ただ生きるのではなく、よく生きる

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傷つけられたときこそ、生きかたは試される──日野原重明

2016-07-29 17:46:28 | 知恵の情報
私たちは、他人から受けた傷はいつまでもその痛みとともに忘れることがありません。
傷が深ければ深いほど、加害者である相手に自分が味わったのと同じ苦しみが
与えられることを望む気持ちにもなります。しかも、それが唯一、自分の怒りや憎しみ
を晴らすための正当な手段であると信じて疑いません。歴史上に百年にもわたる戦争が
続いたことがあるのは、恨みや憎しみの感情が根深く、その子孫にまで連鎖していった
からです。

けれども、報復の応酬の行く手に待っているのは、相手への憎しみのとりこになり、
ついには、自分自身の人生をも台無しにしてしまうという悲しい結末です。この
憎しみの連鎖にはまったとき、もはや被害者・加害者の別はなく、そこにあるのは
ただ解決のめどのない悲劇の連続です。

平和の到来を願ったはずの21世紀がその幕開けから血塗られ、世界には大きな
争いがいまなお続いています。私たちはいまこそこの憎しみの連鎖にピリオドを
打たなければなりません。憎い相手をゆるす、という最も勇気ある心と行動を示す
ときなのです

かつて人種差別撤廃をめざし黒人運動を推進したマルティン・ルーサー・キングJr.
牧師(1929~68)は、
「暴力に暴力で報いれば、ただ暴力を倍加させるだけであって、憎しみを消すことは
できない」
と言いました。彼は、さらに「汝の敵を愛せよ」とのキリストの教えは最もその実行
が難しいことであると前置きしたうえで、それでもなお、
「私たちは敵意をなくすことで、敵をなくさなければならない」
と多くの同胞に訴えました。

人を許せるか否かは、人間に与えられた試練だと言わざるをえません。傷つけられた
ときにこそ、私たちは、生き方を試されているのです。相手を憎んだり、仕返しをしたり、
相手が自分の思うとおりに変わることを一方的に望むよりも、まず自分がどれだけ
人間らしい行動を選択できるかが試されているのです。それは、相手から受けた
傷を自分自身の成長の糧に変えられるかどうかということでもあります。

─『続生き方上手』日野原重明著 ユーリーグ株式会社刊より

表立って傷つけられなくても、相手の些細な言葉や、態度ですごく傷つくことが
あります。相手は、残念ながらそれに気づいていないことが多い。
人間のつながりは、この気遣いのなさの連続でしょう。こちらが気を使っても相手は
それに気がつかない。相手が気をつかってくれてもこちらがしらっとしている・・・

こういうときは、やはり、たがいに信じられる行動を工夫して相手に示しつづけると
いうことが大切なのではないでしょうか。相手に傷つけられても日野原さんが
おっしゃるように人間らしい行動をこちらが主体性を持って選択することなのでしょう。
相対的に考えると相手がしてくれないから、やらない。相手にいじめられたから、
相手にしない、いつか仕返ししてやる。負の連鎖です。相手の出方で、自分が動くの
ではなく、自分の人間らしい行動をいつもこころがけて、選択していきたいものです。

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