唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

隋大業十三年・義寧元年(617年.推古二十五年)

2006-12-31 09:25:56 | Weblog
煬帝は江都に滞在していたが、国内のほとんどは叛乱状態であった。
重臣である太原留守の李淵もまた反乱を企て、六月突厥の侵入を口実に兵を集めて蜂起した。
そして十一月長安を陥し、隋代王を擁立して皇帝とし、自らは唐王を名乗った。

これからは唐開國~貞元二年の略年代記を記載します。
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天祐四年・開平元年(907年.延喜七年)

2006-12-31 09:24:12 | Weblog
正月淮南で軍乱が起こり、徐温・張らは専横な楊渥[行密の子]を幽閉し実権を奪った。
朱全忠は丁會の裏切りを知り、急遽北伐より戻った。
三月全忠将李思安は幽州劉仁恭を攻めた。仁恭は自分だけ籠城して防衛しようとしなかった。
そこでその子守光は兵を集めて思安を撃退し、仁恭を幽閉して節度使となった。
四月ついに全忠は梁國皇帝として即位し、唐帝を曹州に移した[二年二月殺害]。
晉[李克用]蜀[王建]呉[楊渥]岐[李茂貞]燕[劉守光]はそれを認めず、
趙[王鎔]魏[羅紹威]は服属し、
呉越[錢鏐]楚[馬殷]閩[王審知]南越[劉隠]などは宗主権を認めた。
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天祐三年(906年.延喜六年)

2006-12-30 09:23:03 | Weblog
正月淮南楊渥の統治にたいして、部下宣歙王茂章が反したが敗れて呉越錢鏐のもとに奔った。
正月魏博羅紹威は傲慢な牙軍を全忠の支援を得て誅殺したが、
その残党は各地に蜂起した。
李茂貞は邠寧李繼徽に全忠支配下の長安を攻撃させたが、十月美原に敗北した。
九月渥は江西鍾傅の死に乗じて江南西道領域を制圧した。
全忠は魏博の騒乱を鎮圧し、紹威は臣従することになった。
十二月全忠の古参の將丁會が突然潞州を以って李克用に降った。
これは全忠が古参の將を疑い殺害する傾向を懼れたためであった。
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天祐二年(905年.延喜五年)

2006-12-29 22:46:49 | Weblog
二月淮南楊行密は鄂岳杜洪を敗死させ、西に勢力を拡大していった。
朱全忠は二月諸王を、六月唐の官僚を殺害してその力を奪っていった。
五月王建は金州を制圧し、馮行襲を逐った。
全忠は九月唐朝の扱いに批判的であった山東趙凝を攻撃し、山東・荊南を制圧した。
十一月行密が亡くなり、子の渥が嗣いだが十分に部下を統制できなかった。
全忠は譲位を求めて策動し、その意志に反するものを誅殺して行った。

いままでの年代記録集約は
http://www.occn.zaq.ne.jp/cuaez600/tou/ne15.html
で御覧ください。
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天復四年・天祐元年(904年.延喜四年)

2006-12-29 09:48:09 | Weblog
正月唐独自の軍事力を再建しようとした崔胤を、朱全忠は殺した。
そして閏四月には昭宗を自分の勢力下の東都へ拉致した。
これに対して李茂貞や王建は反旗を翻した。
八月全忠は昭宗を弑殺させ、幼少の輝王を擁立した。
そして担当した朱友恭・氏叔を殺し口をふさごうとした。
各地の勢力は親全忠と反全忠に分かれていった。
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天復三年(903年.延喜三年)

