和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

その四のつづき

2011年06月04日 | 農と歴史のはなし
コメについてもう一度考える

 件の1993年の大凶作におけるタイ米への反応を見ても、日本人が(もちろん自分も含めて)如何にコメというものに対して無知無識であるかが分かったのではないでしょうか?およそ日本国内で栽培されているコメの9割以上がジャポニカ米の短粒種であり、コシヒカリが良いとなれば猫も杓子もコシヒカリ、魚沼産が良いとなればまたぞろそればかりが持て囃されるという風に。でも実は奈良県などではヒノヒカリが作付面積で一位の約7割も作られていたりする事は余り知られていません。県の推奨米なので作付けが多いのはある意味当たり前で、西日本のしかも盆地の登熟期に高温が続く栽培環境では理に適った選択です。とは言え、このヒノヒカリもコシヒカリの系統であることは違いないのですが。 

 ここから少し、いやかなり話が変わりますが、稲作や米に関する共通認識を持つためにも基礎的な事項を整理しておいたほうが良いのだと思います。詳しくは佐藤洋一郎氏等の本を見てもらえば大体済む話ではありますが、ここは自分自身の認識を確認するためにも書いておきたいと思います。
 あの時輸入されたタイ米がインディカ米だったと言うことはもはや多くの人が知っていることで、自分の口には入りませんでしたが、初めてインディカ米というものを食べたという方も多かったと思います。パサパサして変な臭いがするというのが敬遠された主な理由ですが、全世界での流通量を考えるとインディカ種のほうが多く流通しており、ジャポニカ米の短粒種を好む日本人は相対的にマイナーな存在になります。匂いに関してもインディカ種の「香り米」と呼ばれる品種群は世界的に有名で、インドのバスマティーやタイのカオホムマリは最高級のインディカ米として例えばコシヒカリよりも世界に名を知られています。

 では、日本人はインディカ米にあの時初めて出会ったのでしょうか?答えはもちろん違い、比較的近い過去に忘れてしまったのです。
 近い過去とはやはり明治時代になります。それまではごく当たり前に一定の割合でインディカ米も作付けされていたことが知られ、特に長粒種の「大唐米」と呼ばれた「赤米」はその代表的のものでした。耐寒性の強い大唐米は容易に越冬して、野良稲、雑草化してしまうために徹底して駆逐されましたと言いたいところですが、一部地域では今も雑草化して残っているそうです。
 そもそもこの「大唐米」あるいは占城(チャンパ)米と呼ばれたコメは、中国大陸から十二、三世紀頃に請来され、以降、日本列島において一定の割合で作られるようになります。その特徴は寒さにも暑さや旱害にも強い、しかし味は悪く脱粒性も強くて風が吹いただけでも種が落ちるというものでした。
 つまり、味やらはさて置いて、旱害や冷害、虫害などの不良環境には滅法強い品種であった事が受容された一番の理由で、謂わば飢饉の予防装置としての役割を果たしたのです。
 中国大陸からもたらされた為に大唐米と呼ばれたのですが、もとより中国大陸では十一世紀、北宋の時代に頻繁した飢饉に対応する為に、皇帝自らの命で主に占城(チャンパ今のベトナムに位置する)で栽培されていた早生のインディカ米を導入させた事に始まります。それが占城米と呼ばれる所以で、中国大陸ではそれまでの主流の短粒種を禾更(コウ)、それと区別して禾山(セン、文字化けするのでこのようにしています)と呼ぶようになりました。
 そんな大唐米は籾に芒(ノギ)の無い姿からボウズ頭を連想して唐法師(トウボウシ)とも呼ばれ、あるいは短化してトウボシやトボシ等と呼び習わされました。この大唐米=トウボシの一群は様々な亜流があり、それらが必ずしも遺伝的に同一のグループに収まる訳ではないのは品種の概念の乏しい時代なので仕方ないとしても、大きな一群を形成して中、近世の田んぼに存在しました。
 トウボシは不良環境には強くても味は劣るため、当然のことながら支配層から嫌われ、下米や不良米のレッテルを貼られました。大事な租税として徴収する米の中に下米のしかも赤米が混入するのはやはり都合の悪い事でしたが、完全に駆逐出来なかったのかあるいはしなかったのか、品種の選択権は百姓にあったのかもしれませんし、万一の天候不順に備えての農家の自給米としてある程度の許容をしていたのかも知れません。
 稲は基本的に自家受粉をするものですが、風媒花でもあるので約一%は自然交配によって他家受粉をするものだといわれています。つまり、当時の上田一反の田んぼで三百キロの収量があったようで、一籾を仮に0、2グラムだとすると1万5千粒の雑種が混入する事になります。トウボシはインディカ米なので他のジャポニカ種と交配した時には強度の雑種不稔になります。これはインディカ種とジャポニカ種が遺伝的に遠い存在である事を示しているのですがここでは置いておいて、不稔ですからシイナになるというのは非常に好ましく無いことです。そこで、トウボシが早生である事を利用して晩生品種と混植し開花時期をずらすことで交配を防いでいました。
 混植といっても適当にばらばらに植えた訳ではなく、「ぐるり植え」や「大唐さし」といったように田面の畦周りに数条ぐるりとトウボシを植えました。早生の性質を生かすだけでなく、虫害に強い性質を利用して畔から害虫の侵入を防ぐという賢い方法でした。
 (ここに書いたことは「赤米の博物誌」を読めば既出で、更により詳しく理解できると思います。)

