茫庵

万書きつらね

占術 - 凶と出たらどうする?

2011年12月31日 22時05分27秒 | 占術

占術 - 凶と出たらどうする?

 どうもしません。

 たまに占ってもらって悪い事を言われたら本当に悪い事が起きた、という意味の事を言う人がいますが、大きな間違いです。

 そもそも占断の結果は未来を予言したり、まして原因になったりするものではなく、これをほうっておくとこういう結果になるよ、というシナリオリーディン グのようなものです。結果には原因がつきもの。むしろ何が原因で何が起きるというのか。なぜ凶なのかをよく吟味して、本当に起こり得る未来なのかを判断し てから対処を決めなければなりません。そして、前言の通り、占術は未来の原因にはなり得ないのです。

 吉か凶かを気にするよりも、現在の自分が置かれた状況をトータルに見直して、問題があるかないか、将来方っておくと問題になりそうな芽はないかをチェッ クして、問題が発現する前に対策を講じるために占術による分析がある訳で、占術には緻密な分析が要求され、意思決定者には的確な判断が要求される訳です。

 何の努力もしないで無条件に幸運が訪れる、なんて事は世の中まず起こり得ません。

 そんな事を告げられるほど占術は愚かではないし、暇でもないのです。占断結果をどう受け止めるか。これは占術の運用上の問題であって占術自体に責任のあ る話ではありませんが、世の中には無意味なまでにこれを気にする人がたまにいるのが気になります。繰り返しますが、占いで凶が出たから悪い事が起きるので はなく、もともと悪い事が起きるだけの原因があるから起きるのです。占術はそれを事前に発見するためのツールにすぎません。そして、ツールである以上、そ れを上手に使って役立てる事も出来るし、使いこなせず、結局凶運にみまわれてしまうケースもあるのです。

 占術を用いるとき、正しく向かい合わないと、せっかく自分に備わった可能性を見誤るだけでなく、災いを防いで身を守る事すら失敗する事になるのです。し かし、それはあくまでも用いる人の責任です。しかしながら、そういう態度を表明して大衆を啓蒙する占術家が少ない、という現実も一方にはあるようで、占術 家に嫌な事を言われて気にしてたり、占術に全く否定的になってしまっている不幸なケースが後を絶たないのも残念な現実です。Yahoo質問箱などを見る と、そういう質問が山ほどあります。

 やはり程度の低い文化レベルに甘んじている一般大衆と、それに迎合して儲ける事しか念頭にないマスコミが主流を占めているような国では、アカデミックな占術体系は育たないのでしょう。これはどっちもどっちで手のつけどころがない感じです。


占術 - おみくじ

2011年12月31日 16時59分00秒 | 占術

占術 - おみくじ

 おみくじの季節。
 寺社境内には沢山の人がごったがえして一喜一憂します。

 本来の、信心の在り方を見直す為のお告げ、という意味合いは薄れ、
 単なるひまつぶしや娯楽の類に変貌を遂げた感が拭えませんが、
 よく聞かれる事について私見ながら述べてみたいと思います。

1.吉凶の序列
 これはそのおみくじを販売している処で確認するしかありません。
 私自身は吉>小吉>中吉>大吉>大凶>中凶>小凶>凶
 と思っています。大中小は、プラスマイナスのぶれの大きさなので、
 良い半面悪い反動も大きい、という理解でいます。要は、ハイリスクハイリターン
 というわけです。従って、うまくいけばうんといい、が良いか、まあまあ
 自然に良い方向に流れるでしょう、というのを良いか、という選択で、
 私は後者を優先した、というだけにすぎません。
 もちろん諸説あります。

2.何度も引く
 昔、明智光秀が戦勝祈願に立ち寄った愛宕神社で3度も引いた、という故事が
 伝えられていますが、感心しません。このご時勢、お寺や神社は
 「どうぞ何度でも」と云うでしょうが、明智光秀が意中の籤を手中にした後
 どうなったかは歴史が語ってくれるところです。

3.樹の枝に結ぶ
 これも販売している処で確かめるのが無難です。
 よく云われるのが悪い結果だったら枝に結んでくる、というものですが、
 結果に関わらず結ぶ場合も、常に持ち帰る場合もあるようです。
 私は年初のおみくじは一年の糧とすべきものなので必ず持ち帰ります。