2006-12-28 09:02:32 | Weblog
正月李茂貞は朱全忠に屈服し、昭宗を引き渡し、幹部宦官達を殺した。
全忠と崔胤は残る宦官七百人を皆殺しにし、各地の監軍達も殺すように指示した。
そして崔胤はすっかり消滅した親軍の再建を図ることにした。
淄青節度使王師範は情勢を読み誤り、
正月反全忠を標榜して蜂起し、兗州を取った。
全忠が茂貞を追いつめながら赦したのは李克用と師範の動乱を畏れためであった。
二月全忠は大尉・副元帥[元帥は輝王だが飾り]となった。
三月全忠は王師範を攻めも九月これを降した。
五月荊南節度使成汭は淮南楊行密を攻めたが、留守中に本拠江陵を州雷彦恭に落とされ、軍は潰乱して敗死した。
十月西川王建は汭没後の黔中・荊南西部を制圧した。
十二月楊行密は反乱していた宣歙田頵を攻め殺した。
楊行密は配下の掌握力が弱く、頵・安仁義・朱延壽など次々と反旗を翻したため、十分な勢力拡大ができなかった。
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天復二年(902年.延喜二年)

2006-12-27 14:03:31 | Weblog
朱全忠による鳳翔包囲が続き、李茂貞の勢力圏は次々と陥落した。
七月西川王建は全忠に共謀して興元や洋州など山西地方を制圧した。
茂貞は淮南楊行密や湖南馬殷に支援を求めたがはかばかしくいかなかった。
十二月最後の支援勢力である鄜坊李茂勳もまた全忠に降った。
茂貞は昭宗を引き渡すことで全忠に和を求めた。
全忠もまた李克用に背後を突かれる畏れから妥協を探っていた。

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光化四年・天復元年(901年.延喜元年)

2006-12-26 09:50:03 | Weblog
正月宰相崔胤は冷遇されていた親軍將孫昭らに劉季述を誅させて昭宗を復位させた。
さらに朱全忠の勢威を背景に宦官勢力を圧迫していった。
二月全忠は李克用派の河中節度使王珂を降し勢力を拡大した。
三月克用配下の昭義節度使孟遷が裏切り全忠に降った。
四月全忠は克用を攻めたが太原を落とせず退却した。
十月全忠はついに京師に制圧にで、畏れた宦官勢力は昭宗を拉致して鳳翔李茂貞のもとに逃走した。
十一月全忠は華州韓建、邠州李繼徽を降し鳳翔を包囲した。
この年嶺南[廣州]では地元勢力の劉隠が自立した[南漢国へ]
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光化三年(900.昌泰三年)

2006-12-25 09:06:50 | Weblog
六月昭宗は宰相崔胤[朱全忠派]と宦官勢力抑圧を図り、宰相王搏や枢密使景務修等を殺した。
九月より朱全忠は北伐を行い、幽州劉仁恭を攻撃し、瀛・景・莫・祁州を陥し、十月李克用の同盟軍である義武軍王郜を逐い、留後王處存を服属させた。
これにより河北は全て全忠の勢力下となった。
湖南馬殷はさらに南下して桂管領州を制圧した。
昭宗は思い通りにならない憤懣から兇暴さと、反宦官の姿勢により宦官劉季述・王仲先は廃立を企て、十一月昭宗を廃位して、皇太子裕を即位させた。

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光化二年(899年.昌泰二年)

2006-12-24 09:28:53 | Weblog
正月幽州劉仁恭はさらなる勢力拡大をねらい大軍を率いて魏博羅紹威を攻撃した。
二月朱全忠は紹威を救援してこれを大破した。
これにより魏博は全忠の配下となった。
三月勢いに乗った全忠将氏叔達は河東李克用を攻め澤州を奪った。
湖南馬殷は、七月より南方経略を進め道・郴・連州を制圧し湖南領域を制圧した。
同じく七月淮南楊行密は海路、海州へ北上してきた。
八月克用の反撃が始まり潞・澤・懷州を奪回した。

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乾寧五年・光化元年(898年.昌泰元年)

