茫庵

万書きつらね

2012年03月13日 - 象徴詩 4

2012年03月13日 07時06分25秒 | 詩学、詩論

象徴詩 4

今回はBaudelaireのCorrespondancesの第三聯です。

 前の2つの聯では「自然はひとつの寺院」に始まり「人 がひとりで」歩きゆく象徴の森、その森の様子、香りと色彩と音響の感応しながらの統合へと話は進んできました。そして、名詞の単数形、複数形の使い分けに より表現されるニュアンスが、日本語訳では再現されにくい事を指摘、また、西洋のシンボリズムが稚拙で今ひとつもの足りない、という指摘もしました。

  第三聯では子どもの体のようにみずみずしい香水がある、それはオーボエのように柔らかく草原のように緑だ、と言いつつ次の行では、そして一方では熟成され て豊かで誇らしげな芳香が漂う、と言ってます。香水と表現されるので、どちらも芳香なのでしょう。ただ一方では新鮮、他方では腐敗、つまりは欄熟した、と いう違いがあるのです。私はこの腐敗という言葉が結構気になりました。色々な訳を見るとそのまま訳出していますが、腐敗だとするとそれが何故「香水」なの か、「豊かで誇らしげ」なのかがどうしてもぴんと来ないのです。腐敗=醗酵とすれば、まだ美味しそうな匂い、というイメージが湧くので私は熟した、という ニュアンスで捉える事にしました。それならじっくり時間をかけて熟成したワインなど、誇らしげと称しても良い物にも結びつきます。最初に述べた子どもよう な新鮮さなど、若造めが何を云うか、みたいに一蹴されてしまうでしょう。

 こういう訳で、この聯は一見すると老いも若きもそれぞれに味わいがある、と言ってるようにもとれます。それを見た目ではなく香りで表現したところがこの おやじのいやらしさを感じます。が、ともかくも、森のなかにただよう芳香の根源は、フレッシュで爽やかなものばかりではなく、原文に近いニュアンスでいえ ば老いて朽ちたなれの果てである腐敗臭を敢えて香水というところが世間の浅はかな物の見方を嘲笑うかのようです。

 これを人間や人生にあてはめれば、上流階級で小綺麗に着飾って綺麗事を嘯いている奴らより、俺様みたいにどろどろの人生を歩いてる人間の方がよっぽど自 然の理にかなっているんだぞ、と、負け惜しみともとれる主張が聞こえてきそうです。しかし、真の隠遁は世間の中で普通に生きる中にある、とする中国の教え を信奉する身としては、悔しかったら社会の中でまともな人生を歩んでみなさい、と、言い返したくなります。