4.どこのおみくじが当たるか
 これは正直判断できません。
 何を以て当たりと断ずるかにもよりますが、
 言ってみればすべて当たりというしかありません。
 その寺社に行って、おみくじを引く、という事も、
 一種の縁だと考えられます。とすると、
 その時点において、そのおみくじの言葉が何らかの
 意味を持つからこそ引いた、という解釈も成り立つ訳です。
 私は自分の行為を無にしたくないのでそう考えています。

 

もひとつおまけです。

5.合格祈願
 気休めにしかなりません。
 ちょっと考えれば分かります。
 ライバルも皆同じ気持ちなのですから、
 最後にものを云うのは実力が発揮出来るかどうか、
 ということです。どんな場合でも実力が発揮出来る様に
 コンディションを整える一助になるなら意味があります。

 


占術 - 何を根拠に判断するのか 1

2011年12月31日 16時06分14秒 | 占術

占術 - 何を根拠に判断するのか 1

 世に占術への誤解偏見多く、
 通説常識、必ずしも眞實ならず。

 占術の徒にも世に迎合し、
 自らの術を貶め、笑い者となり
 財を為す者、あるいは名を得る者多し。

 是れ、両ながら悪しき様にて
 いずれ占術の真価を滅せざるを得ず。

 余、此の學の未来を憂ひ、茲に此の術、
 聊かでも眞實への扉を残すべく
 記(しる)さんと欲す。

 願わくば俗説迷信を廃し、
 俗を改むるに一助たらん。
 

 これより占術のしくみについていくつか紹介していきます。
 今回は私の知っている占術全体の紹介です。

1.術数
  私が研究している占術の事を中国では「术数(shùshù)」といい、他に命(mìn)、相(xiàng)、卜(bǔ )があります。 日本で人気の星占いや四柱推命など、生年月日時を入力として主体の性質と行く末を推察する學を命といい、相は手相、面相、印相、堪輿、家 相、しぐさ、筆跡など観た目からそこに秘められた本質を探る學、卜は易、タロット、花占いなど、結果の良し悪しを占う學です。

2.卜
 私が専門とするのは卜、中でも梅花易数(MéiHuāYìShù) と云われるものです。宋の邵雍(Zì YáoFū 1011 - 1077)が創始者といわれています。 日本にも梅花心易として伝わり、江戸時代には指南書が出版されたりしています。卜に類する占術としては、易のほかに、六壬、奇門遁甲、タロット、ルーンな どがあります。志を遂げんとする人が、その成否を尋ねる、というのが卜のスタンスです。 従って、日本人にありがちな「AとBのどちらを選んだらより吉運か」という怠惰で無責任な質問の答えは出せません。まず意思を固めてから天に是非を問う、という気概がなければ意味がありません。

3.命
  本稿でおもはこの命、なかでも日本では四柱推命として知られる、命理學(もしくは八字、子平)を中心に取り上げます。命のカテゴリには中国占術でも占星術 (七政四餘)、紫微斗数、西洋でも占星術、数秘術やタロットの応用技術なども入ると思われますが、共通しているのは生年月日時を元に、人の性質や才能、一 生を通じてたどる運勢を判断することです。歴史的には東西を問わず、是等はむしろ天下国家を論じるもので、個人の運勢を観る様になったのは後世になってか らの事です。

4.卜と命のハイブリッド
 日頃よく目にする占術として、卜と命の両方の性質を持ったものに九星気学、および陽宅が あります。これは主体になる人の生年月日時から命宮などその本人の特質を決定するタイプを特定し、そのタイプの得意とする日時や方位を割り出して、具体的 な行動の結果、どう運気の上下に影響するかを論じる學です。九星気学は奇門遁甲が日本に伝来した後簡略化され、ねじ曲げられた物で迷信にすぎない、という 論もありますが、ここではその真偽は特に追求しません。ただ、命理に比べると、内容的にいかにも古臭く、前時代的に見えます。

