茫庵

万書きつらね

2012年01月29日 - 詩と技巧 10

2012年01月29日 16時07分01秒 | 詩学、詩論

2012年01月29日 - 詩と技巧 10

 前回は修辞について考察しました。様々な修辞法が知られていますが、印刷技術が発達して詩が書かれものを読む様になってからの、「音」としての詩表現からの逸脱を指摘しました。修辞法の本来の目的や現代の(自称も含む)詩人たちには他の技巧や修辞法の研究や修練が足りないのではないか、という問題提起も行いました。


詩学

 今回は、詩学について考察します。ご存知のように、欧州各国の詩は古代ギリシャ・ローマ以来の伝統的な詩学をいかに自国に適応させるか、創意工夫しながら発展してきました。私が調べたドイツ詩定型も、最初からあったのではなく、外国で生まれた詩型をドイツ語で使うにはどうしたらいいか、様々な試みをした詩人の努力があったればこそ導入され、定着したのです。そのあたり、読んでみると、

1.外国で新しい詩型が生まれる

2.感銘を受けた詩人が訳詩を試みる

3.その訳詩に感銘を受けた国内の詩人が同型の詩作を試みる

4.次第に広まり、同型の詩作も工夫、洗練され読み手の側も慣れてきて定着する

のような流れになる事が多い様です。実際、我が国においてもこの流れが見られましたが、丁度新体詩運動の頃が3と重なり、同時期、3から4に移行中に起こった口語自由詩運動に排斥されて流れが断ち切られたままになっているのではないかと思うのです。挙句の果てに日本語は他の言語とは違う、という最もらしい言い訳を掲げてさしたる努力や工夫を重ねる事を放棄してしまっています。今までたびたび論じてきた通りです。外国の詩壇でこういう態度でいるところは見た事がありません。島国根性というか、村意識というか、文化的センスの欠如甚だしき、といったところ。

 という訳で、外国の進んだ詩学を研究し、自国語の詩に応用する道がないか模索する、という事が、10番目の技巧として検討する価値がある、と筆者は判断して取り上げてみる事にしました。

 とはいえ、現段階で、自分にインプットされた詩学的情報は、アリストテレスとホラーティウス、それとドイツ詩学の3つしかありません。ごたくが偉そうな割には中身はまだまだ、という状態です。それでも手はじめとしては色々と検討材料はあると思っています。そのうちのふたつをここで取り上げてみたいと思います。

 1.詩脚
 2.詩行

 詩脚とは、詩の韻律を構成する単位となる要素で、詩脚がいくつか集まって詩行になります。西洋詩の定型は、詩脚<詩行<聯<詩、のように構成されます。日本語の詩行には西洋の言語のように複雑な詩脚はなく、ただ音数があるのみです。日本語の特性は、ひとつの子音のうしろにひとつの母音がつく事にあるので、複雑なバリエーションをそもそもとる事が出来ないので、西洋言語のような詩脚を持つのはいかに創造力を発揮させたとしても至難の業とされてきました。例えば、次のドイツ詩を見てみましょう。ゲーテの詩、GEFUNDENの第1聯です。


Johann Wolfgang von Goethe

GEFUNDEN

 Ich ging im Walde
So für mich hin,
Und nichts zu suchen,
Das war mein Sinn.

(全文はProjekt Gutenberg) http://gutenberg.spiegel.de/buch/3670/178

 太字で下線つきのところが強く発音される所です。1行に2つあります。何もついていない母音は弱めに発音される所です。弱強弱強弱 / 弱強弱強, / 弱強弱強弱, / 弱強弱強. のように配列されています。ドイツ語詩では、この「弱強」の組み合わせを詩脚としています。上記の詩は1-3行、2-4行がそれぞれ呼応し、2-4行は脚韻を踏んでいます。日本語はどうでしょう。

 Mori no naka aruite yukinu
 森の中 歩いて行きぬ
Tada ichinin,
ただ一人(いちにん)、
Mata nanimo sagasumaji, kore
また何も 捜すまじ、これ
Waga honshin.
わが本心。

 (抄訳:風雷山人)

 詩脚の整合をとることは出来ません。日本語の発音はドイツ語の強弱、イタリア語の長短などよりは、高低で変化をつける事が多いので、試みとして、他の音より音程が高いところを太字下線にしてみました。ひと目でわかる様に、とても2詩脚/行とはいえない状況です。ただ、日本語の詩脚はドイツ語を真似る必要はなく、日本語としての詩脚が持てればそれでよいと思います。例えば五七調のように、一定の音数を持ってその区切りと為す方法が考えられます。五を二+三、三+二、七を四+三、三+四のように分解したバリエーションも考えられます。

 上の訳詩はどうなっているでしょうか。単純に音数だけ見ると、まがりなりにも 五七 / 二四 / 五七(五+二) / 二四 となります。訳詩にも音としての詩のリズミカルな味わいも備えるためには、音数による律動のほかにも、もうひと工夫何か欲しいところですが、ともあれこうした詩脚を持つ事により、日本語になってもなんとか「らしい」リズムは保てるのではないか、という気がします。

 一般的な口語訳と比べてみればその差は歴然です。

 ぼくは森の中を歩いて行った
ひとりきりで、
そして、何も捜さないぞ
それがぼくの思いだった。

 (逐語的抄訳:風雷山人)

 これだけ見ると、散文を翻訳したのと何らかわりありません。原語にあった音的な味わいや韻文としてのリズム感などが全く消え去っています。そうです。外国語の韻文を、翻訳とはいえただの散文にしてしまって本当に詩情が伝わるのでしょうか?

