茫庵

万書きつらね

運命学 - 子どもの才能 1

2011年12月30日 12時54分23秒 | 易学

易学 - 子どもの才能 1

久々に易学ネタということで。

 別に子どもでなくても良いのですが、いい歳した大人が今更のように自分の才能について占いで調べても「何するものぞ」ってなもので、何の意味もないです し、恐らくそれで何がしかの才能があることを見出せたとしても、その人は十中八九その才能を開発する事なく残りの人生を終わってしまいます。 人間とはそ ういう生き物です。

 なので、どうせなら、情報が無駄にならない可能性の高い、年少者の才能、という事について、考えてみたいと思います。

 春秋戦国の昔より、中国の王たちはいつも賢者を求め、賢者が仕えている、という事をステータスにもしていました。 中国の易学は、誰がその賢者であるか を知る手がかりを提供する学問として発展しましたが、この傾向は唐、宋、明以降には「科挙」に合格して出世出来るかどうか、という論点に置き換えらること になりました。 日本にはその一旦が伝わり、桜田虎門により「四柱推命」として紹介され、後世に至って阿部泰山によって更に学術的に体系づけられ、その地 位を確立しました。

 哀しいかな。 桜田虎門や阿部泰山の努力空しく、現代では「四柱推命」といっても一般には他の占いと同じくマヤカシの一種位にしか評価されていません。  日本人の文化レベルの低さからいえば、その真価が理解出来ないのも当然といえば当然なのですが、西洋では占星術が大学のカリキュラムにもあり、カウンセ ラーの卵たちが専門の学問として学ぶ体勢が整っているのと比べると、我が国では、四柱推命のみならず、この種の伝統的体系が、学術的に探求される事なく、 単なるひまつぶし、いんちきの類に列せられている事は甚だ残念に思います。 この責は愚かな一般大衆とこれに迎合して程度の低い書ばかりを出して儲けんと するマスコミ各社の負うべきところ大であります。

 さて、そろそろ運命学、ここでは特に本邦にて「四柱推命」と呼ばれているところの、中国の「命理」「八字」「子平」の学では、子どもの才をどう評価するかについての論に入りたいと思います。 ここでは此の学の名称を「命理」学として進めていきます。


子ども運が悪い親

 ここでちょっと気になるのが、子ども運が悪いとされる方。 子ども運が悪い人を親に持った子どもは不幸になるのでしょうか。 そういう世迷言を真に受け ている人は、そう信じてこの先もお過しください。 ここから先を読んでも無駄ですし、運命学はそういう人を相手にはしません。
 子どもの運勢は子ども自身の命式(生年月日時に干支を配したもの)を元に判断します。 当たり前の事です。 あなたの運勢を判断するのに両親の命式を判断する事があるでしょうか。 ちょっと考えれば誰でも分かる事です。


子どもの運勢

 さて、肝心の 子どもの運勢について。 命理では命式を設計図とし、流年を航路とします。 つまり、運勢を測るものさしとして、自身の運勢的特徴を体と し、どんな局面に置かれるかを用として判断をすすめていきます。 体はバランスがとれている事を良しとし、偏りが大きいのを忌み嫌います。 人間として喜 怒哀楽が調和していて自分の置かれた立場をよくわきまえて分別ある行動がとれる人が吉な人、という事になります。 一種の絶滅危惧種的人間像です。


子どもの才能

 人の才能には方向性として二種類あります。 ひとつは理性的な追求。 もうひとつは感性的な追求です。 学者か芸術家か、端的にいえばという事です。  どちらが向いているかも命式上は判りますが、むしろ現実的判断としてはどちらに向いた環境が用意できるか、という事の法が影響力が大きいです。 環境とは すなわち多くの場合両親が提供するものになります。


 世の人の親たる皆様。 あなた方が浅学無才をかこって生きるのは勝手ですが、我が子の才までも見出さず理解せず埋もれさせてしまう、というでのは、これ は罪と言わざるを得ません。 その才が開花したらどれだけ社会や人類に貢献し、本人の幸福の礎になり得るかを考えると、そうはたやすく捨て去る事が出来な いものと心得るべきです。 子どもにとって、この意味では親が一番の恩人であり、敵にもなり得ます。

   才を見出すは命理にあり。
   才を育てるは両親にあり。

 なお、これは、当然ですが、何でもかんでも英才教育をじゃんじゃんやろう、と言っているのではありません。 須らく人の親たる者は、才を見出す眼力を養い、見出した才を本人とともに育てる器たれ、という事です。 私などに云われるまでもない事ですね。


易論 - 第一回 心の4つの窓

2009年01月02日 19時24分54秒 | 易学
二〇〇九年一月一日

なんか、とても適当ですが、以前から温めていた易論を
そろそろ形に、ということで、少しずつ書き連ねていこう
と思います。ただ、中身は易論ですが、形式は出来るだけ
漢詩っぽく、と、心掛けていきたいと思います。

人には心の4つの窓がある、という論は、昔新人研修か何かで
講師の説明で聞いたことがあります。今となっては、誰の何と
いう理論かは知る由もないのですが、なかなか良い考え方だと
思って、自分の易断にもとり入れたのでした。


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誰云心中有四窓  誰か云う、心中に四窓有りと
余題一詩寄心窓  余、心窓に寄せて一詩を題す

開心窓
(心の窓を開く)
                風雷山人

彼我能開是一窓  彼我能く開く 是れ一の窓
(ひがよくひらく これいちのまど)

唯我開之是二窓  唯我のみ之を開く 是れ二の窓
(ただわれのみこれをひらく これにのまど)

唯人開之是三窓  唯人のみ之を開く 是れ三の窓
(ただひとのみこれをひらく これさんのまど)

人不能識是四窓  彼我識る能わず 是れ四の窓
(ひとしるあたわず これよんのまど)



【大意】

心の中には4つの窓があるといいます。
この窓にちなんで一詩作ってみました。

心の窓を開けて

彼我能く開く 一の窓  天下に示す我が魂
(ひがよくひらく いちのまど、てんかにしめす わがこころ)

我のみ開く  ニの窓は 人には見せぬ志
(われのみひらく にのまどは、ひとにはみせぬ こころざし)

我には見えず 三の窓 人から観ゆる 我が姿
(われにはみえず さんのまど、 ひとからみゆる わがすがた)

誰も識り得ぬ 四の窓 真の己はここに在り
(だれもしりえぬ よんのまど、 しんのおのれはここにあり)

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要は、易は、4つの窓すべてを開くことが出来る、と言いたい訳です。
なぜ易なのか、易以外に出来ないのかについては別な議論にまかせる
として、ここではそういうことでスタートしたいと思います。

第二回はいつのことになるやら。。。