5.相
 物の形から内に秘められた眞實を推察する學で、人相(面相)、手相、家相、筆相、印相など、相と名のつくものの総称になります。筆相(筆跡占い)など近代では行動心理学を用いて重厚な論理武装をしているものもあります。最近日本でも定着して人気を博している偽物の風水も、 元々は地理風水といって、古代中国の地政学の一種でした。都市計画を立てるのに、地形の良し悪しを判断する學として発展したものです。また、都市発展の重 要な要素のひとつとして考えられていた、先祖を祀る土地、墓地の建設等もこれで判断していたようです。個人の住居や間取りなど、小さな物を判断するのは本 来の風水の目的ではありません。こちらはむしろ家相学の範疇とするところですね。日本の風水の流行りを見ていると、何千人分もの食事を一気に作る様な工場 と器具を使い、たった一人分の昼食をスタッフそ総がかりで一所懸命こしらえている、という風に見えて大変滑稽です。日本の読者ってこういうのを有難がるん です。ま、人好き好きですのでそういう人を見かけても、私は何も云いませんが。

5.血液型(要注意)
 上記のどれにも当たらな い、ついでに言えば占いではないものに、血液型診断があります。血液型診断は、日本では占いの一種として人気ですが、世界的には必ずしもそうではなく、ナ チスの劣等血液型(Bのことです)撲滅論など、差別の道具として使われた暗黒の歴史があり、他の占術と違って、個人の生物学的遺伝情報をそのまま能力判断 や運勢に結びつける、という点が人権主義者からは攻撃の的にもなっていて、うっかり外国人に血液型など尋ねようものなら、気味の悪い奴だというレッテルを 貼られる、といいます。こういう理由により、私は血液型を占術の範疇には入れない事にしています。


占術全体のしくみと位置づけ

 基本的に、占術とは以下の特徴を持った問題解決ツールだ、と私は考えています。

 1.決まった論理体系とシンボリズムを持つ
 2.決まった手順を踏めば必ず答えが出る
 3.科学ではない

1.決まった論理体系とシンボリズムを持つ
 どんな占術にも「學」といえる論理的な体系と、何をどう解釈するかを定めたシンボリズムが付属しています。問題に対してそのシンボルを選定し、選定されたシンボルを現実に合わせて解釈する、というのがつまるところ占術がやっている事になります。

2.決まった手順を踏めば必ず答えが出る
 占術には必ずその占術の答えを出すための手順が決められています。手順が誤っていたらその答えも取るに足らないものでしかない、というのは他の事でも当然ですね。何かするのに決められた手順を守らないのでは、正しい結果が期待出来るはずがありません。占術でも同様です。

3.科学ではない
 占術を科学に結びつけようとする信者がたまにいます。しかし、占術は科学たり得ません。理由は明白で、まず実験が出来ないこと、そして結果についても客 観的に仮説を証明する事が出来ないものを扱う、という理由に依ります。「占いは統計だ」という人もいますが、これも間違った見解です。理由は同様で、統計 学上有意のサンプルとするには、ターゲットはその占術とは無縁で、置かれた状況も一切そういう情報が無い環境でなければなりません。でないと、例えば獅子 座生まれの人は、時間経過の中で、ついつい流通している獅子座のイメージを取り込んで、それっぽく振る舞ってしまう、といった事があるからです。これを以 て獅子座の行動結果の統計データとして扱うのは甚だ不公平といえます。他の類似の場合も同様です。もし統計をとるなら全くその占術の情報がない処でやらな ければ意味がありません。
 占術は個々のケースについて独自の方法と理論で答えを追求するためのものなので、別に科学たる必要もありません。むしろ科学には出来ない事を扱うので同列で比較する事にも意味がありません。


 以上、簡単ですが、占術の種類としくみ、そして一般に誤解されやすい点について紹介しました。次回からは、実際に占術がどのように機能して答えを出していくか、占者はどういう気概でこれを運用していくべきかを論じます。

 


運命学 - 子どもの才能 1

2011年12月30日 12時54分23秒 | 易学

易学 - 子どもの才能 1

久々に易学ネタということで。

 別に子どもでなくても良いのですが、いい歳した大人が今更のように自分の才能について占いで調べても「何するものぞ」ってなもので、何の意味もないです し、恐らくそれで何がしかの才能があることを見出せたとしても、その人は十中八九その才能を開発する事なく残りの人生を終わってしまいます。 人間とはそ ういう生き物です。

