茫庵

万書きつらね

2012年03月25日 - 象徴詩 10

2012年03月25日 01時55分28秒 | 詩学、詩論

象徴詩 10

今回はBaudelaireのGuignonの第三聯と第四聯です。

 なお、云うまでもない事ですが、本稿で解説のために記述している日本語は、原詩の和訳ではないので元の意はそれぞれ原文にてご確認ください。念のためお断りしておきます。

 あまたの宝石が、
 つるはしもドリルも届かぬ位はるかに遠い所で
 暗闇と忘却に埋もれて眠る。

 たくさんの花が悔恨の情念とともに、
 とっておきのスィートな香水を、
 深い孤独の中に注ぎ込む。

 宝石が誰にも知られる事なく埋もれて眠っている、というのは、単に人が愚かでその存在を知らない、というだけでなく、つるはしや穴掘りドリルも届かない、はるか遠くで、というので、ある程度捜す能力を備えた専門家でもその価値に気付かず、はるかに遠い低次元の世界を彷徨っている、という事を意味します。宝石とは、ここでは前回登場したぽーちゃん、およびその作品、としましょう。愚かな一般大衆は仕方ないとして、いっぱしの専門家や芸術家でさえぽーちゃんの事を少しもわかってない。いわんやボクちゃんをや。ぼーちゃんのすね様が伝わってきます。

 そして、たくさんの花々が、後悔しながら、原文に近づけて表現すれば「秘密のように甘くソフトな香水」を、深い孤独の中に注ぎ込むのです。花はなぜ後悔するのでしょうか。深い孤独とはぽーちゃんが現在眠る場所であり、そこに花は手向けの香りを注ぐのです。その香りは普段は秘密にしておくような、ほのかで甘美な香りです。花にしてみたら、滅多に人前に出さないとっておきの香りを注ぐ、というのはぽーちゃんとポーちゃんの芸術に対するせめてもの哀悼の気持ちなのでしょう。

 花でさえそうなのに、あいつら、つまりつるはしやドリルを持ってるあいつらは何だ、未だにぽーちゃんの真価に気付かずに放ったらかしにしてるじゃないか。けしからん奴らだ。と、ぼーちゃんの怒りと哀しみが聞こえてきそうです。

 ここまで芸術に無理解なのはもはや罪です。世間は二人の転載にエールを贈ることをせず、無理解と無関心で応えたのでした。ぼーちゃんにしたって、詩集「悪の華」は一大スキャンダルになり、裁判騒ぎの末罰金刑を食らった挙句、当時の国家元首であるナポレオン三世に嘆願書を書いて負けてもらわなければならないほど貧乏だったのです。

 それにつけても気になるのは「遠い」「深い」「柔らか」「甘い」「香水」といった常套句がまたもや使われていること。イメージが貧困に思えてしまいます。このおやじだけの問題なのか、フランス語詩はみんなこんななのか、象徴派としては西洋のシンボリズムにはこういう表現しかそもそも出来ないほど貧困なのか。また、なんでこんなものが世界中の詩壇に大きな影響を及ぼしたのか。

 読めば読むほど謎は尽きませんが、次回へ続きます。
 次回からは「前世 La Vie antérieure」を読んでいきます。


2012年03月22日 - 象徴詩 9

2012年03月22日 22時59分14秒 | 詩学、詩論

象徴詩 9

今回はBaudelaireのGuignonの第二聯です。

 前の聯では重荷を持ち上げるのはたいへんだ、という話でした。芸術は人生すべてを投じて挑むにはあまりにも長大だ、という痛々しい叫びともとれる一文で終わっていました。あまりにも重い荷物を負わざるを得なかったこの人物も、道途中で燃え尽きたのでしょうか。第二聯ではいきなり墓地の情景が描きだされます。

 数々の有名な墓などには目もくれず、
 遠くにひとつ、ぽつんとたたずむ、とあるお墓に向かって、
 わが心臓はヴェールをかけて音を押し殺した太鼓のように、
 葬送行進曲を叩きながら進んでゆく。

というほどの意味合いになります。ヴェールをかけた太鼓、というのはぐもぐもと鈍くこもった音、どんどんと高鳴る鼓動のような感じではありません。誰にも顧みられない、遠く離れたところにぽつんと立っている墓に眠る人物のために、主人公の心臓は葬送行進曲を演奏しながら向かうのです。この人物の偉大さを敬慕するのは自分しかいない、という自負と誇り、おまえらに分かってたまるか、という怒りが入り混じった感情も受け取れます。それが何を象徴しているのか、それを表現して作者は何が言いたいのか、という事なると更に別な事に思いを馳せる必要があります。

 沢山の人が賞賛するから素晴らしいとは限らない。むしろ忘れ去られてしまったものの中に輝ける真実が宿る場合もある。本能はその真実を求めるが、その真実とともに歩むという事は、想像以上の重荷を負う事になるだろう。また、あまりにも自己の存在はちっぽけで目標たる真実は長大である。世間では、もうその真実は滅び去ったと思われているが、自分は真実のために抑え気味の鼓動で葬送曲を奏でながら歩み続ける。自分の胸に去来するもの。それは、ただ前に進む、のみである。

