唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞元十八年(802年.延暦20年)

2006-10-25 18:48:13 | Weblog
宗皇帝は敗戦に懲りて再び蓄財に向かい、各地から進奉という名称の寄付[国庫に入らず皇帝に直接行く]を盛んに取り立てた。
各地の節度使にも、王鍔を初めとして財源を開発できるものを任命するようにしていた。
十月京師近辺の鄜坊節度使王栖曜が亡くなり、恒例の軍乱が起こった。


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貞元十七年(801年.延暦19年)

2006-10-25 17:42:49 | Weblog
淮西軍に徹底的に敗戦した韓全義が戻ってきたが、宦官達は共同責任を問われることを懼れて宗皇帝をごまかした。かえって皇帝は全義の功績を賞しょうとしたが、さすがに全義は恥じて夏綏節度使に逃げ戻っていった。淮西の呉少誠も勝ったとはいえ損害も多く、現状維持を図って手じまいすることにした。
五月京師近郊の有力藩鎭である邠寧節度使楊朝晟が亡くなり、後任を巡って恒例の軍乱が続いた。
河北では六月成徳節度使王武俊が死んだが、その子士眞がすでに実権を継承していたため混乱はなかった。
九月西川の韋皐は吐蕃を破り、対吐蕃戦の代表者としての権威を確立していった。
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