 なので、どうせなら、情報が無駄にならない可能性の高い、年少者の才能、という事について、考えてみたいと思います。

 春秋戦国の昔より、中国の王たちはいつも賢者を求め、賢者が仕えている、という事をステータスにもしていました。 中国の易学は、誰がその賢者であるか を知る手がかりを提供する学問として発展しましたが、この傾向は唐、宋、明以降には「科挙」に合格して出世出来るかどうか、という論点に置き換えらること になりました。 日本にはその一旦が伝わり、桜田虎門により「四柱推命」として紹介され、後世に至って阿部泰山によって更に学術的に体系づけられ、その地 位を確立しました。

 哀しいかな。 桜田虎門や阿部泰山の努力空しく、現代では「四柱推命」といっても一般には他の占いと同じくマヤカシの一種位にしか評価されていません。  日本人の文化レベルの低さからいえば、その真価が理解出来ないのも当然といえば当然なのですが、西洋では占星術が大学のカリキュラムにもあり、カウンセ ラーの卵たちが専門の学問として学ぶ体勢が整っているのと比べると、我が国では、四柱推命のみならず、この種の伝統的体系が、学術的に探求される事なく、 単なるひまつぶし、いんちきの類に列せられている事は甚だ残念に思います。 この責は愚かな一般大衆とこれに迎合して程度の低い書ばかりを出して儲けんと するマスコミ各社の負うべきところ大であります。

 さて、そろそろ運命学、ここでは特に本邦にて「四柱推命」と呼ばれているところの、中国の「命理」「八字」「子平」の学では、子どもの才をどう評価するかについての論に入りたいと思います。 ここでは此の学の名称を「命理」学として進めていきます。


子ども運が悪い親

 ここでちょっと気になるのが、子ども運が悪いとされる方。 子ども運が悪い人を親に持った子どもは不幸になるのでしょうか。 そういう世迷言を真に受け ている人は、そう信じてこの先もお過しください。 ここから先を読んでも無駄ですし、運命学はそういう人を相手にはしません。
 子どもの運勢は子ども自身の命式(生年月日時に干支を配したもの)を元に判断します。 当たり前の事です。 あなたの運勢を判断するのに両親の命式を判断する事があるでしょうか。 ちょっと考えれば誰でも分かる事です。


子どもの運勢

 さて、肝心の 子どもの運勢について。 命理では命式を設計図とし、流年を航路とします。 つまり、運勢を測るものさしとして、自身の運勢的特徴を体と し、どんな局面に置かれるかを用として判断をすすめていきます。 体はバランスがとれている事を良しとし、偏りが大きいのを忌み嫌います。 人間として喜 怒哀楽が調和していて自分の置かれた立場をよくわきまえて分別ある行動がとれる人が吉な人、という事になります。 一種の絶滅危惧種的人間像です。


子どもの才能

 人の才能には方向性として二種類あります。 ひとつは理性的な追求。 もうひとつは感性的な追求です。 学者か芸術家か、端的にいえばという事です。  どちらが向いているかも命式上は判りますが、むしろ現実的判断としてはどちらに向いた環境が用意できるか、という事の法が影響力が大きいです。 環境とは すなわち多くの場合両親が提供するものになります。


 世の人の親たる皆様。 あなた方が浅学無才をかこって生きるのは勝手ですが、我が子の才までも見出さず理解せず埋もれさせてしまう、というでのは、これ は罪と言わざるを得ません。 その才が開花したらどれだけ社会や人類に貢献し、本人の幸福の礎になり得るかを考えると、そうはたやすく捨て去る事が出来な いものと心得るべきです。 子どもにとって、この意味では親が一番の恩人であり、敵にもなり得ます。

   才を見出すは命理にあり。
   才を育てるは両親にあり。

 なお、これは、当然ですが、何でもかんでも英才教育をじゃんじゃんやろう、と言っているのではありません。 須らく人の親たる者は、才を見出す眼力を養い、見出した才を本人とともに育てる器たれ、という事です。 私などに云われるまでもない事ですね。