 なんてところが筆者のイメージです。易でいえば、「占じてこの卦を得たら、人を欺いて密やかに己の誠を通すべし」などと解するところです。しかしながら、それでも答えは常にそれだけという訳ではありません。別な時に占えば、「己の理想破れ、墓中に、ただ休む」のような答えが出るかもしれません。


2012年03月20日 - 象徴詩 8

2012年03月20日 22時41分39秒 | 詩学、詩論

象徴詩 8

Baudelaireの Guignon を読んでいきます。

 今回はようやく、本詩の初聯に入ります。

ご機嫌斜めのぼーちゃん(画・風雷山人)

 服装や目や髪の色など分からなかったので適当ですが、有名な白黒の肖像から起こしたぼーちゃんとぽーちゃんです。

 それはさておき。

 最初の2行はこれといって問題なさそうですね。Sisypheという固有名詞が出てくる位です。次の2行、特に4行目は有名な一文で、Longfellowの「Psalm of Life」からの流用として知られているところです。総合すると、


  こんなにも重いお荷物を持ち上げるには、シーシュポスよ、あなたの勇気が必要だ。
  仕事に全身全霊を打ち込むといったって、芸術は永く、人生なんてすぐ終わってしまうんだ。

 のような意味合いになります。

 そんなご教訓をこんな不良おやじに垂れてほしくないです。ま、それもさておき、普通の詩として見るならこれはこれで良いのですが、象徴詩として見ると、これだけで終わってはいけない気がします。

 重いお荷物とは何の事でしょうか。なぜ4行目になっていきなり芸術、という言葉を持ちだしているのでしょうか。芸術が「永い」とはどういう事を云うのでしょうか。すべてエドガー・ポオの事を述べているからなのでしょうか。

 さしあたり、ポイントはそんな所でしょう。

 まず重荷を持ち上げること=仕事=芸術である事は、文脈上容易に想像できます。シーシュポスの勇気が必要なほどの、というのはただ努力しただけでは永遠にやり遂げる事は無理で、それでも報われない努力を重ね続けていこうとするほどの勇気、それは気の遠くなるほどの忍耐を伴うとしても辞さないほどの勇気。それが必要になる位の困難、という風にも取れます。要は普通に努力して出来る事ではない、という事です。常人ならとうてい諦めてしまうほどの努力を払ったとしても、芸術は永く人生は短いのです。

 こうしてみると、この苦労の主人公はやはり芸術家のことを言っていると見るのが自然です。しかし、それだと「象徴詩」ではなく単にある人物に捧げた詩、ということでよさそうです。なぜこれが象徴詩の一節になるのでしょうか。ここはやはりもうひとつ奥に入り込む必要がありあそうです。

 Edgar Allan Poeはアメリカの詩人、作家、評論家、哲学者として知られていますが生前はとても不運だったそうです。なので、そのPoeを仏訳し続けたBaudelaireがPoeの不運への抗議意識でこの詩を書いたとしても不思議ではありません。しかし、事はひとりPoeについてだけではなく、人と過酷な運命と芸術のせめぎ合いにまで及んでいるのではないか、と私には思えます。

  芸術を志す者たちよ、覚悟せよ。
  御身等が思うほど世間は御身等を大事には思わぬぞ。
  やるべき事は無限にあり、与えられた時間はわずかなのだ。
  心せよ、そして辛苦を自ら選ぶほどに勇敢なれ。

 といった、若き芸術家に向けてのメッセージも感じられます。当時、おそらく大半の芸術家も読者もそのような危機意識も緊張感も持ってなかったのでしょう。それに対する抗議も含めて「おまいらにはどうせ分からないだろ」という思い込めて、こういった作品を搾り出したのだと考えると心中いかばかりかという思いも湧いてきます。象徴詩には、人が分かってない事に対する揶揄や警告が込められていたりするので、この作品にも社会や人々に対する揶揄や批判が根底に流れているとすると、まだまだ出てきそうな気がしますが、ここから先は読者それぞれの領域としましょう。

 最後にBaudolaireがこよなく愛した(かどうかは聞いた訳ではありませんが)Edgar A. Poe ことぽーちゃんを紹介して今回の幕引きにしたいと思います。

ハの字眉毛のぽーちゃん

ぼーちゃんと同じく白黒の絵から起こしたので色は今ひとつです。

 

2012年03月20日 - 象徴詩 7

2012年03月20日 17時33分33秒 | 詩学、詩論

象徴詩 7

Baudelaireの Guignon を読んでいきます。

 とあるチェコのBaudelaireサイトの解説文によると、この詩はアメリカの作家、評論家、詩人であるEdgar Allan Poe の事を書いているそうです。まあ、BaudelaireはPoeの翻訳家として確固たる地位を築いていた人なので、自分の詩作でPoe本人の事をお題にしてもおかしくはありません。別な文献でも同じ事を書いているのを読んだ事があるので、嘘ではないのかもしれません。

 前回触れた流用部分についてですが、有名な一文、「L'Art est long et le Temps est court.」は古代から知られた名言で、古くはHippocrates、下ってはアメリカの詩人、Longfellowの「Psalm of Life」にも見られます。これも含めて4-8行は流用で、9-11行も英国詩人、ケンブリッジ大学教授Thomas Grayの「Elegy Written in a Country Churchyard」からの流用である、と同解説文では書かれています。

