唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞觀二十二年(648年.大化四年)

2007-01-31 18:00:16 | Weblog
正月再び薛萬徹等に高麗を伐たせたが戦果は上がらなかった。
二月訴人を取り次がなかったことにより宰相崔仁師が流された。
四月から劔南地方の南蠻を討った。
七月華州刺史李君羨が太宗の根拠のない疑惑により殺された。
房玄齢が亡くなり、貞觀時代の終わりを示した。
八月から薛延陀の残党を討った。
十月阿史那社爾が龜茲国を滅ぼした。
このように西域討伐には帰服した蕃族出身の將が多用された。
ある意味では夷をもって夷を討つという政策である。

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貞觀二十一年(647年.大化三年)

2007-01-30 17:47:13 | Weblog
太宗は再び高麗親征を望んだが諫められ
三月李世勣・牛進達に高麗を伐たせた。
しかしたいした戦果は上がらず損害が多かった。
十二月契苾何力等に西域の龜茲国を伐たせた。
高麗は一応謝罪の使を送ってきた。
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貞觀二十年(646年.大化二年)

2007-01-29 17:51:56 | Weblog
正月侵攻した薛延陀が撃退された。
二月高麗遠征による不穏な状況を慰撫する處置が取られた。
三月太宗は京師に戻っが病身であり、皇太子治が聴政した。
六月薛延陀を伐ちこれを降した。
八月薛延陀討伐後の処理のため北辺の靈州へ向かった。
鐵勒諸部など蕃酋が集まり太宗を天可汗とした。
これにより太宗は中国・北辺両地の首長となった。
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貞觀十九年(645年.大化元年)

2007-01-28 09:17:24 | Weblog
二月太宗は高麗親征に向かった。
四月蓋牟城・遼東城を陥した。
六月白巖城を陥とし、安市に高麗軍を大破した。
勝利の連続のようであるが損害は多く苦戦であった。
九月寒期に向かい安市城を抜けず展望がなく撤退に入った。
十一月太宗は病をおして幽州に戻り、太原へ向かった。
十二月薛延陀が隙をねらい侵攻した。
太宗は敗戦の失意による猜疑が強くなり宰相劉洎を殺した。
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貞觀十八年(644年.皇極三年)

2007-01-27 19:44:44 | Weblog
八月郭孝恪が西域の焉耆を討ち、十月にこれを滅ぼした。
十月泉蓋蘇文の国王弑逆を名目とした高麗討伐のため東都へ移った。
十一月張亮・李世勣等に高麗を討たせた。
十二月廃太子承乾が死んだ。
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貞觀十七年(643年.皇極二年)

2007-01-26 17:51:38 | Weblog
正月魏徴が亡くなった。
代州都督劉蘭成が謀反し誅された。丘行恭はその心肝を食べた。
二月功臣の姿を凌雲閣に描かせた。
三月齊王が狷介な長史の權萬紀に挑発され、反乱し誅された。
皇太子は魏王を討とうとし、太宗をも排除しようとしたため
四月廃して幽閉された、その一味である漢王や侯君集が殺された。
魏王もまたその策動が明らかになり排せられ、
おとなしいのが取り柄の晉王治が皇太子となった。

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貞觀十六年(642年.皇極元年)

2007-01-25 08:56:38 | Weblog
西域開発が本格化してきた。
皇太子承乾の不行跡が甚だしくなり、
太子の座をねらう魏王との暗闘も激しくなった。
六月太子の不行跡を諫めた張玄素が襲われた。
十一月高久麗で泉蓋蘇文が王高武を殺し権力を奪った。
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貞觀十五年(641年.舒明十三年)

2007-01-24 17:54:27 | Weblog
正月東都へ移った。
二月泰山で封禪を行った。
十一月薛延陀が東都行幸の隙に侵攻してきたため、李世勣に伐たせた。
十二月李世勣が薛延陀を破った。
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貞觀十四年(640年.舒明十二年)

2007-01-23 21:27:32 | Weblog
太宗は平凡な皇太子承乾より、好学の魏王泰を好み、泰もまた太宗に迎合した。
二月温湯に湯治に出かけた、これ以降温湯に行くことが多い。
八月侯君集は高昌国を滅ぼした。
跡地は直轄領として西域経営の根拠地とした。
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貞觀十三年(639年.舒明十一年)

2007-01-22 17:50:24 | Weblog
功臣による地方行政ではうまく行かないため
二月世襲刺史制度を停止した。
四月突厥突利可汗の弟阿史那結社率が乱し誅された。
七月河南に移していた突厥の残部を北辺に戻した、
突厥の旧地を占有していた薛延陀はそれに不満をつのらせた。
高昌が西突厥と結び不遜であったため
十二月侯君集に西域の高昌国を伐たせた。
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貞觀十二年(638年.舒明十年)

2007-01-21 08:32:54 | Weblog
二月より太宗は河北に渡り巡閲した。
隋煬帝の華麗な行幸とは違い民政をみる地味なものだった。
閏二月京師に戻った。
勢力をました吐蕃は吐谷渾と同じ待遇を求めて侵攻を繰り返した。
八月侯君集を主将として吐蕃討伐が始まった。
討伐自体はあまり成果はなかったが、吐蕃は和を求めてきた。
十月以降鈞州・明州・壁州山獠が叛乱を起こしたが討伐された。
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貞觀十一年(637年.舒明九年)

2007-01-20 08:51:57 | Weblog
二月洛陽へ向かった。
太宗はやや弛み、軍事訓練と称してしばしば狩猟を行った。
国の永続性にたいして郡縣制と封建制の論議が起こり
六月諸王二十一人と功臣十四人を世襲刺史とした。
この年雨が多く七月洛水・九月黄河で氾濫がおきた。
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貞觀十年(636年.舒明八年)

2007-01-19 19:16:22 | Weblog
正月大いに諸弟・諸子を王に封じた。
そして三月、諸王を都督や刺史とし地方に赴任させた。
六月長孫皇后が崩御した。
皇后は政事に干渉せず、子を甘やかさず節約家で学に励
む模範的すぎる妻であった。


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貞觀九年(635年.舒明七年)

2007-01-18 19:28:09 | Weblog
五月李靖は吐谷渾を大いに破り、その可汗を殺し服属させた。
同じ月に高祖は崩御した。
七月党項羌は唐軍の掠奪に怒り、総管李道彦軍を大破した。

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貞觀八年(634年.舒明六年)

2007-01-17 17:56:11 | Weblog
突厥の衰亡に乗じて勢力を拡大した西部の吐谷渾・党項の討伐が急務となった。
六月より段志玄等が、十二月には李靖を総帥とした討伐が始まった。
太宗は高祖の居所として大明宮を造営したが、高祖は病となった。
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