platea/プラテア

『ゲキxシネ五右衛門ロック』『The Musical AIDA』など、ミュージカルの話題作に出演の青山航士さんについて。

サリーとSacred Monsters

2007-06-14 | ダンスファンの独り言
 昨日は青山さん「出演しません」情報だし、その前は支離滅裂な独り言だし・・・とすっかりトーンダウンしていましたが、hildaさんから"Sacred Monsters"にコメント頂き、もう少しこの話題で突っ走ることにしました

 "Sacred Monsters"の劇作を担当したGuy Coolsは、観客の期待に答えようとするあまり、スター達は失敗したり、不完全であったり、ありのままの感情を表現する余裕がなくなっていく、と解説しています。この作品はギエムとカーンのソロとデュエットで構成されていますが、自分のソロを踊り終わったギエムはそのまま舞台の隅に正座したり(!)してカーンのソロをじっと見ていました。タオルで汗を拭いたり、デュエットのために髪を自分で三つ編みにしたり・・・と彼らの日々の研鑽がそのまま舞台に持ち込まれ、今も積み上げられているところ、という感じをうけます。完全主義者で知られるギエムが、形式としての完全さをスパッと切り捨てている、そんな風に見えました。
 Coolsは解説の最後にこう語ります。「二人とも古典的な伝統によって形作られ、育まれ、すでに素晴らしい価値を持っているけれど、さらに実験し、彼らの認識を一新し、もっと人間的な、彼ら自身の声を聞きたいと思っているのです。」
 公演各地でのレビューで必ずといっていいほど触れられているのが、前の記事で触れたマイムとギエム自身の「語り」です。かなりくだけた口調で、公演によって内容に違いがあるようですが、他の公演でも話したと思われるサリーの話を少しだけ。外国語を覚えるのに漫画『ピーナッツ』を読んだけど、自分はチャーリー・ブラウンのおませな妹、サリーに似ていると思う、子供のころ学校でサリーと呼ばれていたし・・・とギエムが英語で話します。幼いのに「哲学」なんていう言葉をちょくちょく使ったりして、大人の世界の決まりごとをポンと飛び越すようなところのあるサリーとギエムは、私の中でも重なるエピソードがひとつあります。
 ギエムが体操でオリンピックの強化選手だったことはよく知られていますが、たしか『徹子の部屋』にゲスト出演した際、バレエに転向した理由のひとつとして、「体操ではある程度まで行くと非常に危険なことをやらされる」ということを挙げていました。両親とも優秀な体操選手で、恵まれた身体を持って生まれた彼女は、その優れた資質と自分の人生を、本能的によく知っていたということでしょう。国威をかけた戦いを課す大人に「あいにくだけど、この体はメダルの台ではなくてあたしのものなの」とサリーさながらに言い放つ少女の姿が見えるようです。周りの期待にこたえるべく、非人間的に、化け物じみてくるのはスター達だけでなく、大人の期待にこたえようと子供も経験すること、子供は皆ある時期まで"Sacred Monsters"だ、ともCoolsはいいます。少女ギエムは"Sacred Monsters"に「される」ことを拒否した、とも言えるでしょうか。
 最初は、フランス演劇界の大スターのあだ名として"Sacred Monsters"という言葉が生まれたそうですが、確かに舞台の上の優れた表現者に、Monsterを感じることはよくあります。それが人間的であることと引き換えの輝きであったとしたら、少し舞台が怖くなりますね。人間的であって、Sacred Monstersでもあること、そんな形をこの作品は提示しているのかもしれません。この冬、ギエムの踊る古典はどんな世界を見せてくれるでしょうか。