 今回は訳詩を挙げておきます。ドイツ語と、微妙に差異のある簡体字、繁体字の中国語訳です。波特萊爾(波bō 特tè 莱lái 尔ěr )で検索すると、出る出る。中国語圏の文学研究熱はすごいです。「恶之花」紹介文に芥川龍之介の「人生は一行のボオドレエルにも若かない」という言葉が添えられていたりします。ドイツ語版は前回と同じ、Stefan George です。中国語の簡体字版には注釈も含めてPinyinを振りました。日本語と英語の訳詩は目にする機会も多くいくらでもあるでしょうから今回はパスします。

 ただ、詩が本来持つ韻律が各言語にどのように導入されているかはなんとなく感じ取れるのではないかと思います。


UNSTERN
            Stefan George

Um solche lasten zu heben
Braucht es des Sisyphus mut ·
Und wär unser wille auch gut:
Lang ist die kunst · kurz das leben.

Fern von ruhmreichen malen
Nach einsamem totenwall
Zieht meine seele in qualen
Zu trauernder trommel schall ...

Mancher edelstein ruht
Verscharrt in der finsternis hut
Und weit von stichel und brille ·

Manche blume spart
Ihren duft wie geheimnis so zart
Vergebens in einsamer stille.

 以上、http://de.wikisource.org/wiki/Unstern から引用。


è yùn
恶运

yào fù qǐ rú cǐ de zhòng dàn,
要负起如此的重担,
dé yǒu xī xī fú ① de yǒng qì
得有西西弗①的勇气!
jǐn guǎn rén men yǒu xīn nǔ lì
尽管人们有心努力,
què yì shù cháng ér guāng yīn duǎn
却艺术长而光阴短。

yuǎn lí nà xiē zhù míng de fén
远离那些著名的坟,
cháo zhe yī zuò huāng pì de mù
朝着一座荒僻的墓,
wǒ de xīn rú fā mēn de gǔ
我的心如发闷的鼓,
zài sòng zàng de qǔ zhōng qián jìn
在送葬的曲中前进。

  duō shao zhēn bǎo shuì dé sǐ sǐ
——多少珍宝睡得死死,
mái zài hēi àn hé yí wàng lǐ
埋在暗和遗忘里,
yuǎn lí zhe tiě hào hé tàn zhēn
远离着铁镐和探针;

duō shao xiān huā kòng zì tàn jiè
多少鲜花空自叹嗟,
jì shēn yú shēn shēn de jì mò
寄身于深深的寂寞,
sàn fā zhe yǐn mì de wēn xīn
散发着隐秘的温馨。


 xī xī fú yòu yì xī xù fú sī,
  西西弗又译西绪福斯,
 xī là shén huà zhōng kē lín sī de wáng,
 希腊神话中科林斯的王,
 xī là shén huà zhōng kē lín sī de wáng sǐ hòu bèi fá zài míng jiè tuī yī jù shí shàng shān,
 死后被罚在冥界推一巨石上山,
 jiāng jí shān dǐng,shí yòu gǔn xià,rú cǐ fǎn fù bù zhǐ。
 将及山顶,石又滚下,如此反复不止。

 以上、http://www.wenhuacn.com/wenxue/xd_shige/ezhihua/012.htm から引用。

惡運

要肩負起如此重擔,
得有薛西弗斯的勇氣!
儘管人們有心努力,
卻藝術長只見光陰短。
         
遠離那些著名的墳,
朝覑一座荒僻的墓,
我的心如發悶的鼓,
在送葬的曲中前進。
         
──多少珍寶睡得死死,
埋在暗和遺忘裏,
遠離覑鐵鎬和探針;
         
多少鮮花空自嘆嗟,
寄身於深深的寂寞,
散發覑隱秘的溫馨。

 以上、http://www.wisdomgarden.com.hk/fcnscs/bdly.htm から引用。



2012年03月18日 - 象徴詩 6

2012年03月18日 11時11分02秒 | 詩学、詩論

象徴詩 6

 今回からBaudelaireのLe Guignonを読んでいきます。まずは全文から。

Le Guignon   Charles Baudelaire

Pour soulever un poids si lourd,
Sisyphe, il faudrait ton courage!
Bien qu'on ait du coeur à l'ouvrage,
L'Art est long et le Temps est court.

Loin des sépultures célèbres,
Vers un cimetière isolé,
Mon coeur, comme un tambour voilé,
Va battant des marches funèbres.

— Maint joyau dort enseveli
Dans les ténèbres et l'oubli,
Bien loin des pioches et des sondes;

Mainte fleur épanche à regret
Son parfum doux comme un secret
Dans les solitudes profondes.

以上、http://fleursdumal.org/poem/110 より引用。

 

 この詩、他の英語詩からの流用部分があります。その流用元も示しておきます。結構長いので、今回はここまでとします。

A PSALM OF LIFE
          Henry Wadsworth Longfellow

Tell me not in mournful numbers,
"Life is but an empty dream!"
For the soul is dead that slumbers,
And things are not what they seem.

Life is real! Life is earnest!
And the grave is not its goal;
"Dust thou art, to dust returnest,"
Was not spoken of the soul.