 さて、ここまでで、ドイツ語詩の構成の日本語への置換えとして、とりあえず以下の2つは今後も工夫次第で実作出来そうだと位置づける事にします。

 1.詩脚は音数による区切りに置き換える。音数は自由だが区切りパターンは一定とする。
 2.脚韵は踏む(但し同じ韵が選択出来るとは限らない)

 今までは、この詩脚を単純に音数に置き換えてソネットやバラッドなどの定型を試みてきましたが、詩脚をベースにした定型というのも始めていきたいと思います。基本になるルールは以下のようなところかと思います。


 ・弱強五歩格 → 1行の音律は四三五四五(三四五五四などバリエーション可)。
 ・脚韻あり。但しパターンは仏式をベースにいろいろ。
 ・アクセント考慮せず。


 昨今の世界各国における日本語熱。これが今後も続くかどうかはともかく、このまま日本に詩的言語表現への工夫や発展が見られないならば、最後には外国語を母国語とする日本語詩人たちによって大鉈が振るわれる事になるかもしれません。西洋詩の詩情を日本に伝えたい、またはその逆を実現するために。そう考える詩人がいたとしても不思議ではありません。研鑽を怠った日本詩人は廃れ、国際的感覚と進んだ言語的センスを備えた外国の日本語詩人の作品が世界的に認められる時代がくるに違いないのです。

 そうなったとき、日本の生ぬるい怠惰に浸りきっている(自称も含む)詩人たちはどうするのか、見物です。


2012年01月28日 - 詩と技巧 9

2012年01月28日 16時17分25秒 | 詩学、詩論

2012年01月28日 - 詩と技巧 9

 前回は、詩と批評は一体のものであって、優れた批評が優れた詩を生み出すこと、詩人には批評力が不可欠であること、批評はするのもされるのも詩人にとってはたいへんなプラスになること、現在の同人には合評をしないところがあるらしいがナンセンスであること、などを論じました。

 今回は修辞について。


修辞

 今までは、筆者自身がよく知らない事もあって、このテーマに触れる事はありませんでしたが、詩の詩たる所以は修辞にのみにあるのではありません。また、凝り過ぎた修辞には、却って抵抗感や反発を感じる人もあり、効果的に修辞を用いるには自分が何を表現したいと思っているかをよく考えた上で決める必要があります。修辞法そのものについてはWikipediaなどに詳しいのでここでは省略し、詩人は修辞法とどう向かい合うべきかについて考察します。

 詩が言語を使った表現芸術である以上、修辞法が一定以上の表現効果をもたらすのであれば、それを使いこなす事は極めて重要な技術のひとつになるに違いありません。しかしながら、いわゆる名詩といわれる作品に、修辞法が良いという評がついている記憶がない所をみると、詩の評価基準としては修辞というのは余り適切ではない様にも思えます。むしろ、ホラーティウスのように、読んだ人が「これなら自分でも書ける」と思って、実際に挑戦してみると大変な苦労を要する、みたいな作品を書きたい、という様なものが良い修辞、という事なのかもしれません。

 そもそも何故修辞技法を使うのでしょうか。詩はもともと劇場で聴衆相手に役者が唱えるものでした。このため、芸術としては音楽に近い性質を持ち、時間経過がなければ全貌が分からなかったのです。聴衆は前の行の余韻を味わいながら次の行を聴き、その時の音的な違いや類似とともに言葉の意味的な連なりの中に散りばめられた技巧を楽しんだのです。修辞法は、言わば言葉の宝石、刺繍のようなもので、常人では成し得ない修辞法を駆使して見事な作品を作るからこそ、詩人の存在価値があるのです。

 このように考えてくると、修辞法は単なる文章作法というだけでなく、発した瞬間に消えていく音としての言葉をいかに印象づけて味わいを深めるかを意識して使うべきものである事が判ります。我々は、書かれた詩を見て、ここが倒置だとか体言止めだとか隠喩がどうしたとか論じますが、音としての表現を味わう時にはそんな事かまってはいられません。先に頭に入ってくるのは音の響きの美しさやリズムが先であり、言語的な意味や言葉の配置などは後で意識されるものです。

 


どのように自分の作品で使いこなすか

 今「詩人」と名乗る人たちが、どのような修辞法を見につけ、どんな珠玉の作品を生み出すのか、私はいちいち確かめた訳ではありませんが、読み合わせをやった時に取り上げた詩について、修辞法の指摘や検討の話題になったのをほとんど聞いたことがありません。逆に、修辞法の多用を嫌う(のか使いこなせる技量がないのか)傾向にある、と感じています。技巧を感じさせない作りにするのは読み手に窮屈な思いをさせない点で大切な事ですが、素人さんが趣味で作る訳ではないのですから、使わずに作るだけでは「詩人」の作といっていいのか、疑問に感じます。

 修辞法の目的は、表現したい事を効果的に浮き立たせたり強調したりして、聴衆に鮮明に伝え、印象づける事にあります。昨今の印刷向けの詩で、顔文字や文字の配列によって絵画的に表現する手法を見かけますが、あれ、どうやって音で表現したらよいのでしょうか? 詩の本質が音にあるとするなら、ああいうのは単なる「遊戯」であって、詩の表現方法としてはいかがなものか、と私は思います。素人さんや趣味でやっている愛好家が楽しむならともかく、詩人を名乗る人がああいう流儀を真似をする必要はないし、やっている人がいるとすれば良識を疑わざるを得ません。

 修辞を上手に使いこなす為には、まず詩人自身の創造力を鍛えあげた上で、その創造力を言葉による表現に結びつけていかなければなりません。当然、豊富なボキャブラリーも語学力も必要になってきますし、新しい工夫を加えていくには発想力、独創性も欠かせません。詩人たちはそういうものをどうやって手に入れ、磨きをかけているのでしょうか。これもいちいち問いただしている訳ではないので、あくまでも出来上がった作品を見ての勝手な判断でしかないのですが、さしてとるべき作品が見当たらない、としか言い様がありません。

