茫庵

万書きつらね

2012年02月22日 - 五詩脚日本語ソネット練習 - 彩雲洞日記 第三回

2012年02月22日 21時53分56秒 | ソネット

五詩脚日本語ソネット練習 - 彩雲洞日記 3

第三回

儒者っていうのは、詩であらわせば、こんな人。


いにしへの教えを守り 仁の道つらぬく
ただ命(めい)をまっとうするが 唯一のよろこび
私利私欲、追わぬ気高さ 究めて進む日々
語らえば精錬 人を隔てず 心洗うごとく

過ごす時たちまち過ぎて 別れ際哀しく
後にまた面影浮かび 偲ぶこと度々
揺るぎなき中庸守り 善なるをとうとび
詩をよくし、風雅の言葉 よどみなく呟く

求むるは五常の真理、仁義礼智信と
無為自然、中庸の徳、これ將に天道
三才の 至宝を護り、密やかに闘う

夢見るは乾坤(けんこん)の和合、陰陽の当位(とうい)と
性善と秩序の真理、これ將に人道
星辰(せいしん)の伝言を聴き、厳粛に意を問う


【解説】
 これからも時々出てくる儒学用語。ざっと説明しましょう。中庸は何者にも左右されない絶対的な中、本質そのものの中で、我々凡俗が言うどっちつかずの中とは格も次元も違います。三才とは天・地・人のこと。この聖なる存在の本質が損なわれないように、陰から守護するというのです。

 乾坤、即ち天地の気は和合してはじめて万物を産み出す恵みとなることが出来ます。それには陰陽ともに当位、つまりあるべき場所にあって正しく機能しなければなりません。人の世にあっては孟子の性善説にもとづく社会秩序の確立と維持が理想の道であり、占術の運用によって、歴史の趨勢を測るのです。儒者はこうした占術も含む術数と呼ばれる専門技術を駆使して問題を解決します。

 儒者は詩を学びます。この詩とは言うまでもなく漢詩のことです。古き良き時代、漢詩をたしなむ事は、それだけでアイデンティティーであり、教養と人格者の象徴でした。なぜ詩が教養と人格を象徴するのかというと、もちろん難解で高度な技巧が必要とされ、身につけるためには相当の才能と忍耐と絶え間ない努力が必要であり、それは誰にでも満たせる条件ではないからですが、同時に詩というものが、人間性を高め、精神を浄化すると信じられていたからでもあります。漢詩が書ける、というのは重要な儒者の条件なのです。古来、漢詩の技術を修得する助けとなるテキストも沢山考案されました。ちなみに彩雲洞では「笠翁対韻」を標準にしていました。


宇宙時代の人類世界における儒者の歴史から。

 数千光年もひとまたぎ、文明の拡大は留まるところを知らない勢いですが、不思議なことは無くならないもの。人心安定のため、宇宙からはバルデリヤと呼ばれたその頃の地球政府が儒者制度を作ってから数百年。歴代の大儒と呼ばれる超マイスタークラスのリーダー率いる精鋭たちの活躍により、ようやくの安定を見たのでした。

 儒者とは、超自然的現象による事件解決を専門とする特殊技能集団で、世界各地に結社として存在し、世界平和の裏側で暗躍していました。実はこういう種類の人間は、旧い時代から存在していて、それなりに民衆の支持を得ていたのですが、制度として認められる様になったのは、いわゆる「まがい物」が流行して人心を惑わす事件が世界規模で多発したからで、中でも宇宙暦3528年、国家がひっくり返る寸前まで発展した大騒動、「乾坤事件」が直接のきっかけになりました。この時は、世界中に乱立する特殊技能集団が覇権をかけて闘争を繰り返し、一部は時の権力と結びついてかなり強引な手法でライバルつぶしに走り、政治的な闘争に発展、死者も多数出ましたが、何故か突然沈静化し、今まで表面に出ていた対立勢力はどちらも姿を消してしまいました。

 この時に活躍したのが特殊技能者集団の一群です。中でも特に「儒者」と呼ばれるグループだったと言われていますが詳細は分かっていません。全ては闇から闇へと葬られ、真実は伝説になり、時だけが過ぎ去りました。