Not enjoyment, and not sorrow,
Is our destined end or way;
But to act, that each to-morrow
Find us further than to-day.

Art is long, and Time is fleeting,
And our hearts, though stout and brave,
Still, like muffled drums, are beating
Funeral marches to the grave.

In the world's broad field of battle,
In the bivouac of Life,
Be not like dumb, driven cattle!
Be a hero in the strife!

Trust no Future, howe'er pleasant!
Let the dead Past bury its dead!
Act -- act in the living Present!
Heart within, and God o'erhead!

Lives of great men all remind us
We can make our lives sublime,
And, departing, leave behind us
Footprints on the sands of time;

Footprints, that perhaps another,
Sailing o'er life's solemn main,
A forlorn and shipwrecked brother,
Seeing, shall take heart again.

Let us, then, be up and doing,
With a heart for any fate;
Still achieving, still pursuing,
Learn to labour and to wait,

 以上、http://www.blupete.com/Literature/Poetry/PsalmA.htm より引用。


ELEGY WRITTEN IN A COUNTRY CHURCH-YARD
                                                     Thomas Gray

The curfew tolls the knell of parting day,
The lowing herd winds slowly o'er the lea,
The ploughman homeward plods his weary way,
And leaves the world to darkness and to me.

Now fades the glimmering landscape on the sight,
And all the air a solemn stillness holds,
Save where the beetle wheels his droning flight,
And drowsy tinklings lull the distant folds:

Save that from yonder ivy-mantled tower
The moping owl does to the moon complain
Of such as, wandering near her secret bower,
Molest her ancient solitary reign.

Beneath those rugged elms, that yew-tree's shade,
Where heaves the turf in many a mouldering heap,
Each in his narrow cell for ever laid,
The rude Forefathers of the hamlet sleep.

The breezy call of incense-breathing morn,
The swallow twittering from the straw-built shed,
The cock's shrill clarion, or the echoing horn,
No more shall rouse them from their lowly bed.

For them no more the blazing hearth shall burn,
Or busy housewife ply her evening care:
No children run to lisp their sire's return,
Or climb his knees the envied kiss to share,

Oft did the harvest to their sickle yield,
Their furrow oft the stubborn glebe has broke;
How jocund did they drive their team afield!
How bow'd the woods beneath their sturdy stroke!

Let not Ambition mock their useful toil,
Their homely joys, and destiny obscure;
Nor Grandeur hear with a disdainful smile
The short and simple annals of the Poor.

The boast of heraldry, the pomp of power,
And all that beauty, all that wealth e'er gave,
Awaits alike th' inevitable hour:-
The paths of glory lead but to the grave.

Nor you, ye Proud, impute to these the fault
If Memory o'er their tomb no trophies raise,
Where through the long-drawn aisle and fretted vault
The pealing anthem swells the note of praise.

Can storied urn or animated bust
Back to its mansion call the fleeting breath?
Can Honour's voice provoke the silent dust,
Or Flattery soothe the dull cold ear of Death?

Perhaps in this neglected spot is laid
Some heart once pregnant with celestial fire;
Hands, that the rod of empire might have sway'd,
Or waked to ecstasy the living lyre:

But Knowledge to their eyes her ample page,
Rich with the spoils of time, did ne'er unroll;
Chill Penury repress'd their noble rage,
And froze the genial current of the soul.

Full many a gem of purest ray serene
The dark unfathom'd caves of ocean bear:
Full many a flower is born to blush unseen,
And waste its sweetness on the desert air.

Some village-Hampden, that with dauntless breast
The little tyrant of his fields withstood,
Some mute inglorious Milton here may rest,
Some Cromwell, guiltless of his country's blood.

Th' applause of list'ning senates to command,
The threats of pain and ruin to despise,
To scatter plenty o'er a smiling land,
And read their history in a nation's eyes,

Their lot forbad: nor circumscribed alone
Their growing virtues, but their crimes confined;
Forbad to wade through slaughter to a throne,
And shut the gates of mercy on mankind,

The struggling pangs of conscious truth to hide,
To quench the blushes of ingenuous shame,
Or heap the shrine of Luxury and Pride
With incense kindled at the Muse's flame.

Far from the madding crowd's ignoble strife,
Their sober wishes never learn'd to stray;
Along the cool sequester'd vale of life
They kept the noiseless tenour of their way.

Yet e'en these bones from insult to protect
Some frail memorial still erected nigh,
With uncouth rhymes and shapeless sculpture deck'd,
Implores the passing tribute of a sigh.

Their name, their years, spelt by th' unletter'd Muse,
The place of fame and elegy supply:
And many a holy text around she strews,
That teach the rustic moralist to die.

For who, to dumb forgetfulness a prey,
This pleasing anxious being e'er resign'd,
Left the warm precincts of the cheerful day,
Nor cast one longing lingering look behind?

On some fond breast the parting soul relies,
Some pious drops the closing eye requires;
E'en from the tomb the voice of Nature cries,
E'en in our ashes live their wonted fires.