 効果的に修辞法を作品内に取り入れるには、定型についてよく理解した上で、あらわしたい内容に適した語句と修辞技法を選択して配置する事になると思うのですが、詩全体に漂わせたい詩情から見て、力強さを出すのか、余韻を残すのか、鮮明なイメージを描き出すのか、キーワードを印象づけるのか、など、目的に適合した技法を選択すべきです。
例えば、律詩では必ず対句を入れる事が定型として決まっていて、詩情を盛り上げる事ができます。西洋の詩型には繰り返しによる強調を軸に聯ごとに続きものの内容を展開して全体を編みあげていく様な手法があります。

 明治、大正の詩人が残した、文語体や漢文調で書かれたフランス詩などの訳詩を読んでいると、原詩に織り込まれた豊富な修辞の数々を、新しい時代の日本語詩でどう表現するか、先人たちの試みや工夫が伺い知れて興味深いです。ただ、名訳と言われる作品でも、確かにそれ自体は面白くあっても、原詩の味わいを再現しているかどうか、という事になると、未だ不満が残ります。先人たちでさえ、まだ西洋詩を消化しきれていなかったのだと思います。そして、十分に新体詩の完成を見る前に、何度も言いますが、口語自由詩が台頭してこの動きの芽を摘み取ってしまい、日本語詩が育つ可能性が捨て去られてしまったのです。

 これも繰り返しになりますが、何でもかんでも西洋詩の真似をすれば良い、と言っているのではなく、西洋詩の影響下、新しい日本の詩を打ち立てる流れが始まっているのに、口語自由詩運動が乱入した結果、安直に自国の口語での詩作のみに溺れて、現代詩はあまりにもベースになった西洋詩そのものについての基礎知識がないままに独善で偏狭な詩世界に陥っているのではないか、という指摘をしているです。詩人を自称する人はもっと勉強しなければ「詩人」を名乗るのは傲慢の極みと言えます。ただ書くだけでは素人さんでも趣味のポエマーでも出来る事なのです。


2012年01月28日 - 詩と技巧 8

2012年01月28日 06時35分44秒 | 詩学、詩論

01月28日 - 詩と技巧 8

 前回は、詩を書くための基礎練習について考察しました。何故詩を書くために基礎練習が必要かについて述べ、言葉を並べてみるところから対句の練習まで、練習項目を列挙してみました。この中には「良い詩を読む」「素読」「筆写」といった、基礎練習以前の項目は入っていませんでした。

 今回は、批評について考えてみたいと思います。

批評

 批評は詩とともにあり、詩を磨き上げていく為に不可欠なものです。優れた批評があればこそ、詩は高められ、人々に理解され得るともいえます。批評されない詩は玉か石かわからず、顧みられる事もなく、それ以上発展する事もありません。本当の詩人は、詩人を称する以上は、どんな詩でも批評出来るだけのセンスや詩観というものを有し、どんな批評をされてもそれを受け止めて自分の糧とし、更に新し作品を生み出していけるだけの度量と柔軟性と想像力を持っていなければなりません。持っていない人は本稿でいうところの「詩人」ではありません。

 詩を批評する事がなぜ詩人として必要な技巧になるか。

 それは、とりもなおさず「詩」というものが批評精神に満ちた物であるからであり、批評的精神活動がなければ詩は生まれてこないからでもあり、その批評的精神を言葉によって表現するのが詩の本質であるからでもあります。ゲーテも言った様に、詩人は常に新しい物を模索し、従来の表現に対して挑戦し続け、自らの思いを表現し続けなければなりません。その根底にあるのが批評の精神なのです。批評精神がいらないなら、詩は存在する意味がありません。即ち、そういう人には、たった一篇の詩をいつも手元に置いて、様々な解釈をして楽しんでいれば事足りるのです。

 洋の東西を問わず、詩人たちは、昔から「真実」ひとつをとっても実に様々な形で詩的表現を生み出し、世の中に問うてきました。詩人が自分の詩的主張を繰り出せるのは、自らに想像力と批評的精神があるからです。既存の詩的表現に対して、「いや、自分に云わせれば、これこそが真実である」と魂の奥底から叫ぶ事が出来るからこそ、使い古されたテーマについて言い尽くす事もなく、詩が書き続けられているのです。そして、それを継続する為には、絶え間なく他人の詩を読み、研究し、批評力を養い続ける必要があります。なぜなら、「それは良い詩だね」で終わってしまうなら、詩人がさらに詩を作る意味が無くなってしまうからです。

 批評力を育てる為には、どんな詩でも読まなければなりません。もちろんその中には好みにそぐわない詩、下手な詩、逆に圧倒的に上手い詩、理解不能な詩など、沢山の種類の詩があります。理解なんか出来なくても、とにかく読んでみる事が大切です。

 これと同じくらい重要なのが、他人が書いた批評を読むという事です。これも、詩をどうとらえるか、あるいは詩はどうとらえられてしまうのかを知る上で、大変役に立ちます。不思議なもので、最初は「そうだったのか」と鵜呑みにしていた批評でも、色々と読み重ねるうちに、次第に「いや、これは違うな」と思う様になってくるものです。それこそ自分の詩観が育ってきている証拠になります。それどころか、自分自身の考えにさえ批評的精神で変更を加えたくなります。絶え間なく成長していく事が詩人の素養のひとつだとすれば、それもまた良しで、とにかく行ける所まで行くしかありません。


どんな批評をするか

 ある詩を読んで、「わたくしはこう思いました」と云うだけなら単なる読書感想文です。批評とするためには、その批評文を読んだ人が啓蒙され、批評対象になった詩の真価について気付き、あるいは考える事が出来る様な内容になっていなければなりません。そういう意味では、批評は詩の解説に終始すべきではなく、詩人が何を狙って表現しようとしてるのか、その意図は達成されたのか、どんな効果があったのか、指摘出来なければ意味がありません。本稿で主要テーマとなっている「技巧」についてなど、そのはるか後に来る問題です。