2011年12月29日 - 日本語ソネット練習 - 訳詩

2011年12月29日 14時22分20秒 | ソネット

10音の日本語ソネット練習。

今回は訳詩です。

 今、著作権の切れた、古い英語のソネットの訳詩を行なっているところです。

当然ですが、いわゆる「逐語訳」なんてするつもりはありません。

 言葉の魔力に翻弄されずに原詩の持つ味わいや格調を、どう母国語にて

表現するか。 翻訳詩を作る者は詩人たるべきか。 などなど。 思う事は

沢山あるのですが、まずは訳詩というものに対する思いのたけを

述べてこれから良い詩があったらどんどん訳してみるぞ、という

決意表明のようなものとします。

 

日本語ソネット練習 - 訳詩

意をくみて訳を練る
原詩の味 霊妙
逐語訳は 珍妙
如何せん 考える

新しき美を創る
其の気概が少々
表現力の飛翔
神秘の世界を観る

古(いにしへ)に工夫あり
言語を究(きわむ)る技(わざ)
借りずして何を為さん

詩が宿せし理(ことはり)
情と共に有り いざ
母国語であらわさん


2011年12月28日 - ソネット練習 - おつかれさま

2011年12月29日 07時34分27秒 | ソネット

10音の日本語ソネット練習です。

12月28日は私は仕事納めでした。

という訳で、おつかれさまな詩を作りました。
10音+脚韻+14行です。
まだお仕事が残っている皆様、お先に休ませていただきます。

残り、元気で頑張ってください。


おつかれさま

今年の仕事納め
ようやく終わった時
方方で笑顔咲き
深く味わう節目

きれいな部屋を眺め
思ふこと 新しき
歳に何を為すべき
思ふこと 吾が勤め

来年の 準備終え
あちこちで声がする
みなさん おつかれさま

一歳(ひととせ)の業(わざ)を終え
安心感が満ちる
ほんとに おつかれさま

 


12音日本語ソネット練習 - 2011年12月28日 - 日常 3

2011年12月28日 07時29分04秒 | ソネット

おはようございます。 今日は仕事納めです。

でもまた遅いんだろうなあ。 日常詩は帰宅途中で作ることが多いため、ついつい家路がお題になってしまいます。

 

12音日本語ソネット練習 - 日常 3

吐く息白き ある月夜
一人 帰りの道歩く
妻の声 心に響く
今日はナベだよ おいしいよ

俄然足取り 速まるよ
急げや急げ 靴が鳴く
随分早く家に着く
今日はナベだよ できてるよ

妻の笑顔にやっと会い
体も心も温まる
いつもながらのナベの味

食後、詩論を話し合い
やおら原稿書きまくる
ふと気がつけば誤字脱字

 

 


12月27日 - 詩と技巧 4

2011年12月27日 23時30分20秒 | 詩学、詩論

詩と技巧 - 4

 前回は、詩と技巧について、定型詩と自由形式 詩を中心に取り上げました。 自由形式詩は、定型詩が引き受けてくれるものを、詩人が自分で背負わなければならない分、はるかに難しいこと、散文は詩とは 認められないこと、自由詩は詩人本人の感性のみの世界に耽溺して読者の感性から乖離しやすいこと、これに対して定型詩は懐が深く、その作法に従う事で、誰 でもその歴史と伝統全体に連なる事が出来ること、などを論じました。


 今回は詩語について。

  漢詩では「詩語」というものがあり、当たり前にこれが詩作に使われます。 古語にない事を詠みたければ中国語を使います。 基本的には国字や日本語の熟語 は使いません。 詩語は古来3000年の歴史の中で、各時代の詩人たちが使ってきた物の集大成として、いくつもの詩語集が作られているので、それを参照し ます。 自分で勝手に熟語を作ったり、詩語にない表現を用いる事はタブーとされます。 何故なら、それは単なる独善であり、他者に理解され得ない戯言にす ぎない、と見做されるからです。 このため、漢詩を作る人は、型の勉強だけでなく、詩語についても相当熟達しておかないと、人をうならせる様な作品は作れ ない、と言う事ができます。

 詩語集には平仄と韻それぞれについて体系的に整理してある、誠に詩作する者には有り難いタイプのものがあり ます。 これを一冊手元に置いておけば、誰でもそれっぽい絶句の一首位は作れる様になります。 では、詩語を組み合わせて作った詩は自分が作った詩といえ るのでしょうか?