For thee, who, mindful of th' unhonour'd dead,
Dost in these lines their artless tale relate;
If chance, by lonely contemplation led,
Some kindred spirit shall inquire thy fate, --

Haply some hoary-headed swain may say,
Oft have we seen him at the peep of dawn
Brushing with hasty steps the dews away,
To meet the sun upon the upland lawn;

'There at the foot of yonder nodding beech
That wreathes its old fantastic roots so high.
His listless length at noontide would he stretch,
And pore upon the brook that babbles by.

'Hard by yon wood, now smiling as in scorn,
Muttering his wayward fancies he would rove;
Now drooping, woeful wan, like one forlorn,
Or crazed with care, or cross'd in hopeless love.

'One morn I miss'd him on the custom'd hill,
Along the heath, and near his favourite tree;
Another came; nor yet beside the rill,
Nor up the lawn, nor at the wood was he;

'The next with dirges due in sad array
Slow through the church-way path we saw him borne,-
Approach and read (for thou canst read) the lay
Graved on the stone beneath yon aged thorn.'

        The Epitaph

Here rests his head upon the lap of Earth
A youth to Fortune and to Fame unknown.
Fair Science frowned not on his humble birth,
And Melacholy marked him for her own.

Large was his bounty, and his soul sincere,
Heaven did a recompense as largely send:
He gave to Misery all he had, a tear,
He gained from Heaven ('twas all he wish'd) a friend.

No farther seek his merits to disclose,
Or draw his frailties from their dread abode
(There they alike in trembling hope repose),
The bosom of his Father and his God.

 以上、http://www.blupete.com/Literature/Poetry/Elegy.htm より引用。


2012年03月17日 - 象徴詩 5

2012年03月17日 23時47分11秒 | 詩学、詩論

象徴詩 5

今回はBaudelaireのCorrespondancesの第四聯です。

 いよいよ最後の聯です。前回までは自然が寺院だ、という話から始まって、香り、光(色)、音の混然一体となった感応の世界が繰り広げられてきたのでした。

 最後の聨はこの詩の結論を述べます。単純に訳語を並べるとざっと以下に述べるような感じ。最後の行の主語は前の聯にあります。これはこの聯を読みだしてから気付いたのですが、よーく見ると第三聯は文章としては終わっていませんでした。もっと大きなフォントで見ればよかった、などと思いつつ、改めて読み込んでみると、

 香水がある。それは、子どもの体のようにみずみずしくて、オーボエのようにやわらかで、草原のように緑を成す、
 --それでいて他方では爛熟して豊潤で誇らしげで、
 限りなく事物の拡がりを保ちつつ、琥珀や麝香や安息香や純粋さのように、
 精神と感覚の呼応を謳い上げる。

のような文になっています。この人の文体には動詞が少ないのでどこで切ったら良いのか判断に苦しみます。

 ともあれ、これで一通りの内容が揃いました。この内容から何を象徴として感じ取るかは読者に任されています。作者のおっさんは何を意図してこう表現したのでしょうか。読者の我々はどう向きあえば良いのでしょうか。私はここに来るまでの間にちょくちょく述べてきた如く、象徴としては物足りない感で一杯で、本作で述べられた感覚の呼応や一体化のような主張についても、既に梅花心易の世界ではもっと高度な形で述べられている事なので「いまさら」と思ってしまいます。西洋近代詩の信奉者の中には中国にはこの手の神秘主義が無い、と指摘する向きもありますが、梅花心易創始者の邵雍はいわゆる市井に在って当代の名士とも交流のあった、れっきとした大儒であり、歴史に名を残した詩人でもあるので此等の指摘は単に著者が知識不足である事を露呈しているにすぎません。

 あと、呼応、感応、あるいは万物照応などと訳される本作ですが、半分を「香水」ないしは「香り」「匂い」についてだけ述べている点もなんだかアンバランスに感じます。フランス人は風呂嫌いなので体臭がきついからフランスでは香水が発達している、などと、どこかで聞いたか読んだかしたことがありますが、もしかしたら単にそれだけのことなのかもしれません。命の象徴としての匂いは視覚や聴覚などよりも鮮烈なイメージなのかもしれません。が、そのあたりの事は、これから先、更に他の象徴詩を読んでいくにつれ、変化していくかもしれないところです。

 詩文としての本作は、ソネットとしてはもとより、対句的表現、リズミカルな語の組み合わせなど、声に出して読む面白さも備えた一編だと思います。ただ、色々と批評等を調べてみると、Baudelaireは技巧的にはそれほど上手とはいえないそうなので、ひょっとしたら私が読みにくいと感じたのはそれ故なのかもしれません。フランス語ではどういう詩が巧いのか、まだ自分では判断出来ないのでなんとも言えませんが、そのあたりはこれからの研鑽で読み取れる様になっていきたいと思います。

 最後に本作のドイツ語と英語の訳詩を挙げておきましょう。私にとってはドイツ語版が一番読みやすく、詩としてもしっくりきます。ちなみにこの訳はドイツの詩人、Stefan GeorgeとEric Boernerの訳と、A.Z.Formanの英語訳を紹介します。東西を問わず、名詩人たちはおしなべて語学に達者な人が多く、外国語の詩に影響を受けたり、外国語で詩を書いたりしていますね。ちゃんとした詩を母国語で書けるようになるにはやはりこれは不可欠かな、と思ったりします。

EINKLÄNGE
              Stefan George

Aus der natur belebten tempelbaun
Oft unverständlich wirre worte weichen ·
Dort geht der mensch durch einen wald von zeichen
Die mit vertrauten blicken ihn beschaun.