2006-12-23 08:58:13 | Weblog
韓建ばかりが利益を受ける昭宗の華州滞在を終わらせるために、李茂貞は一応謝罪し、八月昭宗は京師に戻った。
幽州劉仁恭は三月鹽利を争う滄州盧彦威を逐い、勢力を拡大した。
五月朱全忠は李克用の勢力の衰えに乗じて邢・めい[サンズイに名]・磁州を陥した。
五月以降湖南節度使馬殷は、支配の及ばなかった・衡・永州など湖南地方の平定を進めていった。
七月全忠は反旗を翻した山東趙凝を伐ち服属させた。
十二月克用の配下となっていた澤州李罕之は潞州を乗っ取り、全忠に附いた。
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乾寧四年(897年.寛平九年)

2006-12-22 18:21:24 | Weblog
韓建は、正月昭宗の親衛軍を解体させ、側近を逐い、八月諸王を殺害するなど実権を奪っていった。
李茂貞討伐は形式上続いたが、建と茂貞のなれ合いであった。
朱全忠は正月天平朱瑄を殺し、二月泰寧朱瑾を逐い、山東に大きな勢力を確立した。
朱瑾は李克用の援兵[騎將李承嗣]とともに淮南の楊行密のもとに逃げた。淮南軍は騎兵が不足していたためこれを歓迎した。
八月克用から幽州節度使に任じられていた劉仁恭が自立し、討伐にきた克用を破り独立することになった。
十一月全忠は行密を伐つため龐師古を將として大軍を南下させたが、朱瑾を將とする淮南軍に迎撃され大敗を喫した。
師古は戦死し、軍の大半は潰滅し、以降は淮南へ手出しができなくなった。
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乾寧三年(896年.寛平八年)

2006-12-21 18:15:18 | Weblog
正月以降王建は東川攻撃を続行中であった。
六月李茂貞が仲間の王行瑜が誅殺されたことを恨み、来寇した。
昭宗は京師を棄てて河東の李克用を頼ろうとしたが、途中華州の韓建に請われて滞在することになった。
建は茂貞の同類であった。
九月馬殷が湖南の主導権を取り自立していった。
李克用は東方への進出をはかり、十月それを阻止しようとする魏博羅弘信を破ったが、朱全忠の来援により阻止された。
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乾寧二年(895年.寛平七年)

2006-12-20 17:47:06 | Weblog
正月河中節度使王重盈が亡くなり、珂が嗣いだが、養子であるため実子達と跡目争いが生じた。
五月実子達を支援する王行瑜[邠寧]李茂貞[鳳翔]韓建[華州]がその承認を求めて京師に乱入した。
それに対して七月李克用は珂[克用の婿]を支援して京師へ侵攻してきた。
その強兵に対抗できず、たちまち韓建・李茂貞は謝罪したが、王行瑜は抗戦した。
十一月克用は邠州を陥し行瑜は殺された。克用はさらに茂貞討伐を求めたが朝廷は克用の力が強大になりすぎるのを恐れて許さなかった。
浙江では錢鏐が浙東を併合しようとしていた。
西川王建は克用の動きに呼応して、茂貞領の山西地方や東川節度使顧彦暉を攻めて勢力を拡大していた。
朱全忠は朱瑄[天平]朱瑾[泰寧]と争い、地道に勢力を拡大していた。

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乾寧元年(894年.寛平六年)

2006-12-19 19:50:16 | Weblog
正月鳳翔節度使李茂貞が、朝廷を威圧するため出兵してきた。
三月李克用が叛将李存孝を伐ち、邢州を取り戻した。
五月王建は最後まで抵抗していた陳敬瑄派の彭州楊晟を攻め殺した。
また湖南地方で馬殷[楚の祖]が自立した。
六月克用は雲州を攻め、吐谷渾の赫連鐸を攻め殺した。
朝廷では鄭綮や李磎など怪しげな人物が宰相に登用されては解任され混乱が続いていた。
克用は幽州節度使李壽を攻め、武州・新州を次々と陥し、十二月壽は逃亡中に殺された。
克用の勢力は旧河東・幽州・昭義・大同の四節度使領域に及び、義武軍や河中軍を同盟軍として勢威が大いに上がった。
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