茫庵

万書きつらね

2012年03月08日 - 象徴詩 3

2012年03月09日 00時44分54秒 | 詩学、詩論

象徴詩 3

今回はBaudelaireのCorrespondancesの第二聯です。

 第一聯を受けて、この聯では象徴の森で起きている事に ついて更に詳しく述べています。それは感じとるものであり、それを認識するにはそれなりの感性を持たなければならない事も示唆しています。ただし、聴覚、 視覚、嗅覚は登場しますが味覚と触覚、さらには第六感のような超感覚も、この後の聯も含めて出て来ることはありません。はっきり言って物足りないです。も ともと西洋のシンボリズムは完成度が低いので象徴といってもこんなもんなのか、と思いました。それはさておき。

 前の聯では森の中を「ひ とりで」行く人がいましたね。「ひとりで」というのが結構重要です。象徴を通して感応するのはひとりひとりが自分で個別に行う事であり、誰かの助けを得た り代わりにやってもらう訳にはいかない事を暗示しているからです。この「ひとり」をとりまく象徴の森の様子が第二聯です。

 遠くから長く響きあう木霊。こちらは複数形です。それにより、森のあちこちから響いてくる様子が伺えます。そ数々の木霊が暗くて深いところで混然と一体 化するのです。劇場やホールで「やっほー」などと叫んだら、そこら中から反響が返ってきて最後にはわんわんうなって何だかわからない状態になると思います が、それを暗く深い処でやっているのです。それで、ああ、暗くて深いんだ、と思ってたら後半、夜は闇、明けては光が広大な世界を包むように、芳しい香りと 艶やかな色彩と心地よい音響が互いに感応し合う、と続きます。

 香りと色と音が互いに返事をし合うのでしょうか。アニメなどで、遠くに飛び去っていく飛行機などが見えなくなる表現として、最後に一瞬輝くことがありま すが、効果音としてキラッといった音がかさねられていたりしますね。臭いも同等で、悪臭が漂うのを煙のように表現するのもよくあることです。

  第二聨のもうひとつの重要な特徴は、comme、即ち「様な」という直喩が多用されていることです。西洋の詩文表現では直喩は稚拙とされ、避ける傾向が強 いはずなのに、この天才めちゃ悪おやじのBaudelaireはなぜこのように表現したのでしょうか。そこがまさに本作が象徴詩たる由縁です。つまり、 「のような」と表現したものが最終目的ではないのです。読者はこの分かりやすい表現に騙されてはいけません。その向こうにあるものに視点を向けるべきなの です。

  第二聯しめくくりはふたたび名詞の活用について。人はひとりでしたが木霊、香り、色、音は皆複数形です。それが渾然一体となったり互いに感応し合う場所は 単数形です。つまり、沢山の物がひとつに混じり合う様子が描かれているのがこの聯の特徴です。そのひとつは広大であり深淵であり暗黒であるのです。日本語 の訳詩はこのあたりのスケール感が欠如しています。読者が原詩の持つ独特なイメージを感じ取る事は恐らく不可能でしょう。

 もっとも、日本語の詩歌をフランス語で原語通りに味わえるか、というと、これもどうかと思います。結局のところ、言葉で表現する芸術を最も深く豊かに味わうには原語が一番、という事なのだと思います。