Wie lange echo fern zusammenrauschen
In tiefer finsterer geselligkeit ·
Weit wie die nacht und wie die helligkeit
Parfüme färben töne rede tauschen.

Parfüme giebt es frisch wie kinderwangen
Süss wie hoboen grün wie eine alm –
Und andre die verderbt und siegreich prangen

Mit einem hauch von unbegrenzten dingen ·
Wie ambra moschus und geweihter qualm
Die die Verzückung unsrer seelen singen.

 以上、http://de.wikisource.org/wiki/Einkl%C3%A4nge より引用。


Entsprechungen
                 Eric Boerner

Die Natur ist ein Tempel: durch Säulen voller Leben
Zuweilen wirre Worte sich ergehn;
Der Mensch durchschreitet Wälder von Symbolen,
Die, ihn betrachtend, mit vertrautem Blick begegnen.

Im tiefen und dunklen Zusammenhang
Des Echos, das weit entfernt wieder erwacht,
So lang wie der Tag und lang wie die Nacht,
Entsprechen sich Farben, und Düfte, und Klang.

Der frische Geruch von kindlichem Fleisch
Ist süß wie Oboen, wie Wiesen so grün –
Und anders: verdorben, begeisternd und reich,

Wie endlose Dinge in Ewigkeit blühn;
Wie Ambra und Moschus und Weihrauch erklingen,
Das Wandeln des Geists und der Sinne besingen.

 以上、http://home.arcor.de/berick/illeguan/baude1.htm より引用



Correspondances
                                               A.Z.Forman

Nature’s a shrine where living columns stand
And now and then breathe a confounded phrase,
Man wanders there amid a forestland
Of symbols, followed by their intimate gaze.
As long-drawn echos blent from far away
together into dark deep unison,
As huge as night and like the light of day,
perfumes and sounds and colors join as one.

There are scents fresh as flesh of any child,
Meadow-green, mellow as an oboe tone,
- and others: rich, corrupt, triumphant, wild
expanding like the infinite alone
like ambers, musks and orient frankincense
that sing the rapturings of soul and sense.

 以上、http://poemsintranslation.blogspot.com/2010/04/baudelaire-correspondances-from-french.htmlより引用。


 次回からはBaudelaireの次の詩にいきたいと思います。Le Guignon「不運」です。


2012年03月14日 - 訳詩について改めて思ったこと

2012年03月14日 03時46分05秒 | 雑記、雑感

訳詩

 最近訳詩を沢山読んでます。複数の言語で。欧州言語同士なら日本語ほどは違いがないのかと思いきや、結構原詩の味わいはそげ落ちてしまうのでちょっと意外でした。単に訳詩が下手なのかもしれませんが、大して日本語の訳詩と変わらないのではないかと思えてきたりします。

 やはり訳詩では原詩の詩情を十分に伝えることは出来ない、というより、訳詩とはそもそも別の詩なんだ、ということをもっと強く認識すべきであると思います。

 訳詩は所詮偽物、まがい物です。創作者のはしくれとしては、訳詩を読んで原詩が分かった気になるのはとても浅はかな事である、と思います。また、どうしてもある言語でしか表現出来ないニュアンスがあれば、やはり受け手もその言語で表現された内容を尊重すべきだとも考えます。要は、語学力のない人間に原詩をどうこう云う資格はない、という事です。その事を自覚した上で訳詩を楽しむべきです。

 といいつつ、自分、訳詩を捨てきれないでいます。つい目を通してしまうし、自分でもこうすればいいかなと考えてしまいます。そして、偽物とはいえ各言語毎にそれぞれの味わいが感じられるのも事実なのです。あくまでも原詩を本物とした場合の偽物、という事であり、単体で詩としての巧拙がどうか、という問題ではないのですから。

 


2012年03月13日 - 象徴詩 4

2012年03月13日 07時06分25秒 | 詩学、詩論

象徴詩 4

今回はBaudelaireのCorrespondancesの第三聯です。

 前の2つの聯では「自然はひとつの寺院」に始まり「人 がひとりで」歩きゆく象徴の森、その森の様子、香りと色彩と音響の感応しながらの統合へと話は進んできました。そして、名詞の単数形、複数形の使い分けに より表現されるニュアンスが、日本語訳では再現されにくい事を指摘、また、西洋のシンボリズムが稚拙で今ひとつもの足りない、という指摘もしました。

  第三聯では子どもの体のようにみずみずしい香水がある、それはオーボエのように柔らかく草原のように緑だ、と言いつつ次の行では、そして一方では熟成され て豊かで誇らしげな芳香が漂う、と言ってます。香水と表現されるので、どちらも芳香なのでしょう。ただ一方では新鮮、他方では腐敗、つまりは欄熟した、と いう違いがあるのです。私はこの腐敗という言葉が結構気になりました。色々な訳を見るとそのまま訳出していますが、腐敗だとするとそれが何故「香水」なの か、「豊かで誇らしげ」なのかがどうしてもぴんと来ないのです。腐敗=醗酵とすれば、まだ美味しそうな匂い、というイメージが湧くので私は熟した、という ニュアンスで捉える事にしました。それならじっくり時間をかけて熟成したワインなど、誇らしげと称しても良い物にも結びつきます。最初に述べた子どもよう な新鮮さなど、若造めが何を云うか、みたいに一蹴されてしまうでしょう。