 詩の何を批評するかは、どんな詩を読んだかにもよりますが、何が目に止まったか、詩人が表現しようとしている事をどう受け止めたかによって変わってきます。


的を得ているか

 評が的を得ているかどうかは気になるところのひとつです。どんな評であれ、その詩の本質をどれだけついているかを客観的に測るものさしはありません。逆にいえば、どれだけ自分の評に自信が持てるか、という問題です。批判のための批判や単なるお世辞に陥らないのであれば、評全体の中に矛盾がない限り、その内容は評者にとっての真実と言ってよいと思います。

 定型では何をどこに配置するかある程度決まっています。その定型の作法を尊重しつつ、詩人自らの主張やオリジナリティをどのような形で表現するかを見極める事は楽しくもあります。こんな語法があるのか、と勉強にもなります。詩がどんな点で優れているのか、逆に何が足りないのかを指摘し、読んだ人を「なるほど」とうならせる批評が出来れば言うことなしです。なお、私は散文詩や無形式の詩は、そもそも詩として認めない立場をとるので批評に値せず、と云うしかありません。


批評されたら

 他人から自分の詩を批評されたらどうするべきでしょうか。それはその場合に依りますが、先ずは感謝を。フランスでは詩人が新しい詩集を発表すると、詩壇こぞって嵐のような、賛否入り混じった批評が沸き起こるとか。日本はこれに比べるとはるかに静かで、彼の国の常識から見れば詩人が相手にされてないからではないか、もしくは日本には批評力のある詩人が存在しないのではないか、と思えるほど。そうでなければ詩壇は度量が狭くて妬みから意図的に詩人を阻害していて、詩人にとってはこれは孤独以外の何者でもない、という文章を読んだ事があります。批評されるというのはそれが他人の目に止まり、批評を加える価値があると認められたからこそいえる事なのです。

 その上で、明らかに間違いを犯しているのであれば改めるべきでしょう。単に好みの問題であれば無視しても構わないでしょう。いちいち対処していたらきりがありません。また、敢えて自分のスタイルを曲げる必要もありません。ただ、批評された事を深読みしてあらぬ勘ぐりをしたり、相手を恨んだりするのは筋違いです。そんな暇があったら、批評は批評として置いておいて、次の詩作に打ち込むなり、自分なりの更に新しい表現を模索するなりした方がずっとましです。なにしろ重さや形状で品質を断定できないものですから、どんどん作る以外に解決の方法はありません。

 古代の詩学にあるように、必要以上に攻撃したり絶賛したりする批評者は要注意です。常に研鑽し続ける詩人の性からすれば、自然にそういう批評者からは離れていくことでしょう。批評者と詩人の間には、どちらが正しいとか高い低いとかを越えた次元でキャッチボールがなければならないのです。


同人の役割

 詩人による同人というのが昔も今も全国各地にあり、活動していると聞きます。そういう場所でもまれるのも良い経験になるはずです。但し、そこが意識が高い同人で、レベルの高い人がいればの話。同じ位のレベルの人同士では、多くの場合、馴れ合いになってしまい、ちゃんとした詩人が育つ可能性は低いです。詩人として成長する事は眼中になく、ただ詩が好きな者同士で集まり、作品を持ち寄って、雑詩を作れれば良い、というなら別ですが。

 一方、合評しない同人、というのも聞きます。あまた詩人が集まりながら、その批評精神をぶつけ合って切磋琢磨しない、というのはナンセンスです。本来同人とは、同じ理想-それも高い理想-を目指す者の気高い集まりであって、和気あいあいと過ごす仲良しクラブを指す言葉ではありません。かつての同人には活発な意見交換が常にあり、時には袂を分かつ事も珍しくはありませんでした。いつからそんな腑抜けた存在になってしまったのかは分かりませんが、なんとも情けない話です。先に述べた様に、ゲーテが見たら「あなた方は詩人ではない」と言う事まちがいなしです。


批評してもらいたいなら

 雑詩や新聞に投稿すると、批評がついたりしてたいへん勉強になると思いますが、選に漏れた場合に、自分の詩がたまたま選者の好みに合わなかっただけなのか、本当に取るに足らないものだったのかは分かりません。最近では詩の投稿サイトというのがあって、投稿すれば必ず批評してもらえる、という事を売りにしているようなので、最初のうちはこういう所で自分の詩がどのように世間では読まれるのかを試すのも良いかもしれません。


本稿最後に

 かく云う自分自身はどうか、というと、同人にも入らず、投稿もせず、ひたすら書きたい事を書きまくるだけという状態でいます。私はもとより詩人ではなく、詩人になろうとも思っていません。むしろ、童謡作曲家の立場から、思わず曲をつけたくなるような魅力的な詩を書く詩人が登場して欲しい、という思いから、詩とはこうあるべきではないのか、という事をつらつら書き始めた次第です。萩原朔太郎は、「詩は音楽の五線譜の小節の枠(定型のことです)から解放されるべきだ」という事を主張し、自由形式の詩を唱えましたが、新体詩に影響を与えた西洋の詩とは、そもそもが音楽と一体のものであり、聴衆を魅了する「音の芸術」として二千数百年以上も発展してきた歴史を持っている伝統文化でもあるので、この主張が傾聴に値するかどうかは非常に疑わしいと言わざるを得ません。そういう事なら詩ではなくエッセイや小説を書いていれば良いのです。私にはこの主張は料理人が「料理は『食』から解放されるべきである」と言って食べたら死んでしまう料理ばかり作っているように見えます。