 いつしか「儒者」には特権が与えられ、何人たりとも犯すべからざる存在になっていきましたが、彼らには、人の世で富と権力を貪る様な「低級」な野望や価値観は一切無いので、はかりしれない力を有していながらも、「誰にも敵せず誰にも与さず」を貫き通していたために、政治的な混乱が生じる事はありませんでした。

 ところが「小人」、つまり、世の中の大部分の人間たちの側では私利私欲のために彼らの能力を悪用しようとする輩は後を絶たない状態で、これにつけ入る「偽儒者」もいたりで、沈静化されたとはいえ世相に珍妙な小騒動が絶える事はなかったのです。偽儒者の中には超古代、人類が地球に縛られていた頃に影の様に権力者につきまとって甘い汁を吸っていたのが、いわゆる錬金術師、超能力者、宗教家、魔導師、といった類の結社集団で、それぞれ呼称は違っても世界各地に存在しました。能力だけを見れば、儒者に勝るとも劣らない者たちもいて、さすがの儒者も手を焼く事も少なからずあったようです。

 儒者が彼らを凌駕するのはただ一点、術数の体系を支える教義が技術的側面だけでなく、運用的側面も網羅している、ということにありました。術者はこれを守ることで、力を道から外れた使い方をすることがなかったのです。その教義とは、易経(いぃちん)とを筆頭とする一連の古文書に書かれたものでした。

 易経自体は占術と哲学の書ですが、ここからおびただしい種類の学問が派生し、あるいは易の教義に関連付くことで新たな次元を拓いて発展していきました。易経は正真正銘、森羅万象を網羅する書でした。


2012年02月11日 - 五詩脚日本語ソネット練習 - 彩雲洞日記 第二回

2012年02月11日 03時27分08秒 | ソネット

日本語五詩脚ソネット練習 - 彩雲洞日記 2

 完成度はともかくとして、まがりなりにも詩脚を意識した作りが可能になったので、今までの10音12音改め5詩脚ソネット練習に今後は切り替えます。ただし、各詩脚の音数は、流動的に変えます。とりあえず今回は、使い慣れた五四三五四を中心にして、脚韻はリルケ「オルフェウスへのソネット」に習ってabba cddc efg efg と、やや変則型にしました。


第二回

 北宋の大儒、邵雍が打ち立てた数理に於ては、文明の寿命、およそ1万と800年といいます。これは会(ふぃ)と いふ単位で、はじめを子(つ)とし、丑寅卯(ちょう、いん、まぉ)と、亥(はい)まで一巡すれば、12万と9600年。12会を元(ゆぇん)と称し、宇宙 の寿命と為します。然し嘆くなかれ。人の歴史たるや、未だ、子元(つ・ゆぇん)の丑会(ちょう・ふぃ)にすぎませぬ。精霊界の歴史でさえ元を一巡せし程 度。大宇宙の営みから見れば、どちらもほんの刹那微細の出来事ということ。 長い長い時間、広い広い宇宙。ふたつの種族の営みが交わることなど、およそあ り得ない位の珍事であったに違いありません。
 詩であらわせば、、


栄光と挫折の歴史 誰がために重ねる
宇宙(そら)駆ける船を繰り出し 果敢に前進
果てなきは欲望の闇 さ迷うは人心
魂の渇きを癒やす 潤いを求むる

輝ける栄光の陰 散らされる命と
流される涙の向こう たどり着く世界に
復讐の連鎖は巡り 混沌の彼方に
魂の迷い路つづく 来たるべき時へと

人々を誘(いざな)う業魔 ささやきと夢想は
幸せの仮面を被って 華やかに近寄り
大胆に宝を奪い 颯爽と消え去る

人々を追いやる狂気 ざわめきと欺惑は
栄光の装いをまとって 厳かに膝折り
真実の心を盗み ひそやかに立ち去る

 といったところ。

 改めて歴史を見るまでもなく、いつの時代でも、浅ましきは人の心。罠は巧妙に仕掛けられ、人はなすすべもなく堕ちてゆくのです。げに悪戯好きは運命の女神。人々を幸せから遠ざける原因はなかなかなくなりません。

 

 


