茫庵

万書きつらね

英語詩練習 - 2014年01月03日 - 今年一番ついてる星座は?

2014年01月03日 02時10分50秒 | 教育、子ども

Who is happy in this year - 2014

Who is happy in this year?
Aries, luck in beginning, careful in the end.
Taurus, peaceful days, if you watch your saying.
Gemini, chance will come to develop good career.

Cancer, in big hardness, good help will appear.
Leo, your potentiality, make ready to extend.
Virgo, to get nice, keep enough for paying
Libra, be brave, and for your success, do not fear.

Scorpio, patience will bring you an angel.
Sagittarius, many people appear for contribution.
Capricorn, need to find good friend for you to call.

Aquarius, need deep concern, to do things well.
Pisces, take a new step for next evolution.
And please remember, lucky does not always mean happy at all.



2013年12月15日 - 良書紹介 「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」

2013年12月15日 17時22分52秒 | 教育、子ども

日本無罪論は一部のネトウヨだけの妄言ではありません。


英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄
祥伝社(http://www.shodensha.co.jp)
ヘンリー・S・ストークス著
ISBN : 978-4-936-11351-3


長年日本に在住し、歴史を目撃し、報道し続けてきた、
著名な英国人ジャーナリストによる書。

戦後70年近く経っても未だにアメリカの押し付け連合国史観を信じこまされ、
真の独立を得られないでいる日本と日本人に覚醒を呼びかける。

現在の日本国憲法前文を例に挙げて、これはアメリカ合衆国による
日本占領条約そのものであると断じ、これを廃して自立憲法を打ち立てない限り
アメリカによる日本の占領はまだ続いている、とする、
所詮は鬼畜にすぎない米英の虚言に踊らされず、
日本人は真の憲法を自ら打ち立てて独立と自由を勝ち取らなければならない。

本書が多くの子どもたちだけでなく、多くの大人たちをも啓蒙する事を期待する。


2013年05月06日 - SNS世代 - 親の意識

2013年05月06日 08時40分00秒 | 教育、子ども

 新聞で小学4年~中学3年の子どもを持つ親412人への意識調査結果(トレンドマイクロ調べ)の記事を読みました。9割弱が子どものSNS利用に反対で、子どものインターネット利用にも色々な懸念を抱いているものの、有害サイト規制などの実際の対策を講じている親は1割程度、という実態が報告されていました。

 多分、インターネットでどんな事が行われているか、そもそもインターネットとは何なのかさえろくに知らないバカ親、無責任親が多くて、不安は感じるものの、何をすべきなのかがわからず、知ろうともしないでいる、という事なのでしょう。こうしたバカ親のせいで、迷惑を被るのは一般社会の善良なる市民なわけですから、無知は即ち無恥、怠惰は罪、という事になります。

 昔の子どもは学校と自宅周辺以外の場所で人と知り合うことはあまりなく、異なる年代と接触する機会も限られていました。親の目の届く範囲からそれほどかけ離れることはなかったのです。しかし、SNSでは世界中の億を超えるユーザーとのつながりを居ながらにして作る事が出来、つながった相手がつながっている人の情報も閲覧する事が出来るので、知らない所で個人情報がだだ漏れになるのです。会ったこともない、名前も知らないどこぞの誰かに名前と顔、場合によっては住所や学校名なごまでが知られていたりするのです。当然、悪いおとなや年長者から良からぬ入れ知恵をされたり、事件に巻き込まれたり、引き起こしたりする可能性もずっと高くなります。

 このように、子どもたちは世代と行動範囲を超えたところから流れ込む膨大な情報と危険にさらされています。これに親のチェックが入らないというのは危険なことこの上ない訳で、それに気づかず何もせずにいるバカ親は、子どもがインターネット犯罪に巻き込まれる手助けをしている訳です。

 うちは大丈夫、とたかをくくっているあなた。そんなことは決してないのですよ。自分が安全運転をしていても、ぶつけてこられたら事故は起きるのと同じで、悪意の有無は別として、前述のように、つながっている人を経由して公開した情報は常に漏れ続けているのですから。


2012年10月11日 - 子どものための詩文 1

2012年10月11日 22時35分16秒 | 教育、子ども

子どものための詩文 1

1-1. 子どものための詩文とは

 西洋言語には非常に豊富な子どものための詩文の資産があります。日本語や中国語の詩文も決して少なくはありませんが、「子どものための」という前置きがつくといかがなものでしょうか。読み方も書き方も体系的に整理され、様々な人が多様なアンソロジーを作り、想像力と独創性いっぱいの世界を作り上げています。

