Life in Japan blog (旧 サッカー評 by ぷりりん)

日本に暮らす昭和生まれの猫ぷりりんの、そこはかとない時事放談と日記です。政治経済から科学、サッカー、手芸まで

初の天孫降臨?虚空見日本国の饒速日命と天磐船、哮峯

2017年08月06日 18時07分31秒 | 神話・伝承・民話

天孫降臨神話の哮峯

先代旧事本紀は日本書紀・古事記と違い邇邇芸命より饒速日命が先に河内国哮峯~大和国鳥見白山(鳥見白庭山)へ天孫降臨し、「虚空見日本国」と言った設定で、本居宣長や徳川光圀から絶大なる低評価を受けていたようです(^▽^;)。

河内名所図会の石船巖=現在の磐船神社=神話の天磐船と思われます。
河内國河上哮峯はその後方の山(採石場だった)と思われます。現在、フリークライミング場となっている哮が峯(元採石場)も候補ですが、近くのバス停の名前が哮橋(いかるがばし)、その橋に実際に刻まれている漢字は皚酵橋(ナンバー出版の1974年版交野市の地図では白豈酵橋)なので、皚酵橋(いかるがばし)→哮橋(いかるがばし)→いかるがみね→哮峯→河内國河上哮峯という変化が起きたのではないでしょうか。皚は白い輝きの意味なので、酵-酒のおりが白くきらきら輝く、削られた雲母が川底でキラキラ輝く天の川にかかる橋という意味だったのではないでしょうか。

神話に記載された哮峯、天磐船

「饒速日尊稟 天神御祖詺 乗天磐船 而天降坐於河内國河上哮峯 則遷 坐於大和國鳥※見白山 所謂乗 天磐船 而翔 行於大虚空 巡 睨是郷 而天降坐矣即謂 虚空見日本國是歟」"天神本紀"難註先代旧事本紀10巻,寂顕

哮峯、天磐船にまつわる記録

その祭祀の祠は大和国添下郡南田原村のにあったようです。

「巖船神祠 在㆓南田原村㆒𦾔時記曰饒速日尊󠄁襄㆓ 天神御祖󠄁詔㆒乗㆓天磐船㆒而天降坐㆓ 河内國河上哮 峯㆒ 即此」五畿内志"大和志 添下郡"

河上哮峯は河内国讃良郡田原村にあり(現在の磐船神社の山)、石船明神を祀っていたのは大和国南田原村。岩が所在しているのは河内国讃良郡。神座石自体は河内国交野郡に所属していたようです(詳しくは「平斎の日記 [神仏]『五畿内志』の「田原村石船山」」)。

「河上哮峯 在㆓田原村㆒今號(号)㆓石船山㆒饒速日命降臨之地峡中有㆑石長五丈許渓水通㆓石下㆒和州南田原村石船明神神輿幸㆓于此㆒因呼曰㆓石船岩㆒今其禮(礼)雖(いえども)㆑廢(廃)毎年六月晦日土人相集修㆓禊事于此㆒神座石屬(属)交野郡」 五畿内志"河内志 讃良郡" 日本古典全集刊行会 昭和4-5年

河内国交野郡(交野市)側の若宮神社の由緒書きに河内国と大和国の村々での顛末が記載されていました。交野市側では天田神社にて祀られているようです

若宮神社畧(略)記 当社は私市の氏神で住吉四神を祭神として祀ってあります。当地区には天田神社(住吉神社を祀る)か古来より祭祀されてありますがもともとこの社は産土の神を祀ったものと考えられます。上古天孫饒速日尊が天ノ磐船に乗って之の地方ら(磐船宮)降りられ大和に入られ、その子孫が天乃川を中心として大和河内地方に勢力を伸し交野物部氏の強大な部族を形成したのでありますがこの部族の総社としての磐船宮も「船に乗って天降った天乃川文化圏」との考え方と住吉信仰が混同しいつのまにか住吉四神を祭神と誤って伝承して来たのでありましょう。 その後宮座の事が解決せず約270年前各村々(河内・大和)は磐船明神乃分霊を神輿に乗せて持帰り祭祀しましたが私市に古くから天田神社に在りましたので若宮神社と称号したのでありましょう。 一祭神 住吉四神(但し天孫饒速日尊を起源とする) ……一来社 秋葉明神社 元獅子窟寺境内に在 長慶天皇御霊社として祀ると思われる。

また磐船神社御旅所の説明文にも顛末の記載がありましたので孫引きします。

お旅所由来 私市をはじめとする交野が原は、弥生時代の頃、肩野物部氏と呼ばれる氏族が稲作農耕文化を伝え開拓された所で、ここより2キロ程天の川を遡った磐船明神を祖神としてお祀りしておりました。祭礼になると、私市の村では磐船明神の神霊を神輿にのせて、磐船街道を下り村にお迎えし若宮神社にて祭礼を催すと共に安泰を繁栄を祈念し私市村を一巡した。その御神幸の行き帰りに神様と人々が休憩をするためにここ「しぐれの里」にお旅所が建てられました。 その後交通事情などにより、御神幸の神事は廃れて、お旅所も現存せず、二基の灯籠のみが再建されて往年の神事をしのばせております。 「磐船神社お旅所跡・梅の木の伝説跡へ行く 2015/2/11 ひまつぶし人のプーさんの日記です。