貞元年8月
憲宗皇帝の即位に合わせて全義は入朝しました。留後は甥の楊惠琳に任せました。

永貞元年11月
左驍衛將軍李演が夏州刺史夏綏銀等州節度使となり、全義は太子少保として致仕を許されました。全義としては責を問われることがなく引退できたわけです。

ところが楊惠琳は、德宗皇帝時代の姑息な継承例により、乱をおこせばなんとかなると思っていたようです。憲宗皇帝は夏綏のような自立の出来ない弱小方鎭にそのようなことを認めるつもりはありませんでした。

元和元年3月
李演は河東・天德軍を率い夏州を攻め、たちまち夏州兵馬使張承金は惠琳を斬り降りました。
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