2012年02月07日 - 日本語Stanze練習 - 川辺の曲

2012年02月07日 01時09分32秒 | Stanze

2012年02月07日 - 日本語Stanze練習

脚韵は聨ごとに変わりますがパターンはababです。
詩脚の音数は五四三五四で4聯構成です。
ずっと同じだと単調になるので一部破調になっています。


川辺の曲

あしひきの山辺の里に ひとすじの川あり
両岸の堤路(ていろ)のほとり 立ちすくす樹、二本
かたや松 こなたは桜 相慕ふ 切なり
松の精 見初めし桜 一歳(ひととせ)の変遷

にはたずみ川面(かわも)に映る 艶姿(あですがた)いとしき
青々と装い変わり 涼しげにたたずむ
茶がれてもなほまた風情 秋風のささやき
健気にも木枯らしに耐え 蕾を育む

はなぐはし桜の精が 憧れる常緑(じょうりょく)
一年の変わらぬ姿 貫きたる孤高
魂が、厳しく生きる 清らかな道ゆく
果つるまで寄り添いてこそ 魂の本望

とほつひと松また夢む いつの日か桜に
胸の内伝えてともに 漕ぎ出づる大海(おほうみ)
かなしきは樹の性ならん、縛りあり、我が地に
両の精対岸見つめ ただ見つめ 立つのみ


 この詩は以下に述べる様に、単なる悲恋の詩ではありません。

 漢詩では、松は一年を通して姿を変えないところから信念を貫く崇高な存在として描かれますが、その松に憧れる桜の四季折々に変わってゆく美しさ を、松もまた愛しく思います。樹の精である二人が本体の樹のそばから離れられないのは自ら動く術を持たない樹の性(さが)というべきもので、別に川が二人 を隔てているからではありません。二人の間を川が流れているのには別な意味があります。即ち、川は二人を隔てているのではなく、川を間にする事で二人は繋 がっているのです。松が漕ぎ出す大海とはとりもなおさず目の前の川の先にある物であり、今いる山の里から別世界へと旅立つ事は、気高い魂に相応しい壮大な 夢な訳です。

 翻って現実の世界に生きる我々はどうでしょうか。この二人を笑う事が出来るでしょうか。我々には固い絆で結ばれた相手はいるでしょうか。我々にとって、 その相手と自分をつなぐ川とは何で、松のように大志はあるでしょうか。大海とはどんな世界なのでしょうか。我々は旅立ってゆく事が出来るのでしょうか。


 あなたの心にはどんな答えが残りましたか?

 


2012年01月31日 - 日本語Stanze練習

2012年02月01日 07時29分23秒 | Stanze

2012年01月31日 - 日本語Stanze練習

 Stanzeというのはここでは4行でひとまとまりになった弱強五歩格の詩行のこととします。スタンザともいいます。つまりは平たくいえば4行の定型詩のことです。

 たった4行、と思われる方、たくさんいらっしゃるでしょうか。されど4行、なかなか奥は深いです。
日本語でこれをどう再現するかについては「詩と技巧 10」の日本語詩の詩脚についての考察の結果、アクセントではなく音数で構成する事にしました。これも試みですので、暫く色々と試してみてしっくりくるようなら定着させようと思っています。

 まずは実作で。

詩脚は四四五四五でいきます。
脚韻パターンはababです。

月曜日

週明けいちばんぼけ頭 いきなり凡ミスだ
会議でうっかり生返事 ひっこみつかないぞ
落ち着け静まれ正念場 いまこそ逆転打
闘い終われば帰れるぞ ようやく帰れるぞ

 悪ふざけに見えるかもしれませんが、まいどまいどの残業三昧。漢詩でも残業詩をメインとする私としては、原点回帰的一編でした。さすがに文字数が多いと色々書けます。詩脚をどうとるかで更にバリエーションを期待できます。


次の詩脚は五四三三四でいきます。
脚韻パターンはababです。

おもかげ

白妙のころもにかかる 雫きらめき
音もなくあたりを濡らす 夜半(よわ)の春雨
道すがらおもふは君の 視線眩しき
人知れず想いを秘める 旅のなぐさめ

 蒲原有明などの新体詩系作品の真似です。書きなれないお題で書くのは面白味はありますが骨が折れます。いやほんと。