 こういう訳で、この聯は一見すると老いも若きもそれぞれに味わいがある、と言ってるようにもとれます。それを見た目ではなく香りで表現したところがこの おやじのいやらしさを感じます。が、ともかくも、森のなかにただよう芳香の根源は、フレッシュで爽やかなものばかりではなく、原文に近いニュアンスでいえ ば老いて朽ちたなれの果てである腐敗臭を敢えて香水というところが世間の浅はかな物の見方を嘲笑うかのようです。

 これを人間や人生にあてはめれば、上流階級で小綺麗に着飾って綺麗事を嘯いている奴らより、俺様みたいにどろどろの人生を歩いてる人間の方がよっぽど自 然の理にかなっているんだぞ、と、負け惜しみともとれる主張が聞こえてきそうです。しかし、真の隠遁は世間の中で普通に生きる中にある、とする中国の教え を信奉する身としては、悔しかったら社会の中でまともな人生を歩んでみなさい、と、言い返したくなります。


2012年03月08日 - 象徴詩 3

2012年03月09日 00時44分54秒 | 詩学、詩論

象徴詩 3

今回はBaudelaireのCorrespondancesの第二聯です。

 第一聯を受けて、この聯では象徴の森で起きている事に ついて更に詳しく述べています。それは感じとるものであり、それを認識するにはそれなりの感性を持たなければならない事も示唆しています。ただし、聴覚、 視覚、嗅覚は登場しますが味覚と触覚、さらには第六感のような超感覚も、この後の聯も含めて出て来ることはありません。はっきり言って物足りないです。も ともと西洋のシンボリズムは完成度が低いので象徴といってもこんなもんなのか、と思いました。それはさておき。

 前の聯では森の中を「ひ とりで」行く人がいましたね。「ひとりで」というのが結構重要です。象徴を通して感応するのはひとりひとりが自分で個別に行う事であり、誰かの助けを得た り代わりにやってもらう訳にはいかない事を暗示しているからです。この「ひとり」をとりまく象徴の森の様子が第二聯です。

 遠くから長く響きあう木霊。こちらは複数形です。それにより、森のあちこちから響いてくる様子が伺えます。そ数々の木霊が暗くて深いところで混然と一体 化するのです。劇場やホールで「やっほー」などと叫んだら、そこら中から反響が返ってきて最後にはわんわんうなって何だかわからない状態になると思います が、それを暗く深い処でやっているのです。それで、ああ、暗くて深いんだ、と思ってたら後半、夜は闇、明けては光が広大な世界を包むように、芳しい香りと 艶やかな色彩と心地よい音響が互いに感応し合う、と続きます。

 香りと色と音が互いに返事をし合うのでしょうか。アニメなどで、遠くに飛び去っていく飛行機などが見えなくなる表現として、最後に一瞬輝くことがありま すが、効果音としてキラッといった音がかさねられていたりしますね。臭いも同等で、悪臭が漂うのを煙のように表現するのもよくあることです。

  第二聨のもうひとつの重要な特徴は、comme、即ち「様な」という直喩が多用されていることです。西洋の詩文表現では直喩は稚拙とされ、避ける傾向が強 いはずなのに、この天才めちゃ悪おやじのBaudelaireはなぜこのように表現したのでしょうか。そこがまさに本作が象徴詩たる由縁です。つまり、 「のような」と表現したものが最終目的ではないのです。読者はこの分かりやすい表現に騙されてはいけません。その向こうにあるものに視点を向けるべきなの です。

  第二聯しめくくりはふたたび名詞の活用について。人はひとりでしたが木霊、香り、色、音は皆複数形です。それが渾然一体となったり互いに感応し合う場所は 単数形です。つまり、沢山の物がひとつに混じり合う様子が描かれているのがこの聯の特徴です。そのひとつは広大であり深淵であり暗黒であるのです。日本語 の訳詩はこのあたりのスケール感が欠如しています。読者が原詩の持つ独特なイメージを感じ取る事は恐らく不可能でしょう。

 もっとも、日本語の詩歌をフランス語で原語通りに味わえるか、というと、これもどうかと思います。結局のところ、言葉で表現する芸術を最も深く豊かに味わうには原語が一番、という事なのだと思います。

 

 


2012年03月07日 - 象徴詩 2

2012年03月07日 23時43分11秒 | 詩学、詩論

象徴詩 2

 象徴詩について思うこと。今回はBaudelaireのCorrespondancesの初聯です。

 Baudelaireの人生 について読んでみると、儒の道を歩もうとしている私からすると「とんでもない奴」で、なんでこんな人物が歴史に残る名詩を書くことが出来たのか、甚だ不可 思議と云う他は無いのですが、近代の詩人や文学者について読んでいると、逆に、どこを向いてもこんな奴揃いという感があって、暗澹たる気分になります。