 「赤米」と言えばインディカのトウボシ以前にもジャポニカ種が列島には存在したことはよく知られています。奈良の平城宮跡を訪れた方ならお気づきかも知れませんが、遷都1300年祭で賑わったきらびやかな大極殿と対を成すように東隣に作られた掘立柱建物の「大安殿」、その奥に位置する内裏の更に東側、柵と排水路で隔たれた所にあったのが造酒司です。
 造酒司は国家の祭祀に関わるような酒や酢の醸造を一手に荷っており、醸造で使用する水を井戸で賄っていたようです。調査の結果三つの巨大な井戸が発掘され、そのうちの一つは役所の中心部に位置し、直径1,4メートルの丸太をくりぬいて作られた井戸枠の周りを石で葺き、全体を六角形の覆い屋で覆うという何とも奇妙で特殊な用途が想定されるもので、現在はその井戸の復元遺構を見ることが出来ます。

朱雀門や大極殿のような壮麗な建物からは随分離れたところにあり、一見何か分からない

復元遺構の中もゴミが散乱していて残念ですが、この井戸の特殊さが窺えます。

説明板

 その造酒司に納入された酒用の年料舂米は出土した荷札木簡から見るとおよそ4割が赤米のものだったことが分かっています。当時の酒づくりにおいて赤米が何かしら特別な意味を持っていたであろう事は推察できそうで、ピンク色に染まった濁酒が儀式に供されたのかも知れません。
 ただ、それでも酒米の五割以上は白米であり、酒米を除く全体では圧倒的に白米が流通していたのも事実なのです。だからもし赤米を「古代米」と呼ぶのであれば白米も古代米だろうと言う少々意地悪な事も確かに言えるわけです。

