ただ生きるのではなく、よく生きる

自然の法則をとらえ、善(よ)く生きるために役に立つ情報を探して考えてみる

世の中の現実を徹底的に見た、あるいはきわめて平凡に見たといっても よい

2017-07-18 18:54:02 | 知恵の情報
たんなる作為的な無念無想では、一つの秘術また隠し芸のようなもので、ただの夢想の
ための夢想、安心立命のための安心立命であってあなんの働きもない。つまり、草木と
どこが違うかといいたくなるわけである。

お釈迦様は、はじめからすでにこのことを観破されたから、偉いではありませんか。
そこでインド国中に、つくべき師匠もなく、ついに山に入って、自力の修業で六年間
を過ごした。
三十五歳でようやく強迫観念が全治し、心機一転して、転迷開悟したのが、
「諸行無常・是生滅法」ということであった。

つまり、これが「あるがまま」ということであって、作為的な無念無想でもなければ、姑息
な安心立命でもない。
世の中の現実を徹底的に見たのでもあれば、あるいはきわめて平凡に見たといっても
よいのである。実に「道は近きにあり、事はやすきにあり」であった。いままではそれを
ことさらに「遠きに求め、難きに求め」ていたのである。

心配事を安心したり、忙しいのを落ち着いたりしようとするのは、それは「難きに求む」
以上のことで、まったく不可能の努力であるのである。

─『現代に生きる森田正馬のことば 生活の発見会編 I I 新しい自分で生きる』
 白揚社

■お釈迦様の言葉で、心に残っているのは、「弦はなかほどに締めるがよい。」
という言葉だ。これは、中道の元になる考え方だ。弦を締めすぎると切れてしまう。
緩めすぎるとよい音がでない。だから、その「なかほど」をとって音を合わせて
いくという教えだ。
そして、これを思いついたのは、流行り歌で、少女たちが遊びで歌っているのを
耳にしたのを素直に受け止めたときにとらえたといわれている。これは、まさに
お釈迦様があるがままの境地になっていたのではないか・・・

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