2012年01月23日 - 日本語トリオレット練習 - 残業のち雪

2012年01月26日 07時20分51秒 | トリオレット

雪が降って大変でした。
私は雪がほとんど降らない地方の出身なので、特に。

 押韻パターン
  ABaAabAB(稀にABbAabAB) ※大文字同士は同一の行とする。

2012年01月23日 - 日本語トリオレット練習 - 残業のち雪

残業はやめだ
さっさとかえろう
外は大雪だ
残業はやめだ
外は寒そうだ
暖かくしよう
残業はやめだ
さっさとかえろう


単なるぼやきになってしまいました。
詩情もへったくれもありません。

 


2012年01月22日 - 詩と技巧 7

2012年01月23日 00時04分46秒 | 詩学、詩論

2012年01月22日 - 詩と技巧 7

 前回は朗読が詩の魅力を引き出す重要な技術であり、おろそかにできないものである事を指摘し、ドイツ語の詩を例に、朗読法の実際について検討し、日本語ではどうか、考察を拡げたのでした。

 もとより日本語は西洋の言語とは違います。西洋言語の詩がやってるからといって、何でもかんでも真似すればいいというものではありません。しかし、現代の詩が、明治時代に西洋の詩の模倣から始まっている歴史的事実を考えると、余りにも見過ごしている、あるいはおろそかにしている事が沢山ある様に見えます。


詩を書くための基礎練習

 さて、今回は、基礎練習について考察します。

 スポーツでいう基礎トレーニング、素振り、美術ならデッサン、音楽なら練習曲、書道でも、料理でも、物事を極めるには地道な練習が不可欠です。詩作だけ「思った通りに書けばいいのよ」でいい訳がありません。そういうアドバイスをする人は、伸びる才能が開花するきっかけを摘み取ってしまっているかもしれず、実に罪深いことです。本人が研鑽と向上を目指さないのは勝手ですが、他人まで巻き込むのはどうかと思います。やはり基礎として押さえるべきポイントは押えて後進の進歩の助けになる様にしておかなければなりません。

 では、詩作の基礎練習とはどんなものなのでしょうか。

 本題に入る前に、ひとつお断り。私は基本的に定型詩しか視野に入れていません。その定型は昔からあるものかもしれませんし、自分が勝手に作った定型かもしれません。ですが、詩全体の構造が決まっていて、形式的に判別可能であれば定型として捉えていくものとします。言ってみれば、ルールや作法は自由に決められますが、決めたものには従う、ということです。文語体、口語体、現代語、古語の別は問いません。また、「よい詩をたくさん読む」とか以前このシリーズで述べた素読と筆写のような項目は、基礎練習以前の問題なのでとりあげません。あくまでも技巧的、機械的な練習を目指します。

 これは、スポーツなら体力トレーニング、柔軟、素振り、ランニングのようなもの。音楽なら練習曲、料理でも出汁とりやフライパン降りなど、他の分野には必ずあるものです。詩だけが基礎なくして素晴らしい作品を、というのはあり得ないことです。

 自称(も含めて)詩人の皆さんは、好き放題書く以外にどんな基礎練習を積んできているのか、作品を見るかぎりでは疑問に思う事が多いこの頃ですが、本稿はあくまでも、楽しみや趣味を越えて、お金を出して人に読んでもらえるだけの物が書ける力を詩人の多くは身につけていないし、研鑽も怠っているのではないか、という現状に対するアンチテーゼとして記述するものです。既に手前勝手に好き放題にすいすい書ける(と思っている)自称詩人や趣味や楽しみで「なんとなく」詩を書いている人には無意味です。


何から始めるか

 実のところ、はじめはどこから、という事を論じるほどこの問題に体系的にまとまった答えはありません。今回は、思いつくまま述べていきます。なお、脚韻パターンを示すAbabA、、、で大文字は脚韻だけでなく行全体が同じ、もしくはほとんど同じ、繰り返しになっている事をあらわします。


1.ことばならべ

 文字通り、言葉を並べていくだけです。色々な方法があります。

  1音からはじめて2音、3音、4音、と音数で並べる。
  あ行、か行、、、とはじめの音ごとに並べる。
  あ行、か行、、、とおわりの音ごとに並べる。
  名詞だけ、動詞だけ、という様に同一の品詞ごとに並べる。
  名詩名句をとりだし、一箇所だけ他のことばを当ててみる。
  手当たり次第に出たことばを、意味や性質でグループ分けしてみる。
  赤-白、男-女、行く-来る、明るい-位など、ことばのペアを出来るだけ沢山作ってみる。
  一つ目から順に連想することばを挙げていき、最後に元に戻る様につなげてみる。
   上記を「幾つ目に戻る」と決めてやってみる。
   更に、最初と最後の言葉を決めてやってみる。
   更に、特定の場所に何がくるかを決めてやってみる。


2.おきかえ

 これも、AとBの置換え、という単純なものから、文の置換え、行の置換えへと
 様々な発展形が考えられます。

  意味を変えずに異なる短文を限りなく書く。
  文字数を1文字増やして書いてみる。
  文字数を2文字増やして書いてみる。
  同様にしてn文字増やしたり減らしたりして書いてみる。


3.へんじ

 詩人が詩に対して詩で返答する、あるいはその詩に和した詩を作って贈る、
 なんてことは、漢詩の世界では割合と当たり前の事だったようですが、
 今の詩人たちはどうなんでしょうか。

 好きな詩やその一節に返事の詩を書く。
  同意
  別意見
  反対
  感動


4.表現

 見たものや聞いたもの、体験、思ったことなどを何でも言葉にしてみる。
  一語であらわす。
  一文であらわす。
  一段落であらわす。
  これを語数、文数、段落数を増やしてやってみる。


 さしあたり、こんなものでしょうか。実はこれ、私は日常的にやっている事です。別に特別な努力が必要な事でもなく、詩を書かない人でも日頃の生活の中で無意識のうちに行っている事も多いと思います。なので、大上段に構えてどんな練習をしなければならないのだろうと思っておられた方には拍子抜けかもしれませんが、あくまでも「基礎」ですから、実行が困難な練習は不向きです。