 なんて書いてる自分もまだその全貌がどれほどのものか測りきれていません。まだその入口に立った、というだけの状態なのです。しかし、広大、という事はそれでも十分に理解出来ます。

 他で言い尽くされているとは思いますが、何故「子どものための」詩文なのでしょうか?
 答えはもちろんひとつではありません。私はここでは子どもの成長の糧としての詩文とその国、民族の文化の根底を形作る骨組みとしての詩文、という両面から見ていきたいと思います。


1-2. 子どもの成長の糧としての詩文

 日本で子どものための詩、と言ってしまうとお花が咲いたとか鳥さんがかわいいとか、いかにも大人が幼い人を騙すようなイメージがつきまとうのですが、西洋のそういったアンソロジーを読んでみると、そういうものもありますが、決して主流ではなく、むしろ大人が読んでも難しかったり面白かったりするクオリティの高いものが多く見受けられます。つまり、欧米で「子どものための」といっても、詩文自体はごく普通の詩として書かれ、「子どものために」という事で選ばれた、という位置づけの作品が多く見受けられる、という事なのです。ですから、凝った表現を使ってる物もありますし、主題も様々ですし、非常に長いものもあります。序文から本筋まで全部詩文、なんていうのも珍しくありません。

 かつては欧米でも子ども向け=教訓的、といった時代もありました。説教臭い詩や大人にとって都合の良い子ども像を植え付ける道具としての詩もありましたが、近代以降、子どもの人権が真剣に考えられる様になり、時代の流れもあり、子ども向けとひと口に言っても単純に片付けられない多様性を帯びる様にもなってきました。

 とはいえ、本稿では以下の3つの観点から「子どもの成長の糧」としての詩文を捉えてみようと思います。

① 知能的な成長
② 情緒的な成長
③ 社会的な成長

 欧米の子どものための詩文は、これ等の観点からどの様にとらえる事が出来るのでしょうか。


① 知能的な成長
 文字を読んで理解する、聞いて分かる、あるいは諳んじる、自分で作ってみる、といった知的活動に直結するだけでなく、詩文を通じての周りの人々(おとな、子ども含む)や動物などとのコミュニケーションも含まれます。

② 情緒的な成長
 優しさ、喜怒哀楽、様々な情緒的体験による共感、反感など、ある時は詩文を思い出す事により感情を増幅する事もあるでしょうし、体験が詩文による感動を呼び起こす事もあるでしょう。また、お気に入りの詩文を目標とする事で人格形成に影響を及ぼす事があるかもしれません。

③ 社会的な成長
 他の優れた芸術的作品と同じく、詩文の中にも世の中や人生について教えてくれる作品があります。そういう作品は、決して説教臭い訳ではなく、かといって、良い事ばかりを述べて子どもに媚びへつらうのでもなく、時には辛辣に、時には優しく、読者に人間とは何か、人生とは何かを語りかけてくるのです。


1-3. 国、民族の文化の根底を形作る骨組みとしての詩文

 詩は言語表現による芸術です。言語とは国や民族の精神文化の骨組みそものです。実際、東洋でも西洋でも文学は詩から始まりました。ある言語で詩文がどのように作られているか、作られてきたかを読み解く事は、その言語や文化に対する理解の助けにもなります。西洋言語の詩文は、多かれ少なかれ古代ギリシャ・ローマの詩文の影響を強く受けながら発達してきました。それぞれの言語において、一方では独自の詩型を追求しながらも、他方ではお互いに他国の詩型を取り入れたりもしているのです。

 その裏方として暗躍しているのが詩学です。各言語には各詩学があり、独自性を追求しながらも多言語特有の詩型を自国語に導入するにはどうしたら良いかを研究したりもするのです。その結果、同じ名前の詩型でも、実際の中身は必ずしも同じではなく、それぞれの言語ならではの特徴を帯びたりもしています。詩学がある、という事は、詩の読み方や書き方の情報が体系的に整理された環境がある、という事でもあります。いずれも現代日本の口語自由詩には無いものです。つまり、日本語の、というより現代日本の口語自由詩には日本民族や日本国の文化的な屋台骨を支えるだけの能力が無いという事です。これもしばしば私が口癖のように述べていることです。