 確かに詩語は、詩人たちが歴史の中で名詩の中に散りばめ、残してきた表現の集大成です。しかし、自分がある詩語に共鳴 し、それを自分の表現として選択する、という事は、画家が絵の具の選択し、その配色を決めるのと同じ心があればこそで、そこに作者の「詩心」を認める事が 出来るので、本人の作と言えるのです。 良い詩語を選択出来る、という事は、作者の作詩のセンスがそれだけ良い事を意味します。

 では、 自分が作りたい詩が詩語のボキャブラリーでは表現しきれない場合はどうでしょうか? 当然、それは表現不可能な詩情という事になり、その時作者は詩作を断 念せざるを得ないでしょう。 ただ、それは全部自分の言葉で作ろうとした場合でも同じで、その場合は選択肢が詩人個人の語学力の範囲に限定されるだけの事 です。 たった独りが一生かかって獲得するボキャブラリーと、何百年もの歴史の中で、一流の詩人たちが残してきたボキャブラリーの、どちらがより詩として 豊かな表現力を持ち、言語としても完成度の高い表現を為し得るか、答えは明白でありましょう。

 口語詩は文語を棄て、自由形式詩は定型詩 を棄て、現代詩は、それまでの言語表現すべてを棄てました。その上で詩を作る上は、棄てた物以上の何かを用いなければならないはずですが、結果としてそれ 以上の成果を挙げた様には私には見えません。 これは、所詮微力な個人個人の活動だけでは長大な歴史には勝てない、という当たり前の事と、古来伝えられて きた詩語や独特な表現方法の持つ底力が、個人では発揮し得ないという理由に依るのではないか、と私は考えています。

   古(いにしへ)の詩情豊かに
   吾が思い 詩語に託せり

   詩語なくば何も述べ得ず
   吾が思い 何ぞ処するや

   選びたる詩語に宿りし
   吾が思い 詩縁なり

   詩縁との巡り逢いにて
   吾が思い 遂に実れる


12月26日 - 詩と技巧 3

2011年12月27日 00時15分08秒 | 詩学、詩論


定型詩と自由形式詩、現代詩、散文

 詩についての議論のひとつに定型詩と自由形式詩の問題があります。 私は無論定型詩派です が、定型詩の型に窮屈なまでに抑えこまれ、決まった表現方法で決まったお題を詠む、という事への反発で自由形式詩が誕生した、という理解でいますが、ここ にひとつの大きな誤謬があります。

 即ち、定型詩には積み上げた歴史とその歴史の重み、また、その決まりきったとされる作法の洗練された 形式美が極限まで追求された故の芸術性、美しさを伴っています。自由形式詩にはそれがありません。定型を捨てる以上、それと同等か以上の「何か」を自前で 創り出さなければ定型詩を超える事は出来ません。 超えられないなら定型を捨てる理由もないと思います。

 また、定型詩には、歴史と伝統 に裏打ちされた、それ自体の存在の重みがありますが、自由形式詩はあくまでも既存の「定型」にアンチテーゼとして打ち出された新時代の「自由」であり、 「定型詩」の存在無しにその真価を位置づける理由がありません。ここにも自由形式詩が安易に発展出来ない足かせがあります。

 現在の自由形式詩は以上見てきた二つの足かせに見事に打ち勝っているでしょうか?