 この後の段階では、もう少しテーマ性のある事柄を、まとまった単位で書いていきます。以後は、すべて定型で書きます。韻文によるエッセイのようなものになるかもしれません。以下、いずれも漢詩では大昔の人が既に行なっている事です。

5.日記
6.書評
7.旅行記、紀行文
8.詩論
 以上のテーマでまずは七五調四行で。
 慣れたら文字数を自由に決めて、四行で。

 なぜ4行か、というと、西洋詩が結構4行でまとまっている(Stanze)事に由来します。起承転結は意識しなくても構いません。4行でひと通りの主張が入る構成になれば良いと思います。これを聯、散文でいう段落として、もっと長い詩文に組み立てていけば良いのです。


9.脚韻

 脚韻練習です。日本語に脚韻は不要だ、という向きもありますが、私はそうは考えません。日本語の詩的表現力を拡げる為にクリアすべき課題のひとつだと考えます。いつまでも理由をつけて逃げていて、あるいは怠けていていい問題ではありません。勿論本当にちゃんとした答えが出るまではまだまだ何世代かの時間がかかるとは思いますが、挑戦し続ける事で見えてくるものは多いはずです。

 ひとつの種類の脚韻を4回繰り返して2聯作る。 aaaa / aaaa
 二種類の脚韻を交互に2回繰り返して4聯作る。 ab / ab / ab / ab
 二種類の脚韻を2回ずつ繰り返して4聯作る。 aa / bb / aa / bb
 ※慣れたらパターンを増やしてみる。


10.対句

 中国には400年の昔から作詩の練習帳みたいなものがあります。韵や対句の詩語集にもなっていて、しかも全体が故事をふまえた詩文で書かれている、という優れ物です。作成したのはもちろんその当時の名の通った詩人で、何種類ものテキストが存在しました。もともとは科挙を受ける書生の勉強用参考書、といったものらしいのですが、私も詩語と韵と対句の事例をいちどに見る事が出来るのでよく読みました。対句の作法は以下の如くです。

 ・前の句と後の句で完全に対を為す
  ・色は色
  ・数字は数字
  ・生き物は生き物
  ・気象は気象
  ・行為は行為

 最後にちゃっかり対句を入れてしまうあたり、元々漢詩好きで詩といえば漢詩の事だった人間ならではですが、西洋詩にも2行を聯とし、対句表現で綴る詩型があるので、表現方法としては東西を問わずベーシックなものなのだと思います。


 以上をStep1として暫く自分自身も研鑽を積んでみたいと思います。Step2以降にどんな練習が待っているかはまた追い追い発見していきます。



2012年01月22日 - 詩と技巧 6

2012年01月22日 16時38分04秒 | 詩学、詩論

2012年01月22日 - 詩と技巧 6

 前回は、詩にも絵画や音楽と同じく技巧があり、それは反復練習する事によって身につける事が出来る、という話でした。これは、技巧については詩才の有無に関わらず誰でもある程度習得する事が出来る事を意味します。実際、洋の東西を問わず、そのような目的で「これさえ読めばあなたにも詩が書ける」のような入門書が書かれ、広く読まれていた時代もあります。実際どんなものがあったのか、いずれどこかで紹介していきます。


詩の朗読

 さて、今回は詩の朗読について。実を言いますと、私にとってもまだ未知の分野です。

 台湾の(多分小学校の)教育関係のページに朗読法について解説しているものがありました。最近読んだドイツ詩学の本にも朗読法についての章がありました。此等を読むまで、私は朗読はつっかえずに、はっきり発声して読めれば良い程度に考えていたのですが、実はこれも詩の一部、どころか詩の魅力を引き出す重要な要素である事がわかってきました。


定型詩の朗読

 歴史的にみれば、もともと詩とは聴いて楽しむものでした。詩人は聴衆に聴かせて感動させるために、定型という器に美しく美味しい言葉の料理を盛った訳です。

 その完成された形式美を嫌い、「食い物なんてその辺に置いて自由に食べればいいじゃないか」といってレシピを廃し、食器を廃棄し、マナーを廃棄し、食材をそのあたりにぶっちゃけて手づかみで食べる、それどころか日常すら捨てて、人が食べる物かどうかもわからない物まで食べているのが現代詩の世界です。

 それはさておき、定型詩には、本来詩人が聴衆に何をどう訴えたいかという思いと計算が織り込まれています。定型には、発せられる言葉の順番も、アクセントや韵の配置も、内容に合わせて沢山の試行錯誤を経て現在伝えられている形に定まった訳で、おろそかにはできないものであるといえます。

 ドイツ語やフランス語の詩や漢詩の朗読CDを聴いていると、余り意味は分からないのですが、表情が豊かなのにびっくりします。一方、詩人の集まりに顔を出すと、時々朗読が入るのですが、テキストリーダーの声を聴いているみたいでまるで生命力を感じません。日本語の詩は音声で感動を与えるには不向きなのかもしれませんが、現代の詩の系譜をたどると明治の詩人たちが西洋詩情をとりいれる事を目指したのに端を発するとすると、朗読においても西洋言語の朗読に学ぶべき点が多いのではないかと考える様になり、本稿を書き始める事になった次第です。頭ごなしに「日本語はこれでいいんだ」で片付けるのはなく、先人たちの偉業を引き継ぐ者としての一考があっても良いのではないか、と思います。

 ここまで書いて今更ですが、本稿では非定型詩の朗読は対象外とします。乱暴に言えば、勝手にやってくれ、という思いです。

朗読法の要点

 実は、手元に朗読法についての資料があるのはドイツ語だけなのですが、イントネーション、音の長短、高低、アクセントの位置など事細かに決められている事が書かれています。そして、詩人はそれを全てふまえた上で自分の言葉を配置し、比類なき作品へと仕上げている事も合わせて説明されているのです。日本語の詩でそこまで計算されて作られているものが果たしてどれだけあるのか、また、あるべきなのかは、私には今すぐには判断出来ませんが、恐らく何も存在しないからこそ、日頃聴く詩の朗読では感動する事がないのだと思われます。また、かく云う私自身も朗読のされ方まで考慮した詩作は行なっていません。