 では、口語自由詩の前はどうだったか、というと、和歌や俳諧を詩とするならそれなりに役目を果たしていたと言えるでしょう。また、文語体で書かれた日本語は、他の外国語並みに口語が通じない昔の日本人にとっては、どの地方の知識人とも意思疎通が出来る共通言語でしたし、詩文(江戸時代までは詩といえば漢詩の事を指した)に至っては、漢字文化圏の共通語でもあったのです。それぞれのお国柄を詩情豊かに表現していた事は言うまでもありません。

 何度でも繰り返しますが、口語自由詩は、名前こそ自由ですが、今まで先人たちが積み上げてきた豊富な表現資産を敢えて捨て去った上で、代替の物を何ひとつ用意してこなかった責任をとらなければなりません。でなければ、私はこれ等にたずさわるすべての人を、民族的、且つ歴史的な裏切り者、と呼ぶしかありません。

 さて、その詩文について、外国語から学ぶ意味があるのでしょうか。ゲーテが「外国語が分からない者は母国語だって知っちゃあいないさ」という様な言葉を残した事からも分かるように、母国語を知る、と言える為にはある程度以上の外国語の素養が必須である事は言うまでもありません。言語は単独で100%成り立つという物ではないのです。例えば、現代の我々が使っている日常の日本語だって、ご存知の様に、固有の文字は使われていません。漢字は元は中国から輸入したものですし、かな文字はその崩し形です。また、言語的にも古代百済語に近いのではないか、などと言われていたりもします。詩文について知ろうとする時、外国語の詩文は避けて通れない物だと知るべきです。逆に言えば、外国語を知らない詩人などあり得ないという事にもなります。

 この様な下地をわきまえた上で、子どものための詩文がどのようにその言語世界に根付いたものであるのかを吟味してみたいと思います。

 随分小難しい事を並べている様ですが、当たり前です。詩とはもともと知的で難しい物だからです。難しくなければ詩ではありません。しかし、そこを教育と学習と研究と実践で乗り越えた所から、詩の本当の世界が拡がっているのです。スポーツでも、ある程度の体力と知識がなければ安全に楽しくプレイする事は出来ません。逆に、生兵法は危険です。詩だって、危険な目に遭う事はないものの、そういった意味での準備は必要です。少なくとも準備があれば、より広く楽しむ事が出来るのです。「子どものため」という目的意識を持つならば、なおさらです。それを疎ましく思う人は、子どもへの愛情が足りないか、そもそも詩の広大な世界に入っていく事を自ら拒否しているのと同じなのです。


2012年10月10日 - 子どものための詩文 序

2012年10月10日 01時15分50秒 | 教育、子ども

子どものための詩文  序

 子どものための詩文入門を読んでいます。英語とドイツ語です。著名な大詩人が書いたものから誰が作ったのかわからない民謡的なものまで、実に沢山の詩文が西洋にはあります。広く詩文が作られてきた歴史的な厚みというか、重さが日本語とは違います。これは文化的な特色なので、善し悪しや上下とは関係なく、西洋言語には豊富な詩文の資産があり、それは子ども向けの詩文についても同様だという事です。

 何から何まで西洋式にこだわる必要も追従する必要もありませんが、豊かな言語表現を後の世代に資産として残していくのは決して無意味な事ではないと思うので、暫く西洋言語、中でも英語とドイツ語の詩文を題材に、日本語では何が出来るのか、あるいは何をしなければいけないのか、色々と探ってみることにしました。

 題材としては、Google Booksで無料で閲読出来る様々な子ども向けの詩集を取り上げていきます。非常に数が多いので、全部カバーするのは不可能ですが、私なりに面白い、あるいは読みやすい、と感じた作品に注目して、色々とコメントをつけていこうと考えています。

 これから読んでいく対象は19世紀以前の詩文がメインになります。今回は前準備として、英語、あるいはドイツ語の詩文を読んでいく上での3つの基礎知識の確認をしておきます。

1.まず、中世~近代の英語、ドイツ語の詩文の特徴は一定の韻律を
  持っていること。脚韻と詩脚を意識して作られている事を忘れては
  なりません。これを読む目的のひとつは、当然ですが、それを使い
  こなして詩文を書く訓練をする為でもあります。

2.次に詩の主題です。「子どものため」とはいいながらも死や人生の
  失敗、哀しみなど、日本の児童文学では余り正面から描かれない
  ダークな部分も扱われます。子どもたちに何をどう伝えるか、この
  点について考えてみたいと思います。