  さて、ここで自由形式という観点について、確認しておきましょう。 元来詩というものには韻律が備わっていて、読んでも唱えても聴いてもその言語特有のリ ズム、律動を感じてある種の心地よさが感じられるもの、とされてきました。定型詩とは、その韻律の様式が古来決まったパターンを持っているもの、自由形式 とは、ひとつにはその韻律にこだわらないもの、そしてもうひとつには、詩人自らが、自分の形式で韻律を定めたもの、という意味があります。つまり、自由形 式詩には、二種類のタイプが存在するのです。

 私は詩とは韻律を持った言語表現だと考えているので、韻律を無視したものを「詩」と呼ぶ事 は出来ないのですが、韻律の形式を詩人自らが定め、その方式に従って書かれた詩は、詩と呼んでも構わないと考えています。 言い換えると、韻律を持たない 言語表現、即ち散文は形式上詩にはなり得ません。

 私の詩観では「散文詩」というものは認められません。それは、ちゃんとした詩が書けな い者の言い訳にすぎない、という見解になります。 これに対して、詩情の有無を問題にして、韻文でも詩情がなければただの文章だし、散文でも詩情が感じら れれば詩と呼んで良い、という理論がありますが、現在の自分では、まだ詩というものの理解が浅く、そこの判断は出来ません。 詩とは言えない韻文がある事 は理解しますが、詩といえる散文があるとするなら、その判断基準は何か、客観的に示したものを見た事がありません。

 次は定型詩の限定性 批判について。定型詩嫌いの詩人の定型詩批判でよく言われるのは「創作を限定される」とか「単なる語呂合わせになってしまう」といった事ですが、果たして そうでしょうか? これはその詩人の創造力の乏しさ、表現力のなさ、精進の欠如の言い訳にすぎないのではないか、と私は常々思っています。 言葉の芸術の 担い手として、もっと工夫を重ねる余地はあるはずです。 少なくともそういう事へのチャレンジ精神や好奇心はもっと欲しいところです。

  西洋の定型詩も、中国の定型詩も、音数と脚韻と途中のリズムやアクセントについての細かい決まりがあって、それがその言語ならではの律動感をかもし出して いますが、日本語にはアクセントや脚韻により律動感を生み出すような特性はありません。これをふまえた上で、明治、大正期の文学士達は、西洋の言語で書か れた詩を和訳したり、日本語でそのような雰囲気を醸し出す詩を作る為に、様々な試みを繰り広げてきた訳ですが、その末裔たる我々が、あっさりそれを捨て て、薄っぺらな自由形式口語体詩のみの世界で満足してしまって良いのか、という思いは、私は文学士ではありませんが、多少は持っています。

 このあたりは、前にも述べましたが、詩の愛好家や趣味で詩を読んだり書いたりする人ではなく、「詩人」を名乗るような者全般が果たすべき責務ではないかと思います。

 もうひとつ。

 詩の懐の深さ、広さの違いについて。
  定型詩には、多くの詩人の知恵と努力の結晶が詰まっています。読む方もそれをよく承知していて、定型の中で表現された事は、時代を通じて人々の間で共有す る事ができます。 つまり、定型詩は作り手も読み手もひとつの大きな世界を最初から共有しているのです。 一方、自由形式詩はそれが詩人個人の創造の結果にすぎないので、時としてその作品は、詩人本人以外には理解出来ないしろものになる可能 性を、常に秘めています。 大変な力量とエネルギーが詩人個人に要求されるはずです。 怠け者の自分にはちょっと、、、な世界です。

 自由形式詩が極端に定型を嫌い、日常使う言語(口語)表現すら嫌って、言語を使用した詩人独自の世界を構築し ようとした時、いわゆる現代詩というジャンルに属する詩が生まれました。これにより、詩は読者を失い、閉ざされた世界の中でのみ流通する特殊なものになっ ていきました。つまり、作者と、その意向を(どうにか)許容出来る一握りの人にのみ享受出来る芸術性、とでも言うのでしょうか。

 これに 対して定型詩は、時代を越えて生き残ってきた重みと広い許容性を持っています。例えば、我々が古来の作法に則り七言絶句を作れば、それは杜甫、李白の時代 から、1000年以上に渡って七言絶句に関わってきたすべての人に理解され得る作品になる事が保証されています。 西洋のソネットも同様。 ルネッサンス 時代以降の伝統の上に立って、表現された作品は、800年の歴史を越えて人々の理解を得るでしょう。 但し上手下手の違いはありますが。 人類にとって、 より普遍に近い価値を持たせる事が出来る、と言い換えても良いです。