 ドイツ語詩の朗読法から、日本語詩の朗読においても今後考慮すべき点を拾い出してみました。なお、以下は標準的な詩について、こう読んだら良いのではないか、と筆者が思った事であって、そういう朗読法が存在する訳ではありません。また、ドイツ語詩を聴いた感想も、筆者がそう感じたという事であって、ドイツ語詩がこうだ、という意味ではない事を予めお断りしておきます。

1.リズム
 何を読んでいるか、より先に、リズムが感じられる読み方。
 詩の朗読で最も大事なポイントはリズムにあるといえます。
 ドイツ語の定型詩の朗読を聴いて、真っ先に感じるのがこの「リズム」です。
 ドイツ語では長短や高低より強弱が際立って感じられますが、
 日本語定型なら七五調、八六調など、音数のまとまりによる基本の調子を元に、
 思わず最後まで聴き入ってしまう流れを持たせる事が必要です。
 最後まで、というのは、まだ先があるぞ、という予感を伴いながら聴かせるという事です。
 それは、音の区切りと意味の区切りと読みの区切りが一致する、という事でもあります。
 不要な息継ぎや誤った抑揚は、これを乱すので聴き辛いばかりでなく、聴衆の感心を離れさせます。
 非定型詩であっても、部分部分ではこうしたリズムを持たせる事は可能です。
 逆に、全くそうしたものが感じられない詩は駄作だと私は思いますが、結構沢山見かけます。
 一方、一定のリズムが長く続くと単調になって飽きられてしまうので、
 途中でリズムを変える事は、新鮮な変化をもたらすものとして、
 一定の効果を上げられる、とされています。
 定型でも、微妙にリズムを変えたり、リフレインを入れたりして変化を持たせる例があります。


2.アクセント
 リズムを成り立たせる重要な要素のひとつがアクセントです。
 ドイツ語の強弱は、強調したい単語を引き立たせますし、
 定型ではアクセントの個数も位置も決まっていますが、
 日本語では同じ方法はつかえません。
 日本語では強調したい語の区切りをどこに置くか、に置き換わります。
 つまり、1のリズムで触れた、七五調のような基本調子が決まった時点で、
 区切りもいきおいそれに合わせて決定される、と考えて良いと思います。
 当然、区切りと区切りの間でひとつの意味を持つ様な語の配置になります。

3.イントネーション
 2の、なめらかに繋ぐ部分には自然な日本語のイントネーションが割り当てられます。
 詩だからといって、特別イントネーションを変える必要はないと思います。
 基本は標準語のイントネーションを踏襲します。
 方言詩は方言のイントネーションを踏襲します。

4.情緒
 喜怒哀楽をはっきり分かる様に。といっても、不明な場合もありますが、
 感情的に中立な場合は主張したい部分を読む時に盛り上がる様に、
 盛り上がるとは、その前後に間を入れて、部分を際立たせ、
 主張したい内容を大きめの声でゆっくり明瞭に読むことです。
 西洋の言語には、感情移入するときに
 母音に複数の抑揚をつけて伸ばす言い方がありますが、日本語にはありません。
 このため、西洋風の抑揚をつけて読むと、一定の効果が上がる場合があります。
 詩人がどんな詩情で作品を書いたかに思いを馳せながらでなければ盛り込むのは困難ですが、
 逆に、読み手がどんな詩情を込めながら読んでいるか、という事であっても構わないと思います。
 例えば、深刻な内容の詩でも茶化しながら読めば、滑稽詩のように響く事でしょう。


 ドイツ語の朗読法を読んでいて一番印象に残ったのは、朗読の楽譜のような記号体系があって、それに従って読めば、一応「らしく」聞こえる様な読み方が出来る様になっている、という点です。強弱、アクセント、高低、休符、息継ぎまで細かく設定されています。詩文とその記号が併記されていれば、一応は詩の朗読者になった様な気になって、読み進める事ができます。日本語の詩の朗読解説の文書で、そういうものを私は見た事がありません。

 何でもかんでも西洋の真似が良いとは限りませんが、現代の日本の詩は、明治時代に西洋の詩を模倣して取り入れた歴史があるのですから、いちど見なおしてみるのも意味深いのではないかと思います。


 


2012年01月20日 - 日本語トリオレット練習 - 石

2012年01月20日 02時04分34秒 | トリオレット

2012年01月19日 - 日本語トリオレット練習 - 石

 13(4、4、5もしくは8、5)音にしてみました。
 押韻パターン
  ABaAabAB(稀にABbAabAB) ※大文字同士は同一の行とする。


2012年01月14日 - 日本語トリオレット練習 - 石

 真冬の 驟雨に 追われつつ
 慌てて 過ぎ行く 道すがら
 路傍に 転がる 石ひとつ
 真冬の 驟雨に 撃たれつつ
 濡れるに まかせて 止むを待つ
 孤高の 姿を 愛でながら
 真冬  驟雨に 追われつつ
 静かに 過ぎ行く 道すがら


意外と作るのが大変でした。何故かというと、随所に繰り返しがあるので起承転結に慣れた自分には、流れがなかなか作れなかったのです。繰り返し、というのは 後戻り、のようにも思えて、前進が好きな私にはちょっと違和感があります。でも8行というサイズは結構魅力的です。2つ、3つ、と重ねていくと、結構面白 い事が出来そうです。


2012年01月17日 - 日本語ソネット練習 - LOVE'S OMNIPRESENCE の訳詩

2012年01月17日 06時00分17秒 | ソネット

The Golden Treasury Of the Best Songs and Lyrical Poems in the English Language
( Various)