  それはさておき、明治の日本詩壇に絶大なる影響を与えたフランス象徴詩。これについていささかでも知る事は、新体詩を受け継ぐ者として、これからの時代に 向けて日本の詩をどういう方向に向けて後押ししていけば良いのかを探る糸口を見つける事に繋がりはしないか、なんて思ってみたりします。

 まず象徴詩とは何かについて考えてみましょう。普通の詩と何が違うのでしょうか。

  答えを出す前に、象徴、というものについて触れておきたいと思います。私のような占術家にとっては、象徴(シンボル)というのは真実を暗示するものに他な りません。占術家はシンボルの意味するところを捉えて言葉に直して依頼者に告げます。どのように捉えるかは術者によって異なりますが、私の場合は象徴を自 分が知りたい事に構造的にあてはめて、各パーツが現実世界では何を意味するのかを洞察する、という使い方をします。

 例えばタロットには 「塔」というカードがありますが、大抵の場合、このカードには雷が塔に命中、塔は崩れ、投げ出された人が落下していく様子が描かれています。構造的に捉え る、とは、この絵の示す事をモチーフにして、何かの打撃を受けて土台は崩壊、主要物は落下、といった事を主軸にして何が何に対して打撃を加えて崩壊するの は何か、墜ちるのは誰か、という質問に答える形で現実世界にあてはめていき、依頼者の質問への答えを作っていくのです。タロットカードには絵で象徴を描い ています。象徴詩は言語で象徴を描いています。表現手段が異なるだけで、象徴としての本質には違いはないはずです。象徴とは、それ自体よりも、その意味す るところがメインになるものです。従って、違うカードでも意味するところが同じになる事もありますし、同じカードでもケースに依っては全く違う解釈をする 事もあります。

 以上をふまえた上で、象徴詩というものを考えてみましょう。普通の詩に描かれる情景は、情景そのものが目的物といえます が、象徴詩が描くのは、目的物ではなく、象徴であるはずなので、描かれた物を更に象徴として解釈しなければ、本当の意味は分からないといえます。そして、 その本当の意味とは占術家にとってのタロットカードの絵柄のように、時と場合によって、あるいは受け手によって自在に変化するものでなければなりません。 なぜなら、もし変化しない物、普遍的な物を描くのであれば、象徴を用いる必要はなく、最初からその物ズバリを描けば事足りるからです。一定の姿、一定の意 味を持つ事を嫌うからこそ、象徴という形で詩情を描いてみせる事に意味があるのです。

 象徴は、言語と同じように色々な物を伝達します。 タロットカードに描かれた絵から術者がほとんど無限のイメージを感じ取るように、象徴詩も本来無限の受け止め方が出来るはずです。言語もまた、一定の表現 により叙述した事物を受け手にイメージさせるという点では象徴と似た働き方をします。例えば「雨」という言葉があったとき、本当に伝達したい事は、「雨」 という語彙ではなく、実体としての「雨」そのもののはずです。そして、その実体の事を受け手がイメージ出来た時、言語はその役割を終えて意識の外へと追い やられてしまうのです。象徴詩も似たような形で人の意識に作用します。

 今までの検討で、以下の事が明らかになりました。

1.象徴詩が描くのはあくまでも象徴であって、そのものではない。
  ・従って、受け手は詩として表現されたものが何の象徴であるかを更に追求しなければならない。
2.象徴詩に定まった意味はない。
  ・人によっても意味する所は違うし、同じ人でも心理状態や置かれた立場等によって自ずと違った受け取り方をするものである。
3.象徴詩を受けとめる感性を持つ人は、世界を象徴としてとらえる事が出来る。
  ・つまり、(人の作為を挟まない)自然を象徴として捉えた時、自然からのメッセージを受け取る事が出来る。

 では、実際にCorrespondancesについて考察していきましょう。
  普段の生活を離れて自然の中にぽつんと佇むとき、荘厳な寺院にいるが如く厳粛な気持ちにさせられたりしませんか? 周囲を取り囲む生命の息吹きが、何とはなしに自分に語りかけてくるような感覚。それが第一聨、導入部で述べられています。人は象徴の森を通り過ぎるのです が、森全体が親しげな視線を投げかけてその様子を見守っています。

 象徴の森とは、何の森なのでしょうか?
 恐らく見た感じは普 通の森なのでしょうが、象徴として見た時、色々と示される物があります。しかし、普通の人には森にしか見えません。従って、象徴として見れば、それは人に 親しげな視線を投げかけてきているのですが、ただの森にしか見えない人にはその視線を感じることは出来ないでしょうし、時折発する理解し難い言語も枝が風 に揺れる音や鳥や獣の鳴き声にしか聞こえないでしょう。

 自然を見て、見たままに捉えるのも感性なら、そこに何らかの象徴性を見出して更 に深いメッセージを感じ取るのも感性です。どちらも大きな感動を呼び起こす可能性を持っていますが、作者にとっては、後者の持つ世界の拡がりを描くに象徴 詩という表現方法が必要だったのかもしれません。また、前述した「象徴詩に定まった意味はない」は結構重要で、これにより作り手も受け手も詩文を表現する言語に縛られなくなるのです。作者は自分の作品に対して決まりきった解釈や批評をされるのを避けたかったのかもしれません。