   心根を言葉に乗せて
   新しい詩を賦す為に
   振るうのは言葉の絵筆
   磨くのは美的感覚

   それぞれの才能育て
   芸術の扉を拓く

   定型詩、懐深く
   自由詩は感性放つ
   伝統を受け継ぎつつも
   新境地 拓くは誰か

   後世の歴史のみ知る


12月25日 - 詩と技巧 2

2011年12月25日 19時04分28秒 | 詩学、詩論

詩と技巧 2

 前回は、他の芸術と同じく、詩にも技巧があってし かるべきではないか、という問題提議を行いました。詩の技巧へのアンチテーゼとして、「技巧で人を感動させる詩が作れる訳ではない」という議論を挙げ、反 駁として、「思った事を好きなように表現するだけなら獣が情に任せて吠えるのと同じだ」という、昔の詩人の言を借用したのでした。そして、調べていくと、 詩の世界で技巧が軽視されるようになったのは、どうやら口語詩の抬頭の頃からではないか、という事が分かってきた、というところで結びました。


口語体詩と文語体詩

 まず、ここで云う口語とは現代日本語の口語、文語とは、平安時代以後の古文、なかでも方丈記以来の和漢混淆文の事を指します。古語の口語は私自身よく分からないのでまた別な機会に考察する事にします。
  さて、文語体詩は理解しにくい、修辞に凝り過ぎる、など、文語体詩への定番の批判は調べ物をしているとよく目にします。それは単に日常使わなくなったから そう感じるだけで、言語的に文語体に問題がある訳ではありません。英語の詩が理解出来ないから全部日本語の口語にしろ、という人はいません。普段使わなけ れば理解出来ないのは当たり前のことです。

では、言語的に口語体は文語体よりも優れているのでしょうか?

私は決してそうは思いません。むしろ圧倒的に逆だと思っています。

  今の日本語とは明治維新後に作られた標準語が基礎になっていて、たかだか100と数十年ぽっちのものです。文語体の、いわゆる和漢混淆文は1000年近い (古文と合わせれば1000年以上)歴史を生き抜いてきた力ある言語です。私は、この、時代を越えて生き続けてきた、という事がもう少し取り上げられても 良いと思います。

 その中で培われた言語としての力は、口語体では及びもつかない深淵なものだろうと推測します。推測、と述べるのは、私 自身がまだそれほど文語体を理解していないからですが、それでも推測し得るほど、ちょっとかじっただけでもその豊かさに驚かざるを得ない、という感想を 持っています。単に文章や詩歌の文体や語法だけでなく、典故、様々な枕詞や折句まで含めて、表現技法の蓄積は比べるべくもありません。口語体の文章や詩が それを継承あるいは流用したとしてもそれは口語体表現の資産ではないので、口語体の力と断ずる事は出来ないと思います。

 もし口語体を使っても、文語体の歴史的資産を一切使わずに表現するとしたら、更に薄っぺらなものにしかならないでしょう。なんだかんだいっても、歴史の重さは偉大です。

 「でも難しいじゃない?」

  それでも聞く人がいるでしょう。それは勉強するしかありません。そして多読。慣れです、慣れ。口語体だって、慣れてない人から見たら似たようなものですか ら。例えば外国人とか。そのあたりは外国語の詩でも同じ様なもの。でも海外の詩は現代口語じゃないからダメだ、という話はついぞ聞いたことがありません。 外国語の詩を読むには、やはりその外国語を勉強しなきゃいけません。誰もそれをとやかく云うことはありません。口語主義の人たちは、母国語の文語より外国 語の方が理解出来るってんでしょうか? ボンクラな私にはよく分かりません。

 そういう面々のことはさておき、ここでは味わい深い文語にもっと焦点を当てて、読む、書く、両方に渡って話題を展開していきたいと思います。口語体も無 くはないですが、それは他所にいくらでも書く人がいますから。ここで取り上げることではござんせん。但し、私が書く文語体風の文体は、いわゆる文語ではあ りません。森鷗外なども独特の文語調を使って書いてましたし、口語なんだけど漢文調、という文体で書いた文豪もいるとか。 という訳で、私も文体の勉強は 続けつつも、それっぽく自分の文体で書く事に致します。 やはり多読しないと本当の文体は身につきません。それまでは申し訳ありませんがまがい物で失礼致します。