 赤米が祀り上げられている昨今の状況に水を差す気はありません。明治期には政府主導で赤米駆逐策が採られ、徹底的に排除されたモノの復権と見れば感慨深くも有ります。でも赤米を古代米と呼ぶのは赤飯の由来が赤米にあるという話と同じで、根拠の薄い常識になっています。思いつきの発言とはとても考えられないのが赤飯の赤米由来説の凄いところで(もちろん説が間違いと言っている訳ではありません)、稲の南方海上渡来説ともども柳田國男という人の底知れなさを感じさせられるものです。
 赤飯は赤いと云う点と糯(モチ)米を使うという二つの特徴が有るのは言うまでもないのですが、例えば赤いと言うのは赤米が由来なのか、そもそも赤い色に邪を祓う僻邪の思想があったからでは、いやそれならば辰砂や鉛丹といった鉱物の神秘的な効能が、というような卵が先かニワトリが先かの議論になってしまいます。あるいは単に小豆という縄文遺跡からも多く出土し、五穀の一つに数えられるものを使うことに意味があったのかもしれません。
 糯米は数百万本に一本の奇跡、うるち米の突然変異から生まれたと考えられています。アミロースを持たず多節状のアミロペクチンのみが有る為にあの独特の粘りが生まれ、その特性を活かす為にもうるち米との交配を避けねばなりませんし、収穫後の混雑を防ぐためにも隔離して栽培、保存をするものです。
 苗族などの雲南や東南アジアのいわゆる照葉樹林帯の文化がネバネバを好み、日本もその影響を受けたというのはよく言われることで、苗族では糯米はうるち米の上位という位置付けにあります。日本でもモチはハレの日の食事で、神に奉げる神聖なものです。寺においても例外でなく、寺々の大山立や例えば二月堂のお水取りでは須彌壇に積み上げられ、唐招提寺では正月に餅談義などと言う行事もあります。何故モチがハレの食事になったのか明確な答えを持ち合わせませんが、成型すれば扱い易く、ある程度保存が利くという実利的な部分にも意味があるのだと思います。

 本当の意味での古代米は実は各地の弥生遺跡から多数出土しています。大和で言えば「唐古鍵遺跡」から出土した炭化米があり、ここから出土した古代の米の特徴は幾つかあります。その一つは「長護頴種」と呼ばれる、籾の更に外側に護頴(ごえい)と呼ばれる外皮が籾を覆うように長く伸びたものがあったことです。この護頴は種子を守る為のものですが、稲が栽培種として改良される歴史の中で徐々に失くしてきた器官のひとつで、今の米にはほぼ見られないものです。
 弥生の米が稲の古い形を残していると考えられるのと、この護頴は現在でも中国大陸の「禾更」の在来水稲品種の一群に見られ、更に台湾島の陸稲品種に長護頴を持つ在来品種が今も存在するといい、それらとの関わりを考えずにはいられません。
 そしてもう一つ、出土した炭化米のおよそ2,3割が熱帯ジャポニカ種だったということです。ジャポニカ種は温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャワニカあるいはジャバニカともJAVANICA)に大別され、両者は三つの遺伝的形質によって区別され、現在では遺伝子レベルで違いが認められています。そのややこしいところは置いておくとして、現在の日本の水田にはごく一部の在来種を除いては熱帯ジャポニカ種はありません。99%以上が温帯ジャポニカの短粒種で占めている今と違い、各地の弥生遺跡から出土する炭化米は滋賀の下之郷遺跡の四割を最大に、軒並み熱帯ジャポニカを検出しています。
 1970年代までに日本列島に残っていた稲の在来品種のうち、およそ7パーセントが熱帯ジャポニカに特有の遺伝子を持ち、先の護頴を伸ばす遺伝子である「g」と名付けられたものもそれにあたるといいます。ただ、これも先ほどの中国大陸の禾更や台湾在来は紛れも無い温帯ジャポニカ種であり、熱帯ジャポニカ特有の遺伝子を持つからと言ってそれが熱帯ジャポニカ種であるとは限らないようです。
 個人的には熱帯ジャポニカという稲がこれ程までに存在したという驚きもさることながら、何故四割を超えて五割以上で検出されないのかの方が逆に不思議でなりません。母数が違うので比較し難いですが造酒司に納入された赤米と同じ様に半分を超えないのが気になるのです。いやもしかしたら五割をける遺跡が有るのかも知れませんが、こちらの情報が古いので御了承下さい。それはともかくこれらの炭化米が混在して検出されたのか、果たしてどの様に栽培されたのかなど興味は尽きません。
 そして唐古鍵遺跡の上流に出現した巨大な都市のような空間、纒向遺跡の土廣から最近見つかった桃の種も大事ですが、米の遺物が果たして熱帯ジャポニカなのか温帯ジャポニカなのか、唐古出土の炭化米とDNAレベルでの関係があるのか無いのかなど知りたいことは沢山あります。

 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。