茫庵

万書きつらね

2012年03月07日 - 象徴詩 2

2012年03月07日 23時43分11秒 | 詩学、詩論

象徴詩 2

 象徴詩について思うこと。今回はBaudelaireのCorrespondancesの初聯です。

 Baudelaireの人生 について読んでみると、儒の道を歩もうとしている私からすると「とんでもない奴」で、なんでこんな人物が歴史に残る名詩を書くことが出来たのか、甚だ不可 思議と云う他は無いのですが、近代の詩人や文学者について読んでいると、逆に、どこを向いてもこんな奴揃いという感があって、暗澹たる気分になります。

  それはさておき、明治の日本詩壇に絶大なる影響を与えたフランス象徴詩。これについていささかでも知る事は、新体詩を受け継ぐ者として、これからの時代に 向けて日本の詩をどういう方向に向けて後押ししていけば良いのかを探る糸口を見つける事に繋がりはしないか、なんて思ってみたりします。

 まず象徴詩とは何かについて考えてみましょう。普通の詩と何が違うのでしょうか。

  答えを出す前に、象徴、というものについて触れておきたいと思います。私のような占術家にとっては、象徴(シンボル)というのは真実を暗示するものに他な りません。占術家はシンボルの意味するところを捉えて言葉に直して依頼者に告げます。どのように捉えるかは術者によって異なりますが、私の場合は象徴を自 分が知りたい事に構造的にあてはめて、各パーツが現実世界では何を意味するのかを洞察する、という使い方をします。

 例えばタロットには 「塔」というカードがありますが、大抵の場合、このカードには雷が塔に命中、塔は崩れ、投げ出された人が落下していく様子が描かれています。構造的に捉え る、とは、この絵の示す事をモチーフにして、何かの打撃を受けて土台は崩壊、主要物は落下、といった事を主軸にして何が何に対して打撃を加えて崩壊するの は何か、墜ちるのは誰か、という質問に答える形で現実世界にあてはめていき、依頼者の質問への答えを作っていくのです。タロットカードには絵で象徴を描い ています。象徴詩は言語で象徴を描いています。表現手段が異なるだけで、象徴としての本質には違いはないはずです。象徴とは、それ自体よりも、その意味す るところがメインになるものです。従って、違うカードでも意味するところが同じになる事もありますし、同じカードでもケースに依っては全く違う解釈をする 事もあります。

 以上をふまえた上で、象徴詩というものを考えてみましょう。普通の詩に描かれる情景は、情景そのものが目的物といえます が、象徴詩が描くのは、目的物ではなく、象徴であるはずなので、描かれた物を更に象徴として解釈しなければ、本当の意味は分からないといえます。そして、 その本当の意味とは占術家にとってのタロットカードの絵柄のように、時と場合によって、あるいは受け手によって自在に変化するものでなければなりません。 なぜなら、もし変化しない物、普遍的な物を描くのであれば、象徴を用いる必要はなく、最初からその物ズバリを描けば事足りるからです。一定の姿、一定の意 味を持つ事を嫌うからこそ、象徴という形で詩情を描いてみせる事に意味があるのです。

 象徴は、言語と同じように色々な物を伝達します。 タロットカードに描かれた絵から術者がほとんど無限のイメージを感じ取るように、象徴詩も本来無限の受け止め方が出来るはずです。言語もまた、一定の表現 により叙述した事物を受け手にイメージさせるという点では象徴と似た働き方をします。例えば「雨」という言葉があったとき、本当に伝達したい事は、「雨」 という語彙ではなく、実体としての「雨」そのもののはずです。そして、その実体の事を受け手がイメージ出来た時、言語はその役割を終えて意識の外へと追い やられてしまうのです。象徴詩も似たような形で人の意識に作用します。

 今までの検討で、以下の事が明らかになりました。

1.象徴詩が描くのはあくまでも象徴であって、そのものではない。
  ・従って、受け手は詩として表現されたものが何の象徴であるかを更に追求しなければならない。
2.象徴詩に定まった意味はない。
  ・人によっても意味する所は違うし、同じ人でも心理状態や置かれた立場等によって自ずと違った受け取り方をするものである。
3.象徴詩を受けとめる感性を持つ人は、世界を象徴としてとらえる事が出来る。
  ・つまり、(人の作為を挟まない)自然を象徴として捉えた時、自然からのメッセージを受け取る事が出来る。

 では、実際にCorrespondancesについて考察していきましょう。
  普段の生活を離れて自然の中にぽつんと佇むとき、荘厳な寺院にいるが如く厳粛な気持ちにさせられたりしませんか? 周囲を取り囲む生命の息吹きが、何とはなしに自分に語りかけてくるような感覚。それが第一聨、導入部で述べられています。人は象徴の森を通り過ぎるのです が、森全体が親しげな視線を投げかけてその様子を見守っています。

 象徴の森とは、何の森なのでしょうか?
 恐らく見た感じは普 通の森なのでしょうが、象徴として見た時、色々と示される物があります。しかし、普通の人には森にしか見えません。従って、象徴として見れば、それは人に 親しげな視線を投げかけてきているのですが、ただの森にしか見えない人にはその視線を感じることは出来ないでしょうし、時折発する理解し難い言語も枝が風 に揺れる音や鳥や獣の鳴き声にしか聞こえないでしょう。

 自然を見て、見たままに捉えるのも感性なら、そこに何らかの象徴性を見出して更 に深いメッセージを感じ取るのも感性です。どちらも大きな感動を呼び起こす可能性を持っていますが、作者にとっては、後者の持つ世界の拡がりを描くに象徴 詩という表現方法が必要だったのかもしれません。また、前述した「象徴詩に定まった意味はない」は結構重要で、これにより作り手も受け手も詩文を表現する言語に縛られなくなるのです。作者は自分の作品に対して決まりきった解釈や批評をされるのを避けたかったのかもしれません。