からの引用です。 Project Gutenbergの掲載コンテンツなので著作権的な問題はないと思っています。

なお、このソネット、どういうわけか中国語の訳がついていて、結構見かけます。中国の英文学の学習者は皆この詩を読むのでしょうか。

ともあれ、ほんまもんのソネットを日本語で再現するのは大変でした。とても自分で決めた定型を維持することは出来ませんでした。明治、大正の新体詩の人たちが七五調で再現しようとした理由がよくわかります。この詩、要は君と我の間がどんなに遠く隔てられようと、我は君に愛を捧げる、といった意味になるようですが、いわゆる逐語訳ではありません。あくまで筆者の日本語ソネット練習の一環ですのでちゃんとした意味を知りたい方は、しかるべき訳詩か翻訳をお捜しください。


     25. LOVE'S OMNIPRESENCE.  (1602)     by J. SYLVESTER.

     愛は何処へなりと

     Were I as base as is the lowly plain,
     And you, my Love, as high as heaven above,
     Yet should the thoughts of me your humble swain
     Ascend to heaven, in honour of my Love.

   我、低き野に在ろうとも
   君 天上にあらば
   卑しき下僕と思われようとも
   天まで赴かん 愛の誉れあらば

     Were I as high as heaven above the plain,
     And you, my Love, as humble and as low
     As are the deepest bottoms of the main,
     Whereso'er you were, with you my love should go.

   我、高き空の彼方に在ろうとも
   君、低き野に居らば
   我赴かん、地の底であろうとも
   何処へなりと、わが愛は君と共に往かん、君あらば

     Were you the earth, dear Love, and I the skies,
     My love should shine on you like to the sun,
     And look upon you with ten thousand eyes
     Till heaven wax'd blind, and till the world were done.

   愛しき君よ、汝が大地、我が大空なれば
   わが愛は太陽の様に君を照らさん
   そして、天、光を遮り、世界、滅するまで
   君を萬の目(まなこ)で見つめん

     Whereso'er I am, below, or else above you,
     Whereso'er you are, my heart shall truly love you.

   我何処(いずこ)にあろうとも
   眞實の愛を捧げん、君何処にあろうとも

 

ソネットにおける起承転結の流れがよくわかる作りになっています。いわゆるシェイクスピア型です。
最初の4行は自分が低きにあり、君が高きにある状況。次の4行はその逆、3つめの4行は、高い低いではなく天地に隔てられた状態。それぞれの状況下における自分の愛について語り、最後の2行で自分の愛は空間的な隔たりなどものともしないぞ、と高らかに宣言して終わる、という作りです。私など、なんとも芝居がかった印象を持つのですが、こういう詩を贈られるとどんな気持ちになるのでしょうか。
 


2012年01月14日 - 日本語トリオレット練習

2012年01月14日 14時13分37秒 | トリオレット

2012年01月14日 - 日本語トリオレット練習

 

 日本語でフランスの詩型、トリオレット(Triolett)を使った作詩を。
 トリオレットの特徴は以下の通りです。

 1.構成は8行。弱強音節で4アクセント。
 2.Kadenzは二種類。
 3.主要な意味を担うのは第1行と第2行。
 4.第1行と第4行は同一。もしくは多少の変更が許される。
 5.第1第2行と第7第8行も同一。もしくは多少の変更あり。
 6.他の詩行は押韻する。

 押韻パターン
  ABaAabAB(稀にABbAabAB) ※大文字同士は同一の行とする。

 日本語では以下を基本ルールとします。
  1.繰り返し行
   ・第1第4の繰り返し(一部修正可)
   ・第1第2と第7第8行の繰り返し(一部修正可)
  2.押韻(Kadenzは考慮しない)
  3.行あたりの音数は8とする。

 以上を旨として日本語トリオレットを作ってみます。


日本語トリオレット練習 - 違法喫煙者

 人格は下賎
 法に従わず
 汚物を拡散
 人格は下賎
 我欲が優先
 人を顧みず
 人格は下賎
 法に従わず

 8音ひとつじゃやっぱり狭いか。。
 英語やドイツ語の同型の詩を訳しても、足りない所が多く出ます。
 音数についてはやはりもうひと工夫必要です。


 私も禁煙中ですが喫煙者です。
 私の居住区では屋外の歩行喫煙や路上喫煙は禁止です。
 その他、法律や条例で喫煙が禁じられている場所は随分増えました。
 ですが、罰則もあるのに守られていません。違法行為はいけませんね、やっぱり。
 此等の反社会行為者を観相すると、当然鬼畜以下、
  取るべき所がない風情で犯罪者やテロリストの様です。
 そればかりか同じ空の下を歩いている事さえおぞましい限り。
 関わると悪業悪運まで伝染(うつ)るので、
 「人間」の皆さんは絶対に近寄ってはいけません。



2012年01月08日 - 日本語バラッド練習 - 扉

2012年01月08日 07時41分07秒 | バラッド

日本語バラッド練習 - 扉

8,6,8,6音を1つの聯としてそれを繰り返す。単純な作りですがこれがなかなか難しいです。ひとつの聯の最終行に出てきたキーワードを次の聯の最初の行でも使う、という古典的な手法も混ぜてみました。今は理屈より練習、練習、といったところです。人の魂が古の幸福を求めて彷徨い、最後の救済が待つ扉にたどりつく、という筋です。

過ぎ去りし歴史
 記憶の森
ひそやかに眠る
 幸福あり

幸福は何処
 探求の森
裏切りの連鎖
 孤独あり

麗しき孤独
 迷路の森
人間(じんかん)の縁(えにし)
 寂寞あり

寂寞の果てに
 幽玄の森
果てしなき生滅
 輪廻あり

輪廻の末路は
 封印の森
扉の向こうには
 救済あり

最後の救済
 終焉の森
希望は唯一
 扉にあり