3.そして詩型としてのバラッドとその読みこなしについて。
  西洋には子どもむけといっても侮れないほど沢山のバラッドが
  あります。一方日本語にはバラッドはほとんど見受けられません。
  児童文学の世界でも、「物語詩」というとちょっと珍しい感じで見られます。
  しかし、数篇でも西洋のバラッドを読んでしまうと、日本の児童文学
  でいう「物語詩」の多くは極めて稚拙で陳腐なしろものに見えてきます。

 本稿は、詩の愛好家に対しては英語とドイツ語の詩表現の豊かさの確認、(自称も含む)詩人に対しては問題提議を行うためのものです。詩人は豊かな言語表現芸術の担い手でなければなりません。それはどの言語でも変わる事のない責務のひとつであるとも言えます。単なる詩の愛好家ならともかく、「詩人」を名乗る、あるいは目指す以上は相応の「言葉の専門家としてのプロの自覚」を持ち、研鑽し続けるのでなければ詩人としては看板に偽りあり、と断ずるしかありません。この点において、私は現代日本において、詩人といえる人を見たことがありません。



2012年09月22日 - よい躾 - 善の積み重ねは善を呼ぶ

2012年09月22日 13時26分26秒 | 教育、子ども

 積善之家必有餘慶。 積不善之家必有餘殃。
 せきぜんのいえにはかならずよけいあり。せきふぜんのいえにはかならずよおうあり。

 要は、善き心を持ち、行い善き人の家は栄える、という事である。逆に、善き心を持たず、今の小悪党揃いの日本国民のように、つまらない目先の利益ばかり追求して、行い善からざる人の家には災いが来る。行い善きとはどういう事か。それは、事に当たっての選択、意思表明、決定が常に適切で結果もまた妥当であり、人の謗りを受ける事がないこと、また、その結果が、自己だけでなくむしろ他者にも利益をもたらすことを言う。

 そういう振る舞いが出来る人は、当然「善き躾」をされて育った者である。つまり、人が幸せになれるかには躾の善し悪しが大きく左右する。今の日本の親は大部分が失格だ。恥知らずとしか言いようがない。子ども当人が不幸になるだけでなく、社会の多くの人々が迷惑するのだ。是非ともまず自らの性根を叩きな直し、その上で己らの子どもを教育し直して、社会に顔向けの出来る最低限の人間になってもらいたいものだ。

 大多数の日本の馬鹿親には望むべくもないのだが、それでもそこに期待するしか日本が生き残る道はない。そして、この社会に活きる以上は愚か者と心中する事になったとしても、それはそれで運命なのだから受け入れるしかない。


2012年09月22日 - 躾の悪い子ども

2012年09月22日 13時03分21秒 | 教育、子ども

 大半の日本人は個性とか自由とかいうものを理解していない。また、何でもかんでも戦前のものは悪で、日本人は罪深い種族であり、常に世界に、とりわけ中国と韓国に贖罪し続けていかなければならない、という自虐的な歴史観を植えつけられて育つので、まともな物の考え方が出来ない人が大半だ。

 中でも子どもの躾の悪さは目を覆いたくなるばかりだ。
 当然である。親がそもそも正常な社会人としての良識に欠けたまま歳だけ大人になったような人物ばかりなのだから、子どもだけまともに育つ訳がない。馬鹿親の元で育つ子どもも当然馬鹿なのだ。迷惑するのは社会全体である。だが、馬鹿同士、誰もその当たり前の事に気がつかない。

 人生で色々な苦難に直面した時、どう現実と向き合い、切り開いていくか。周囲の人に理解される人間になって、助けて貰える様になるのか、いつでもどんな場合でも陰口をたたかれ、軽蔑される様な人間になるのか、それは当人のごく幼いうちの親の躾如何で決まる。人間について、自己について、社会について、人生について、正しい向き合い方を教えられなかった、いわゆる「躾の悪い子ども」は見ていて非常にみじめであるし、そういう風にしか育てられなかった親の馬鹿さ加減もにじみ出てきて、実に見るに耐えない。

 世の中、愚か者ばかりになって久しいが、それを現実として生きて行かなければならないのも確かな事だ。彼らには一切の理屈も正義も通じないのだから厄介だが、そんな者たちをも含めて成り立たせていかなければならないのが社会というものでもある。以前は当たり前だった教育精神、「大学」「中庸」の教育精神を辛抱づよく普及させていくしか人間性復活の道はない。